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やがて訪れるデータ・エコノミー社会の将来像〜ビッグデータだけでは見えない情報社会の真実〜[第3回]森 祐治氏「データドリブンな社会では国のあり方も変わる」(1)

2013.03.07

Updated by on March 7, 2013, 17:30 pm JST

現実世界と情報世界の対比について考えて行くと、経済における実体経済と金融という枠組みに似た形で事態が進んでいることに気づかされます。金融取引の世界においては、現実のモノに基づいた経済から、金融工学によって引きはがされたマネーが流通し、より大きなパワーとなって、それが逆に実体経済に影響を与えるという仕組みになっています。

金融経済が情報経済の先行モデルであるならば、両者の共通点と違いを整理して考えることはデータ・エコノミー社会の議論において、必要ではないでしょうか。金融化が進んだことによって世の中に起きた事象を振り返れば、社会が進もうとしているこれから先を見通すための良いヒントが得られるはずです。

さらに、そのようなデータ・エコノミー社会においては、人間自身の情報との接し方やインフラの位置付け、制度設計のあり方も変化するでしょう。この難しい問いに対する思考のきっかけを得るため、金融経済を先行モデルとして見据えつつ、ITビジネスからコンテンツビジネスを皮切りに、政策検討サポートまで幅広い領域で活躍されている森 祐治氏(電通コンサルティング)に、お話をうかがいました。

金融とデータ中心社会

──これから到来するデータ社会といわれるものの、実体はどのようなものなのでしょうか。革命と言えるほどのものか、そうではないのか、それもまだ曖昧です。大きな枠組みでの社会論だけではなく、もっと引き寄せたところで議論できないでしょうか。

201303071730-1.jpg森氏:最初に思ったのは、実体経済と金融経済をメタファーにした世界観が、情報化という流れで産業の中でも生まれるだろうということです。

現金に対して金融の世界では、証券・債券があり、その上でホールセールという形でボーダーレスに流通する、業界内通貨のような仕組みがあります。それに近いのものが、普通の産業や生活においても、情報の分野でリアリティを持ってくる世の中になるという印象があります。

現在、リアルな経済といわれるものでも、「モノの経済」と「サービスあるいはコンテンツ=無体物の経済」に分かれています。無体物の経済は様々な形で私たちの生活にもう入ってきています。

したがって、実体と情報についての議論は、これまでまったくなかったのではなく、すでに議論をしている。壁が剥がれて向こう側が少しずつ見えているという感覚のようなものはあります。

ただ、断片的に見え隠れしているものが経験や体験、言語として、つながっているわけではないので、表現が抽象的・哲学的にならざる得ないところがあります。

──感覚的に表現すれば、経済において実体がすべての軸の中心になっていたところから、軸が金融の側へ移ってきた。例えば、デリバティブ(金融派生商品)が実体の価格を決定するようになり、これが実体経済を大きく左右するようになって来ました。

森氏:先物取引のように、取引価格は高騰していても、現実世界で豊作になることで需給ギャップが壊れて値崩れが起き、逆ざや利益狙いを張っていた人間だけが儲かるといった、想定外のことは起こりうるでしょう。金融取引のメカニズムと実体経済を橋渡しして適正化を促すフィードバックループはありますが、フィードバックの仕組みがスマートに働くとは限りません。

ただ、実体と派生、一方がもう一方を最終的に規定しているわけではありません。双方向の働きかけがある状態です。だから、情報だけで形作られたメタレベルの世界の支配下に現実の世の中が置かれるという恐怖感はナンセンスだなと思います。

今、出回っている多くの情報論、とくに個人情報に関する話は、こういった過剰な恐怖感によってドライブされているところがありますが、ちょっと違うのではないでしょうか。

──ふたつの世界のつながりやフィードバック構造をどう把握して、どのように管理するかという論点は金融でも規制当局での重要命題のひとつです。大きくは「規制」という枠組みでの議論になり、マーケット構造の修正や、流動量をコントロールという手段になりますが、情報においても同様の流れになるのでしょうか。

森氏:そこは難しいところです。金融における規制の多くは、特定の行為を禁止するもの。物財とインフォメーションというメタファーでいうなら、物財をコントロールするものです。市場の総量規制や、課税でいうと外形標準課税といったバルクでの規制は最終手段になります。投資家保護という視点では、実体に近いところに対する行動のコントロールであって、抽象度の高い規制はないような気がします。

リーマンショックの原因として、アメリカにおいてデリバティブの構造の内部が見えなくなっているという点にでは、一部の経済学者が言うようにトラブルが起こるのは事前に予想された事実で、いわば見えていた未来でした。

ただ、予想可能だったからといって、対応としての規制が現実に出来ているかというと、アメリカの法規制は厳しくなったものの、証券会社の流動量を監視するといった取引の厳密化という程度に過ぎません。本質的な中身に係る規制ではない以上、リーマンショックのようなことは、形を変えてまた起きる可能性はあるでしょう。

