December 11, 2025
yomoyomo yomoyomo
雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。
ティム・ウー、打診きたけどけっぽってしまいました。だってティム・ウーの本ってすべて「もうすべて国家が仕切ってるんだよ、大企業が仕切ってるんだよ、自由なんて思ってる君たち、甘ちゃんすぎ、あらゆる抜け道はふさがれていて、もうどうしようもないから、みんなかえってクソして寝ろ、あ、かーすかに希望のあるところも……でも無理だから期待するだけ無駄、じゃあねー」というだけで、何も提言がないんですもの。(山形浩生)
SF作家のコリイ・ドクトロウと法学者のティム・ウーは、トロントで同じ小学校に通っていました。テーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』やAppleのコンピュータへの情熱を共有した二人は意気投合しました。しかし、年月が経つうちに二人の交友は途絶えてしまいます。
およそ20年後、ウーがドクトロウに連絡をとってきました。ドクトロウの述懐によれば、「彼からのメールの一行目は、僕が9歳のとき、彼がクロスボウで僕のドワーフを撃ったことを心から謝るものだった」そうです。
先月、Netflixの人気ドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』の最終章となるシーズン5の配信が始まりました。これのシーズン1は1983年が舞台で、主要な子供組は12歳という設定なので、ドクトロウとウーの二人と同い年ということになります。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、ウーは当時のドクトロウをリーダー的存在と見ていましたが、気性が激しく愚か者を許さない性格のために、時に上級生からのいじめに遭うこともあったそうで、そういうところも『ストレンジャー・シングス』の少年たちと重なります。ドクトロウとウーの二人も、彼らのように『ダンジョンズ&ドラゴンズ』を興じ、そしてApple IIでプログラミングを学んだのでしょう。
ウーが順調に法学者への道を歩んだのに対し、ドクトロウは高校をドロップアウトしたこともあってか、前述の通り二人は一度疎遠になりますが、ウーが「我々にとって解放と自己成長のための機械であり、可能な限り楽観的な視点で捉えていた」と振り返るコンピュータへの情熱を二人が失うことはありませんでした。
後にドクトロウは電子フロンティア財団でデジタルフリーダムの問題に取り組みながら、人気ブログBoing Boingの看板寄稿者となり、SF作家としても成功しました。一方のウーは、名門コロンビア・ロー・スクールの教授になり、オバマ政権で連邦取引委員会(FTC)の特別顧問、そしてバイデン政権では国家経済会議(NEC)でテクノロジー・競争政策を担当する大統領特別補佐官を務めましたが、そうした仕事よりも「ネットワーク中立性」という言葉の発明者として知られているかもしれません。
さて、この連載でも何度も名前が引き合いに出されるドクトロウとウーの二人が、今年の秋に時を同じくして新刊を出しましたので、今回はそれを取り上げようと思います。
まずドクトロウの『Enshitification』ですが、「AIもメタクソ化の道を辿るのか、あるいは「普通の技術」に落ち着くか」など、この連載でも何度も参照してきたドクトロウの「メタクソ化(enshitification)」論の集大成と言えます。ドクトロウは、自身のブログであるPluralisticや電子フロンティア財団のサイトなどでこの話題について数多くの文章を公開しており(そのかなりの部分は、heatwave_p2p氏のブログ「P2Pとかその辺のお話R」で日本語訳を読めます)、なぜわざわざ本を書いたのかと前記のニューヨーク・タイムズの取材で問われたドクトロウは、「書籍は長い『ゼルダの伝説』のゲームのセーブポイントのようなものだ。記事は個々のクエストに相当するが、書籍こそがそのポイントまでのすべてを結晶化する場なんだ」とギークらしく答えています。
かつてオープンで、ユーザーに力を与えたインターネットプラットフォームが、現在ではユーザーを疲弊させ、時に危険に晒しすらするまでの崩壊のプロセスを、ユーザーに価値を提供しながら同時に囲い込み(ロックイン)を行う第一段階、ユーザーが離脱しにくくなったところで締め付けを強め、ユーザーから搾取した情報で企業顧客に報いる第二段階、そして企業顧客を囲い込んだところで収益性に特化した結果、企業顧客を含めサービスの質は全方位的に悪化し、一方で投資家(株主)や経営陣だけが潤う第三段階という「三幕構成の悲劇」としてドクトロウは描きます。TikTok、Google、Apple、Amazonなど、メタクソ化したビッグテックの実例に事欠かないのが彼の強みです。
