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村上陽一郎

スーパー書評「漱石で、できている」3
松尾芭蕉『おくのほそ道』 文芸の粋、江戸知識人の教養

2019.10.28

Updated by Yoichiro Murakami on October 28, 2019, 07:00 am JST

村上陽一郎

これほど数多くの評伝・書評が重ねられてきた作品も少ないでしょう。ここでは、余り既成の研究を気にせずに、自分なりの読み方を披露することに徹したいと思います。作者の芭蕉についても、関連する書物は汗牛充棟の有様ですが、便宜上簡単にその生涯を振り返っておくことから始めましょう。松尾家は、忍者の里として知られる伊賀の「無足人」と言われる身分でありました。「無足人」とは、苗字帯刀は許されるという点で、武士の身分ですが、俸禄を受けることはできず、日常は百姓と同じ、自給自足であり、一旦緩急あるときは、郷土の藩のために働く義務がある、そんな身分です。郷士とあまり区別がつかないところもあります。当時の伊賀は藤堂新七郎良精家の支配するところでした。この藤堂家というのは、稀代のオポチュニスト藤堂高虎の系統で、高虎は、最終的には家康に追従の限りを尽くし、外様でありながら、譜代扱いをされたので、「別格譜代」の名称は彼のために造られた、と言われているほどです。自分の屋敷のなかに、なんと東照宮を祀っています。

芭蕉の幼名は金作、のち半七、あるいは藤七郎とも。藤堂新七郎家に仕えたときは、おそらく十九歳前後でした。出仕の身分は軽輩で、一説によれば、料理人、あるいは台所仕えであったといいます。藤堂家の嫡男良忠は芭蕉の二歳年長、若くして俳諧に親しみ、北村季吟の教えを受け、蝉吟の名がありました。この頃芭蕉は俳号を宗房としたようで、彼はこの蝉吟から俳句の手ほどきを受けた、とも、あるいはすでに俳句の嗜みがあったから、俳諧趣味の藤堂家の若君に仕えたとも言われています。いずれにせよ当時のことです、この若い二人の間に、衆道の関係が生まれたことは想像に難くありません。宗房の名乗りも、良忠の別名宗正の一字を貰った結果である、とも解されます。この頃宗房の名で詠んだ、芭蕉最初の発句が残されています。ところが、この若君が二十五歳で夭折してしまうのです。その死に際して、宗房(芭蕉)が、高野山に良忠の遺髪を納めにいく使者の役を与えられたことからも、良忠との密な関わりが藤堂家からも認められていたことが判ります。宗房の失意・落胆は非常なもので、世をはかなんだ末に遁世を目指し、致仕を申し出るのですが、当初許されず、ほとんど無断・出奔の形で藤堂家を辞することになります。因みに、後の名句「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」には、蝉吟への思いも籠っている、と解する識者もあります。この厭世感は、尊敬措くあたわざる先輩の西行、あるいは能因(平安中期隠棲の僧で歌人)などにも繋がるもので、後の風狂の旅、乞食の旅の遠因ともなりました。また何時と明確にはできませんが、剃髪した、ということもあり、「おくのほそ道」行では、曽良も髪を下ろして、乞食僧の二人旅の形をとることになります。暫くは京都に隠棲して、漢学、歌学などの教養を身に着け、季吟にも教えを受けたのでしょう。

もっとも反面で、伊賀在住の頃、後「寿貞尼」の名を残す、同郷の女人と親しくなった形跡があります。後に江戸へ東下した際、その女性と同棲していたと思われます。二人の子をなしたという説、いやそれはもともと女性の連れ子であったという説、色々あるようです。雌伏十年ほどを経て、彼は故郷の伊賀を捨てて、江戸へ移り住むことになり、俳諧師としてのキャリアを始めますが、その際も陰に陽に、藤堂家からの経済的支援を受けていたようです。藤堂家は不幸続きで、長男良忠(蝉吟)死去後、次男が良忠の未亡人を娶って家督しますが、これも夭折、結局良忠との間に設けた長男良長が幼くして家督するのです。芭蕉から俳諧の手ほどきを受けた良長は、俳号を探丸と称しました。これを以てしても、致仕後も、芭蕉と藤堂家との繋がりは絶えていなかったことが判ります。一方芭蕉は、この頃俳号を桃青とし、この俳号は「はせを」(芭蕉)を名乗るようになっても、折に触れて使い続けることになります。つまり、彼の意識としては、松尾姓とは縁を切り、「芭蕉庵桃青」という俳諧師として立っていこう、としたのではないでしょうか。