──金融ではデリバティブ取引へのクリアリングハウス(主に金融機関を相手に金融取引の清算を専門で担う機関)を整備することなどで、取引の実体性を担保しようとの動きが起きています。データ・エコノミーにおいても同様の議論は起きうるでしょう。例えば、実体との紐付きがあまりに不明な素性のわからないデータは、取引対象とできないといったことになると予想されます。現状でも市場調査などを行う際に、対象データの実体性や信頼性を検討する上で、調査手法や作業手続きについての議論がついて回ります。

森氏:例えばメタバース(インターネット上の仮想空間)において、不動産取引を行ったり仮想通貨を発行したりすることが活発に行われ、損をする人間も出てきました。ですが、メタバース上での損というのは、リアルな世界に引き寄せた際に実体化することなので、メタバース内で塩漬けにしてしまえば損ではないと言えます。

でも僕ら自身は、現実世界で生きているので、実体に引き寄せないと最終的な価値判断は出来ません。投資家が言うところの損切りをするからこそ、損得が明確になる。何かの価値は相対的に決まるものですが、メタバースにおける価値を何らかのタイミングで実体経済に引き戻すところで実態としての損得が生じるわけです。

このように"向こう側の話"を、現実との対比を抜きにして、向こう側だけで追いかけていくのは、難しいのです。

──金融でさえも、まだ現実とのつながりがそれだけ強いということを考えると、情報やデータも独自のエコノミーを作るというところまでは行かないのかもしれません。少なくとも、まだイメージがありません。

森氏:純粋にネットの中でしか存在しないものは、SF的世界観の中では語られていますが、実際にはゲーム運営会社などのリアリティをともなった、介在する人たちがないと存在し得ない。

そういう意味ではビッグデータへのネガティブな反応についても、潜在的な恐怖感が生み出してしまった妄想に近いのかもしれません。データという怪物を手懐けようとしている一方で、実体とは違うビッグデータ議論がされているような気がします。

いろんな人と話していると「ビッグデータをやるためには統計学がわかっている人が必要」という話を聞きますが、実際には統計学がわかっていればビッグデータは要らないはずです。統計学ではサンプリングで、有意なデータを得られるのですから。

私の認識では、限られたデータの中から危険率が5%以下のデータを棄却するか否かという判断を行うのが統計学であって、5%以下のノイズの中から違うパターンを拾うということがビッグデータの意義のはずです。

だから、ビッグデータ系のアナリストをやっている人間は、統計ではなく多くが応用物理出身の人が多いです。彼らはノイズの中から周期性や、特異点を発見するのが上手いので、統計学的な、いかに不要なデータを棄却するかとは逆のベクトルです。ビッグデータの面白さってそういったところにあると思います。

──公文先生も、新たなパラダイムの確率論によって、従来とは違う視座の獲得ができることの意義を強調されていました(参考:本連載第1回)。ただ、ビジネスの現場では、ある程度の母体の大きさがないと分析精度が出ないことがあるのは事実です。

森氏:公文先生がおっしゃっているのは、おそらくもっと長いスパンだとか、もっと細かいレベルで、弱い構造性があるようなものが顕在化する可能性があるという点での、ビッグデータの面白さなのだと思います。

データを使うことで、小さな可能性を先読みできるようになるというのは間違いありません。

少し本質から外れますが、例えばソーシャルヒアリングによって新しいトレンドを発見しようとした人が、「おもしろい」という言葉でテキストマイニングを行っても、まったく面白いものが見つかりません。

これは、そもそもの発想が間違っていて、何かを指して皆が面白いって言い始めたら、それはすでにメジャーなものになっていて「きざし」ではありません。誰かが面白いと言う前のものをピックしなければならないはずなので、目的と手段が矛盾しているわけです。

でも、そういうレベルの議論は山のようにあり、データに基づいてルールや仕組みを決める際には、設計する側、特に制度設計する側にはかなり精緻な議論が求められるでしょう。

──何かが盛り上がりつつあるというのは、データでいうとボラティリティが起きているということです。つまり、ヒット商品は特異点だと言えます。

森氏:やはり仕掛けないとヒットは出ない。セレンディピティを作り出さないと無理なのです。

どこかの地方のラーメン屋さんで提供されている、非常にユニークな商品っていうのは、それだけでは大ヒットにつながりません。それを商品化してコンビニのプライベートブランド商品にまでならないと、ヒットは不可能です。

そういった「ユニークなもの」をピックアップするだけなら、Twitterやブログをデータとして利用することはできます。でも、そこから拾い上げたものを多くの人たちにとってリアリティのある存在にするためには、誰かが投資をしないといけない。

未来を作るためには誰かがコミットしないといけない、ということを強く思います。誰かが良い物を見つけたら、あとは自動的に世の中に広がって行く、という均等な社会を想定することは、実は20世紀の経済学における理性的で合理的な主体による市場、という発想に基づいたものです。

皆が合理的に動けるのならば、そもそも世の中はややこしい話にならないし、ロジカルな議論で問題は片付いていく訳です。怪しげな商品は売れないわけです。金融商品もリスクとリターンに応じたフラットな仕組みに整理されたつまらないものになっているはずです。ですが現実はそうではない、というのが非常にわかりやすい説明だと思います。

(2)人間の認知が情報化に追いつかない に続く

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