なぜこの10年あまりでプラットフォームは特に腐敗してしまったのか、ドクトロウはテック企業に課せられた「規律(discipline)」が失われたためだと見ています。具体的には、競合他社を買収することが許可されるようになり(例:FacebookによるInstagramの買収)、独占的な市場支配が可能になった「競争という規律の喪失」、またそれを可能にした規制当局の怠惰による「規制という規律の喪失」、かつてテックワーカーは希少で価値があったのでプラットフォームの改悪に対する防波堤になっていたが、近年の大量解雇や非組合化により経営陣が彼らを恐れなくなった「労働者による規律の喪失」、そしてユーザーロックインや消費者の技術利用方法の制限によりプラットフォーム間の移行を極めて難しくする「相互運用性という規律の喪失」がメタクソ化を可能にしたのです。
逆に言えば、この四つの規律の回復をドクトロウは解決策と見ているわけです。『Enshitification』でもテックワーカーの組合結成の重要性が強調されていますし(「経営者じゃなくて労働者のくせに組合馬鹿にする奴は馬鹿」というのはワタシ自身も強く思うところです)、消費者に選択肢を提供する「修理する権利」や政府を突き上げる草の根組織の重要性も言及されています。
カレント・アフェアーズでアレックス・スコピックは、ドクトロウの提言は資本主義の根本的問題を解消しない対症療法に過ぎず、我々が直面するクソの山の大きさを考えれば、もっと大きなシャベルを提供してほしかった、と不満を述べています。ドクトロウの解決策の主張で、もっとも「大きなシャベル」になりうるのは、間違いなくビッグテック企業への反トラスト法の適用でしょう。『Enshitification』でも、連邦政府によるIBMに対する12年に及ぶ法廷闘争は重要なトピックとして語られており、一方で1980年代以降、アメリカの政治家が反トラスト法の適用を徐々に放棄してきたことを強く批判しています。
さて、ここで話をバイデン政権でリナ・カーンFTC委員長とともにビッグテック企業への反トラスト法の適用を目指したティム・ウーの『The Age of Extraction』の話に移りたいと思います。
「収奪の時代」という書名、「いかにテックプラットフォームが経済を支配し、我々の未来の繁栄を脅かしているか」という副題を見るだけで、テックプラットフォーム企業がユーザーから価値を収奪しているという問題意識をドクトロウとウーが同じくしているのが分かります。
例えば、ウーはニューヨーク・タイムズに寄稿した「ビッグテックの略奪的なプラットフォームモデルが私たちの未来である必要はない」で、2000年代初頭には誰もがインターネットによって豊かになると信じていたが、その予測は外れ、富と権力が分配されず、プラットフォーム企業がその大部分を独占したことを指摘した上で以下のように書いています。
それでも我々は、あの頃の楽観主義と機会の約束を取り戻せる。ゼロからやり直すことはできなくとも、適切な法律と政策によって、インターネット経済の可能性を取り戻すことは可能だ。その重心をシフトさせ、少数でなく多数の者の活動とイノベーションを奨励し、報いるのだ。これこそより公平で、よりダイナミックな経済への処方箋である。 巨大テックプラットフォームが不可欠な存在となり、多くの経済活動におけるデフォルトのインフラとなったことは否定できない。しかし、不可欠であることが、他者から富を収奪する無制限の権力を意味してはならないのだ。
当たり前ですがウーのほうがドクトロウよりマクロ経済寄りで、テック企業だけでなく産業全般を議論の対象としており、アメリカ経済は価値創出(production)から価値奪取(extraction)に移行したという資本主義の構造変化についての認識の下での制度論、つまりは彼が考える「適切な法律と政策」の分析がなされています。
レントシーキング化への批判に関しても、資本主義のインセンティブ構造の変質が主因とウーは見ており、それを最適化する金融化の問題の話は、ドクトロウがダナ・ボイド、リー・ヴィンセルと行った鼎談における、ベンチャーキャピタルや投資構造、株主至上主義といった金融政策が、独占が不可避となる条件を作り出したというダナ・ボイドの指摘、また彼女が「ジェンガ政治(Jenga Politics)」という言葉で表現する、連邦政府機関などの社会インフラが予算削減の波に晒されることで、ますます不安定になる状況の話がウーの分析に重なると思いました。
Lawfareでのインタビューにおいて、自著とドクトロウの「メタクソ化」論との関係について水を向けられたウーは、「メタクソ化」や「収奪」に二人が本能的に反発を覚えるのは、自分たちが若い頃、テクノロジーと未来が過去より「常に良くなる」という感覚が結びついていたからだと語ります。もちろんすべてが常に良くなると考えるのは理想主義的すぎますが、物事が後退していくのは、彼らのような進歩主義者にとっては、何かが間違っているという警告サインなのです。
ウーは新刊の『The Age of Extraction』を、『マスタースイッチ』、『The Attention Merchants』に続く三部作の三作目と考えているようで、ワタシなどは未邦訳の『The Attention Merchants』よりも『巨大企業の呪い』が三部作に入るべきと考えてしまいますが、それはさておき、ウーは『マスタースイッチ』において、多くの産業に当てはまるライフサイクルについて論じています。