話が先走りました。江戸に出た芭蕉は、日本橋に居を構え、俳諧師として、少しずつ地歩を固めていきます。弟子も増えました。しかし、三十七歳のとき、突如彼は再び世捨て人のように、深川に移り住み、家族とも別れて、一人住まいを始めます。この住まいは当初泊船堂と名付けられました。例によって中国の古典杜甫の『喜観即到復題』という詩の一節「泊船悲喜後」から採ったものです。能因も自らの庵にこの名を冠した故事があります。しかしこの住まいの表に弟子から送られた芭蕉が、みごとに育ったので、誰言うとなく「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、芭蕉自身もそれを受け入れることになります。ただ翌々年大火で庵は焼失、甲斐に一時避難、弟子たちが勧進帳を回して再建に成功します。この頃から、彼はしきりに旅に出ます。そして四十六歳にして、いわば最後の旅に出立。これが『おくのほそ道』になりますが、彼が旅の途中、備忘録のようなものをつけ、折に触れて、発句などを書き記していたことは確かですが、一つの纏まった作品として執筆を始めたのは、旅が終ってかなり時間が経った後であったと推測されます。一応生前に、完成稿が成ったことは、彼自身が清書を依頼していた(素龍本として今に残る)ことでも明らかですが、実際に刊行されるのは没後八年を経た元禄十五(一千七百二)年のことでありました。

さて、この書評で最も強調したかった点は、自分の不明の告白と表裏をなしている論点なのです。というのは、高校生のときに初めてこの書に接して以来、永く、私はこの書を紀行文の粋と見なしていました。つまり、行く先々で出会った風景、人々、喜ばしいこと、悲しいこと、一つ一つを時間に忠実に、しかしつれづれに日記風に記していったものと思い込んでいました。ある機会を得て、二十年ほど前、更めて詳しく読み直して、それが如何に深刻な誤読であったか、ということに気付いたのです。そのきっかけとなったのは、曽良日記と称されるものと照合するという、誰もが本来なすべき作業を、自分としては初めて試みたことでした。曽良日記は、この旅に同行(途中病を得て、芭蕉の許を離れますが)した曽良の、これは文字通り旅日記です。それと読み合わせてみると、旅の最初から問題なのです。芭蕉の文章によれば、江戸を発って最初の泊は草加という土地です。しかし、考えてみると、船を使って大川を上り、そこから一日歩いて着いた先が草加というのは、余りにも能率が悪い旅ではないでしょうか。そもそも、そこで、私は気付くべきだったのです。曽良日記によれば、旅の最初の泊りは春日部(粕部)だと書いてあります。それならば別段取り立てて不審はありません。

つまり、そこで漸く気づいたのですが、この作品は、旅の道すがら経験したことを、日程に従って日記風に書き綴るという意味での紀行文では全くない。そうした「事実的」なことからすっかり離れて、自らの文芸的な教養を目いっぱい注ぎ込んだ、完全な創作(フィクション)なのです。一旦気付いてみると、素直に紀行文の極致のように思いなしていた自分が、むしろ腹立たしいほどでした。そういう視点で眺めると、様々なことが、霧がはれるように、すっきりと頭に入ってきます。そもそも、また、そもそもですが、出立の日取りからして作為的です。元禄二年(一六八九)は、西行没(一一九〇年)後ほぼ正確に五百年、そして能因生誕(九八八年)七百年です。芭蕉が最も敬愛するこの二人の先達が意識されなかったはずはないと思います。

そのうえ、芭蕉は、俳句の世界の専門家なのですから、和歌についての知識は豊富であるのは当然でしょう。そこから、『源氏』をはじめとする歴史的・古典的な文学作品にも深く通暁することになりましょう。と同時に、そうした日本の古典が常に背後に枠組みとして前提とする、漢詩・漢文字に関しても、相応の知識がなければなりますまい。別段、大学に通ったわけでも、専門学校で学んだわけでもない芭蕉は、何人かの師と呼ぶべき人があったとしても、結局そうした知識と教養とを自得していたことになります。それらを総動員して、歌枕の旅、つまり古典・故事を探すという名目の旅を材料に、自らの文芸世界を描き切ったのが『おくのほそ道』だったのです。実際の旅での「事実」とは異なるフィクションがふんだんに織り込まれていて当然なのです。

なお表題の書き方は、彼がこの書のために残した自筆の題簽に基いていることを、お断りしておきます。

もともと、この紀行が歌枕を訪ねる旅であることは、誰でも承知していることでしょうが、歌枕、言い換えれば一種の本歌取りとも言えるこの作業をするには、過去の歌人の詠んだ歌を逐一知っていなければなりません。江戸を出発点に、東北、北陸を経て、大垣で終わるこの旅で、訪ね行く先々の土地で、誰がどんな歌を詠んだか、それを弁えるだけでも、文芸の世界での厖大な知識と教養が必要になります。その上、先にも述べたように、そうした先達たちの歌詠みや著作の背景には、漢文学の世界が広がっているのです。

