December 26, 2025
八十雅世 masayo_yaso
情報技術開発株式会社 経営企画部・マネージャー 早稲田大学第一文学部美術史学専修卒、早稲田大学大学院経営管理研究科(Waseda Business School)にてMBA取得。技術調査部門や新規事業チーム、マーケティング・プロモーション企画職などを経て、現職。2024年4月より「シュレディンガーの水曜日」編集長を兼務。
「ビジネスパーソンも美意識が大事」「アートで美意識を鍛えよう」という言葉を目にすることがあります。もしあなたが、現代アートを見る動機として「美意識を高めたい」という思いを抱いているのだとしたら、私は少しだけ慎重になったほうがいいかもしれない、と思っています。現代アートが好きな立場としては、どんなきっかけであれ、現代アートに触れてもらえるのは素直にうれしいことです。ただ、「これを見れば美意識が鍛えられるはず」と期待しすぎてしまうと、拍子抜けしてしまう可能性もあります。あらかじめ、その点だけは正直にお伝えしておきたいのです。
「美意識」という言葉は、とても便利で、気軽に使われがちです。でも、いざ「それって何?」と考えてみると、意外と一言では説明できません。
もしこの美意識が、「倫理や価値観、またそれにもとづく振る舞い」を指すのであれば、前回記事(現代アートから「企業倫理」への問いを得る)で述べた通り、現代アートは倫理的な示唆を与えてくれます。その意味では、「美意識を高めたい」という気持ちに、多少なりとも応えてくれるはずです。一方、「目に見える美しさへの感性」、つまり視覚的な心地よさや華やかさを期待している場合、現代アートはあまり頼りになる存在とは言えません。
先の記事(そもそも「現代アート」とはなにか)の通り、現代アートの要素をざっくり言えば、「第二次世界大戦後から現在までに制作されている」「新たなテーマを掲げている感がある」の2つです。ここで大切なのは、現代アートが必ずしも「美」を扱っているわけではない、という点です。日本では「Art」を「美術」と訳すこともあり、「美術館には美しいものが並んでいるはず」と思われがちです。しかし実際には、目を背けたくなるような題材と、真正面から向き合う作品も少なくありません。例えば、現代アートの代表的な作家のひとり、ダミアン・ハースト氏は、ホルマリン漬けにした動物の死骸を使った作品を生み出しました。そこにあるのは、日常生活の中ではつい忘れてしまいがちな「生」と「死」の生々しさです。ただし、「見た目が美しいか」と聞かれたら、多くの人は「正直、気味が悪い」と答えるのではないでしょうか。
このように、視覚的な美しさだけを求めて現代アートを鑑賞しに行くと、期待はずれに終わる可能性があるのです。
ここで、少し立ち止まって考えてみたいことがあります。「美しさ」とは、そもそも何なのでしょうか。「目に見える美しさへの感性を高めたい」という言葉の裏には、「どこかに、たどり着くべき本当の美しさがあるはずだ」という前提が潜んでいるように感じます。ゴールがあって、そこへ向かって鍛錬していけば、手に入るものがある——そんなイメージです。
もしこの考え方に少しでも心当たりがあるなら、「美学」という学問に触れてみるのも一つの手です。例えば、美学者の佐々木健一氏の『美学への招待』など、おすすめです。そして、あなたは読み終えたとき、おそらくこう思うはずです。「美しさって、そんなに簡単に一つにまとめられるものじゃないな」と。
美しさは、人によっても、場所によっても、時代によっても変わります。同じ家族の中ですら、「これはきれい」「それはちょっと苦手」という感覚は食い違います。海外では評価されているものにピンとこなかったり、10年前に好きだったものが、今見るとどうにも古臭く感じたりすることもあります。それは、アートの世界でもまったく同じです。
