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スーパー書評「私学と平等への想い」
『学問のすすめ』福沢諭吉(岩波文庫)

2025.08.13

Updated by Yoichiro Murakami on August 13, 2025, 15:03 pm JST

敢えて取り上げることもないほど、よく知られた作品である。最初に余計なことを書くが、岩波文庫など文庫本の活字は、老耄の眼には、眼鏡があっても辛いものだが、岩波文庫には「ワイド版」と称するものがあって、この福澤の名作もその一つである。まことに有難い。

戦後間もなくのNHKのラジオは(蛇足だがテレヴィジョンは無論まだなく、また民間放送局も存在せず、ラジオ波は関東地区ではNHKの第一、第二放送、それに占領軍のためのFEN<WVTR>の三波のみであった)実質的にGHQ民政局の支配下にあり、民主主義を鼓吹するような番組を造らせられ続けていた。中でも、「真相はかうだ」という刺激的で扇情的な番組などでは、戦前の価値観はすべて、「封建的」という、当時として最悪の意味を載せた言葉で葬り去られることになったが、その番組の冒頭に、アナウンサーが荘重な声音で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と宣うのを常とした。これこそ、民主主義なるものの極意を示すものだ。小学生の私でも、嫌でもこのフレーズは覚えてしまい、どこかで、これは福沢諭吉という人の『学問のすすめ』という書物の冒頭を飾っている、ということも知識として蓄えた。

ここで、更に余計なことを付け加えれば、「封建的」という言葉は、もともと「封建制度」に由来し、領主が臣下に土地を給与(封土)し、代償として軍役や税を供出させる社会制度を指す。ヨーロッパでも長く続いており、日本では江戸時代に社会制度として確立された単なる社会制度の一つを表現する言葉で、倫理的、社会的に「絶対負」の意味を持つものとは言い難いはずだが、戦後暫くの日本では、相手の言い分を完全否定、抹殺する「魔法の言葉」として使われたのであった。

さて話を戻す。慶應義塾という空間にいれば、もっと早く実物に接する機会があったのだろうが、恥ずかしながら実物の書物に触れたのは、大学生の頃だった。そして、最初のページで、本当に驚いた。何と、問題のフレーズは、覚えた形で終わってはいないではないか。その後に「言へり」(現在の文庫では新仮名遣いになっているが、文語体の文章に新仮名遣いは、犯罪的とさえ思えるので、敢えて本来の記法に即して記す)とあるではないか。

これは、福澤の主義主張を述べた宣言でもなんでもなく、「世の中にはそう言う人もいるが」という逆接の含みを持たせた言葉だったのである。無論福澤とて、このフレーズを根本から覆そうとしているわけではないだろう。一応前提として認めた、という趣意は伝わっている。しかし、よく読んでみると、要するに人の間に「差」が生じる(生じさせるのは学問の有無である)のは自然なことであり、また人の「分限」という言葉も何回か使われており、無際限な「平等」などは、彼の念頭になかったとも読み取れる。

勿論、明治以前の士農工商の身分に基づく「不公平」と、福澤ははっきり戦っている。それは、問題のフレーズが冒頭を飾る「学問のすすめ・初編」よりも、「同・二編」に明瞭である。彼は言う。「初編の首に」人の平等を述べた文章を引いたが、その意とするところは、人が生まれるのは「天」の采配であって、家族の中で「兄弟相互に睦まじく」するのは、「一父、一母を与にするの大倫あればなり」と同様、人は天を与にする同胞であること、従って「権理通義の等しきを言ふなり」ということになる。この辺りの主張は、当時の天賦人権論を踏襲していると言えよう。言うまでも無く、こうした見解の出発点は、例えばJ・ロックの思想などにあろうが、ロックの場合は「神」とされる根源を、儒教的な「天」に置き換えた形とみることができる。この「二編」では、江戸時代の身分差から来る様々な現象を、ほとんど悪罵に近い表現で記述している。

通常、書物『学問のすすめ』は、冒頭の最も著名な「初編」に始まり、第十七編「人望論」までを合本とし、さらに現在の岩波文庫本は、広く読者を獲得したこの自著に対して、後年福澤が書いた短い文章(『福澤全集』に収録)を「付録」として加え、小泉信三の「解題」、さらに校訂者としての昆野和七の「後記」を載せている。なお、通常はあまり留意されない点だが、「学問のすすめ(初編)」には共著者がいた。福澤と同じ中津藩士の子息で、福澤が見込んで取り立て、後には慶應義塾長にもなった小幡篤二郎である。

大学生時代に評子が初めて本書に接して、「初編」とともに強い印象を持ったのは、当時も、いろいろと物議を醸した第四編「学者の職分を論ず」だった。周知のように、福澤は、西洋の学問を主体として、教育(学問を弘めること)に一生をかけたところがあるが、この論では学者たるものは、官製の組織に取り込まれるべきではない、ということを主張している。この書が発行を始めた明治5年前後に、明治政府は文部省を設け(明治4年)、その管轄下に初等教育、中等教育、高等教育の構図が決まり始め、明治10年には(国立の)東京大学が発足するなど、官製の学問(研究も含めて)制度が確立されて行ったにも拘わらず、実際明治12年に発足した(国立)東京学士院(現日本学士院)の初代院長に就任した(実際には僅か半年で西周に譲っている)ことを除けば、官製の制度とは一切関りを持たなかった福澤の生き方が、その主張を裏書きしていると言えよう。

現在では、この福澤の文語文さえ、親しみ難いと感じる人が多いようだが、むしろ、彼の文体は、明治初期に書かれたものとしては、非常に判り易く(だからこそ、当時稀代のベストセラーになったのだろう)、心地よいリズムのある文章である。未読の方は、一度披見してみては如何。今でも得るところあり、と感じられるだろう。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。

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