つまり、新しいテクノロジーを武器にした自由闊達な産業が、やがて数社に統合されて独占され、しばらくは黄金期を迎えるが、その後とても守勢的となり、停滞・衰退するサイクルです。彼はマクロ経済的な側面で「独占による停滞」というメタクソ化について論じていたとも言えるかもしれません。
つまり私は、魂のために戦っているんだ――大げさに言えば、ここアメリカの魂のために戦っているのだ。それは進歩の魂であり、物事が良くなる魂であり、悪くなった時に人々が抗議する魂だ。そして何かしらの継承を守ろうとしている。つまり本当に必要なのは、状況が悪化した時にそれを挑戦できる仕組みなんだ。
心を動かすアジテーションですが、続けて現代のプラットフォームは主人公症候群に苦しんでるように見える。つまり出しゃばりすぎでユーザーを仕切り過ぎであり、プラットフォームは「収奪」の場ではなく(電力システムのような)かつての公共事業のような存在になるべきだと断じます。
それに対して、プラットフォームを公益事業化するなら、それは反トラスト法による解決策や競争促進策とは正反対ではないか、また、反トラスト法という「構造的解決策」よりも課税による再分配のほうが良い解決策ではないかと的確な質問が投げかけられ、それに対してウーが反論しているのがインタビューの読みどころだったりします。
反トラストの再活性化が大きな主張の一つである『The Age of Extraction』について語る上で、FTC委員長だったリナ・カーンは最良の相手だと思います。ニューヨーク公共図書館で行われたウーとカーンの対談においても(余談ですが、『Enshitification』刊行を受け、ドクトロウもカーンとブルックリン公共図書館で対談を行っています)、課税と反トラスト法のいずれがより良い解決策かの議論がありますし、テックプラットフォームが公益事業になるべきというのは、反トラスト解決策や競争的な解決策とは正反対であり、政策的な矛盾があるのではないかとカーンは鋭く切り込んでいます。
個人的に面白いと思ったのは、FTC委員長だったリナ・カーン自身が、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスなどのテックオリガルヒが持つ巨大な富と力は、もはや反トラスト法では解決できない領域にあるのではないかという疑問を述べ、なぜ反トラスト法に固執するのかと問うているところです(もう彼ら、並びにビッグテックは手が届かない「大きすぎて気にしない(too big to care)」存在だというのは、カーンの偽らざる実感なのかもしれません)。
それに対してウーは、高水準の税法を可決するよりも反トラスト法を制定する方が政治的な実現可能性があること、「課税と再分配」よりも構造的な解決策を好むという信念、そしてスタンダード・オイルの解体やAT&Tの分割など、過去の反トラスト法の歴史的成功を挙げて反論しており、二人の緊張感のあるやりとりが見られます。
反トラスト法の歴史的成功については『The Age of Extraction』と『Enshitification』の両方で論じられていますが、果たしてそれがビッグテックにも通用するのかについては、マイク・マズニックの「あんたの反トラスト訴訟がTikTokが存在しないふりをするのが前提なら、そりゃ負けるよ」という厳しい批判もあります。
このTechdirtへの寄稿は、FTCがMetaを反トラスト法違反で訴えた裁判で、米連邦地方裁判所がFTC側の主張を退けたことを受けて書かれたもので、それに先立つGoogleの反トラスト裁判で、独占と認定されつつも分割を免れ、限定的な救済措置にとどまった判決とあわせ、とにかく裁判に時間がかかり、裁判所が判決を下す頃には、競争上の脅威が完全に変化していることが多く、変化が激しいデジタル市場に向かないため、反トラスト法はデジタル市場で競争を促進する手段として、情けなくも脆弱なツールに過ぎないとマズニックは主張します。
その上でマズニックは、リナ・カーンやティム・ウーのアプローチは、大企業を罰すれば魔法のように競争が促進されるという理論、一種の「反トラスト版トリクルダウン経済論」だと批判します。
特にMetaに対する裁判において、Metaが独占企業だと主張するために、Metaの競争相手をTikTokやYouTubeではなく、友人や家族間の「個人的ソーシャルネットワーキング」としてSnapchatなどMetaよりも遥かに小規模な相手に絞るという欺瞞的なアプローチを痛撃し、そして判決に怒りをあらわにしたウーのニューヨーク・タイムズへの寄稿に対しても、Metaが独占企業であることの確信がウーの中の「印象」「雰囲気」でしかなく必要な実証を怠っている、と批判は辛辣を極めます。
ここまで書かれるとウーだけでなくリナ・カーンにも反論してほしいところですし、できればカーンにはFTC委員長時代の体験を踏まえた本を書いてほしいところです。ただ彼女は、先ごろニューヨーク市長選挙に当選したゾーラン・マムダニの移行チームの共同代表に指名されており、それ自体は選挙中から「中小企業とのつながり」を大事にするマムダニを高く評価していた経緯から不思議ではないのですが、いずれ彼女自身も政界に打って出るのがなんとなく予想できるので、そうした書籍を期待するのは難しいかもしれません。