実際芭蕉のこの作品の冒頭は、よく知られた李白の『春夜宴桃李園序』という作品の最初「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客」からそっくりとられた文章ですし、第二節の最初の数行は、木下勝俊(長嘯子)の『山家記』(このタイトルの書は幾つもあり、<やまが>と読ませるものもありますが、この場合は<さんかき>と読むのが習慣のようです)の一節、さらに『源氏物語』の帚木からの一文、そして次の行では、西行の『山家集』からの一文といった具合で、パロディというか、ほとんど全文が借文なのです。当時判る人は、きっと「おお、やっているな」と思いながら読んだのでしょうね。さらにこの冒頭の第二句「行く春や 鳥啼き 魚の目は涙」ですが、この書の最後、大垣で詠んだとされる、締め括りの句「蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ」と綺麗な対句になっています。この最後の句、その前に置かれた「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」の「小貝」を、同じ貝の蛤で受け、さらに冒頭の句の鳥と魚を思い出させ、蛤の「蓋と身」を「二見が浦」とかけた上に、二人の身(人間)の別れに擬する、さらに「別れ行く」と「行く秋」(冒頭の「行く春」と対比させながら)とを掛詞として重ねる、という余りに技巧が過ぎて、どちらかと言えば感心できない句ではありますが、ここまで工夫するとなると、さすがあっぱれ、という感も持たされます。

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もう一つ目立つのは、謡曲からの影響です。もともと、典型的な能の構成は、前シテは、普通の男、あるいは女人で、後シテになって、それが怨霊・化身となるのですが、それに対するにワキは、旅の僧侶であるのが普通です。つまり、乞食僧の旅は、そのまま能楽におけるワキの役割を担っている、と考えてよいわけです。謡曲の詞章も、本来古歌や『源氏物語』からの引用が散りばめられている(典型的なのは、観阿弥・世阿弥父子の傑作と言われる『松風』で、この作品は『源氏物語』と『古今集』を読んでいなければ、全くついていけないものです)、そうした構成そのものが、もともと、ちょうど歌枕のように、過去の故事に遡ることを定型とすることになります。芭蕉にとっても、利用するのにためらいはなかったでしょう。

一例を那須野の件にみてみましょう。野越えにかかった際、「直道(すぐみち)を行かんとす」るが、後に「野飼ひの馬あり、草刈る男」に出会うと、この道は色々と間違い易いので、馬を貸すから、馬の行く通りを行きなさい、と助言された、ことになっています。このエピソード、なかなか感動的な結末まであるのですが、実は、ここは、例えば謡曲の『遊行柳』が下敷きになっています。この作品は、ワキが旅に出た僧で、彼が白河の関を超えたあと、「あまた道の見えて候、広き方へ行かばや」とすると、農夫めいた男(シテ)が声をかけ、その道よりもよい道があるから、お教えしたい、として、「こなたへ入らせ給へとて、老いたる馬にはあらねども、道しるべ申すなり」と言うのです。あるいは、この部分は、『錦木』にも重なります。この作品も、基本は、諸国行脚の旅に出た僧(ワキ)が出会う出来事が、『古今集』や『伊勢物語』などからの引用で語られる物語ですが、地(じ)の詞章に「草刈るをのこ 心して 人の通路(かよひぢ)明らかに 教へよや」というのが出てきます。つまり荒れた野原では、「草刈る男」や「馬」が出てくるのは能楽の定番で、それが道案内をする、というのも、お定まりの道具立てなのです。因みに、『おくのほそ道』では、この那須野の後、「黒羽」、「雲巌寺」の次に、「殺生石・遊行柳」と続きます。当然芭蕉の頭には、やがて訪れる「遊行柳」があったに違いありません。「殺生石」では、男に口をとられた馬に送られる様子が述べられ、西行の歌枕でもある「遊行柳」では、発句の直前の文章は西行の歌のパロディになっています。

このように、古歌、故事、そして古典と、漢籍からの縦横な引用例に基づく文学的な技巧の探索を、この後も最後まで続けていては、とても紙数が足りませんので、ここまでにしますが、『おくのほそ道』という作品が、如何に文芸上の粋を凝らした、創作(フィクション)であるか、多少とも判って戴けたのではないでしょうか。

一つだけ付け足せば、冒頭どうしても訪れたい場所の筆頭に挙げていた、天下の絶景松島では、表向きは句を詠んでいないことになっているのも、一種の技巧の極致のように思われます(曽良の句は掲げてあります)。中国の「景に会ひては唖す」という言い伝え、つまり「美しい景色に出会った時には、言葉は働きを失う」に忠実であることを装ったのでは、と考えられるからです。

結局、『おくのほそ道』全文が、江戸時代の知識人の教養の高さを示すと同時に、ある意味では読者が試されている作品なのです。もちろんだからと言って、この作品から受ける感動や、描かれている人の心の細かい襞の微妙さなどが、割引されるものでないことは、基本は完全なフィクションである「小説」類が、人間の心へ激しく、あるいは穏やかに、届くのと同じです。むしろ、芭蕉の技巧に感服するというおまけも付くことになりましょう。原文は、一冊の書物とはとても言い難いほど短いものです。更めて挑戦してみては如何でしょうか。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。