少々現代アートからは外れて近代の話をしますが、みなさんは、サルバドール・ダリをご存じでしょうか。ダリは、20世紀の芸術運動であるシュルレアリスム(超現実主義)を代表するスペイン出身の画家です。特徴的な上向きに細くねじった口髭をもつ、ダリのポートレート写真を、目にしたことがある方は少なくないでしょう。ダリは無意識下のイメージを表現しようとしました。そのため、ダリの作品には、物体がチーズのように溶けているなど、まるで夢の中のような不思議さがあります。
ここで私自身の体験を1つご紹介させてください。20年ほど前、美術館で絵画を鑑賞していたときのことです。ある展示室にはダリの作品が並び、その次の部屋には印象派の絵画が展示されていました。その境目で、私の隣で鑑賞していた見知らぬ初老の男性が、連れの女性にこう言ったのです。「ああ、やっと本物の芸術が見られる」
おそらく彼の中では、「印象派こそが本物で、ダリはそうではない」という感覚があったのでしょう。日本では印象派が長年親しまれてきましたから、王道で、ゆるぎなく美しい存在として受け取られているのかもしれません。けれども、印象派が誕生した19世紀後半、まだ世間では写実的な絵画の方がメジャーであり、印象派の作品は「描きかけの絵」と酷評されていました。当時、印象派は前衛的な存在であり、一般的な美からは外れていたのです。それが、今や遠く離れた異国の地・日本において「美しい絵画の代表格」として扱われている。その変化を思うと、なんとも不思議な気持ちになります。
それと同時に、男性が自分の受け入れられない作品を「偽物」としてしまったことが、私の心を少々ざわつかせました。
過去、ナチス・ドイツによって「退廃芸術」と烙印を押された作品群がありました。“ナチス・ドイツは英雄的、写実的な描写を基調とする古典主義やロマン主義の芸術を「大ドイツ芸術」として賞賛し、その一方でより近代的な価値観に立脚したモダニズム芸術は、ユダヤ人やスラブ人など東方の「劣った血統」の人種によって、ありのままの自然や古典的な美の規範を歪めた退廃的な芸術であるとして容赦なく排斥した”(暮沢剛巳『現代美術のキーワード100』)といいます。“ナチス・ドイツの公式見解によれば、印象派以降の近代美術はすべて古典的な規範から逸脱した退廃芸術に他ならなかった”、つまり、ナチス・ドイツにしてみれば、印象派もダリも「本物」ではなかったのです。
自分が理解できないもの、好きになれないものを、ただ拒絶する。その姿勢は、現代の感覚から見ても、あまり健全とは言えないでしょう。
私は、人と一緒に現代アートを見て、感想を話し合うのが好きです。「そんな見方があったのか」と驚かされることが、何度もあります。そうした経験を重ねるうちに思うようになりました。美意識ーー「倫理や価値観、またそれにもとづく振る舞い」であれ、「目に見える美しさへの感性」であれーーというのは、新しく身につけるものというより、もともと自分の中にあるものなのではないか、と。
ただし、それを自覚している人ばかりではありません。現代アーティストは、自分の美意識を強く自覚し、それを作品という形で差し出します。私たちは、その剥き出しの美意識を前にして、自分の中に何があるのかを探ることになるのです。ときには共感し、ときには戸惑い、首をかしげる。その過程で、「自分は何を美しいと感じるのか」が、少しずつ輪郭を帯びてきます。人によっては、それを「美意識が鍛えられた」と感じるのかもしれません。けれどそれは、誰かが決めた正解を覚えることではありません。資格試験の勉強のように、基準やルールをインプットする行為とも違います。むしろ、自分の内側に目を向け続ける、地道な作業に近い気がします。
だからこそ、どうしても受け取れない美意識に出会うこともあります。そんなときは、「そういうものもあるのかもしれない」と、いったん脇に置いておけばいいのです。理解できないからといって、無理に否定する必要はありません。近づけないなら、そっと距離を取る。それも、現代アートとの健全な付き合い方のひとつです。どうか、排他的にならないことだけは、忘れないでいてほしいと思います。
次回は「アートは直感的」といわれることについて取り上げます。