「このままでは地球は長くは保たないのではないか–」。
この警告はすでに50年も前に発せられていた。1972年に出されたローマクラブの「成長の限界」という研究報告には、地球の許容量に比べて今の文明があまりに多くの課題を抱えていることが既に指摘されていた。それから半世紀近く経ったが、地球が抱える問題は一向に解決しそうにない。20世紀には私たちはまだ解決すべき問題が何かが見えていた。豊かになるためにどの政治経済システムを採択すべきか。核戦争による崩壊のシナリオをいかに回避するのか。疫病や飢餓の問題をいかに解決するのか。そうした人類の難問は今世紀に入り概ね解決の糸口をつかみ始めているにも関わらず、地球の状況は好転していくように見えない。
もちろん、「ファクトフルネス」を著したハンス・ロスリングのように、全体として見たときに世界は良くなっているという声もある。確かに150年前に比べれば、人類の問題は格段に解決しつつある。人類がその歴史のほとんどの時間で心を砕いてきた戦争と飢餓と疫病の問題も、21世紀に入り表面上解決しつつあるように見えている。しかし“人類の問題”が解決しても、“地球の問題”は解決しているのだろうか。そもそも人類と地球などというように問題を分離することなどできるのだろうか。
特にこの21世紀に入り問題はどんどん絡み合い、もはや何がどう関係しているのか把握することさえ難しい状況が生まれている。これまでに幾多の社会システムの改良やテクノロジーのイノベーションが起こってきた。しかし問題はますます複雑化していくように見える。いや、正確には見えるというより「見えない」という方がいいかもしれない。今や様々に絡み合う問題は何がどこで影響していて、どこに問題の本質があるのか、その全体像がわたしたちにはさっぱり分かりないのだ。問題が見えないのであれば、解決方法も見えるはずがない。だから漠然とした不安なムードが世界全体を覆っているのだろう。そして2020年を迎えた今、誰の頭の中にも浮かび始めたこんな想像がある。
「もう何をやっても地球は長くは保たないのではないか–」。
問題が見えない理由はいくつか考えられる。一つには問題が“大きすぎて”見えない、あるいは“遠すぎて”見えないことだ。日常生活における私たちのまなざしは等身大のスケールに設定されている。私たちは地球の反対側で静かに絶滅しつつある爬虫類よりも、飼っている犬の病気の方が心配事だ。100年に1度やってくる大災害よりも、今日のランチで何を食べるかの方が問題である。見えないもの、感じられないものについては関心が薄いのが私たちである。そんな私たちに地球の問題、人類の問題は大きすぎる。
そして問題は“複雑すぎて”、あるいは“曖昧すぎて”見えない。かつて気象学者のエドワード・ローレンツが、ブラジルでの一匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻きを引き起こす可能性について問いかけたように、今や何がどのように因果関係を結ぶのか全く予測できない。強力な周波数の電波が生態系に及ぼす影響や、ドローンが気候変動に及ぼす影響は誰にも分からない。どのテクノロジーがどんな問題を社会に引き起こすのか、そしてそれが地球にどう影響するのかはもはや予測不可能である。
また変化が”速すぎて”問題が見えないこともある。20世紀になる数年前にジョゼフ・ジョン・トムソンが電子を発見して以降、テクノロジーの進化は電子を中心に進むことになった。特にITテクノロジーがあらゆる出来事に接続された21世紀は、電子の速度で伝わる情報が全てのものを関係付け、常にどこかで何かをアップデートさせている。ある領域でのイノベーションが、即座に別の領域でのイノベーションへとつながり、それがまた別の領域のイノベーションとなる。数年前とは状況が大きく変化し、そしてこれから数ヶ月後にはまた状況がさらに変化している。互いが過敏に影響し合いながら急速に変化する世界。その状況はますます加速し、解決どころか問題の把握すら追いつかない中で次々に出来事が起こって行く。
一方で問題が“小さすぎて”、また“身近すぎて”見えない場合もある。ポケットベルが携帯電話へ移行し、それがスマホに代わる変化はまだ見えやすい。だがアプリやOSのヴァージョンアップの日々の積み重ねが、気がつけばウーバーのようなサービスを生み出している。髪の毛が毎日数ミリずつ伸びて行くのには気づかないように、日常の小さな変化は積み重なりいつか大きな変化になっている。
そして当然、問題が“隠されていて”見えないこともある。中国のような国では政府が情報をコントロールしていることは明らかだ。しかし本当の問題は、情報が隠されているという事実が隠されていることである。インターネットによって情報が透明化していく社会に見えるからこそ、逆に膨大な情報の中に埋もれて問題の本質が見えなくなることがある。
しかし最大の原因はそこではない。問題が見えないのは、“見たくない”からなのだ。私たちは自分にとって不都合なものにまなざしを向けたくないという無意識が心の奥底に横たわっている。そして問題が大きすぎて、複雑すぎて、速すぎて、身近すぎると、もうそれについて考えることを放棄してしまう。そして状況は大きく変わらないと、目の前の自分の関心ごとだけにまなざしをフォーカスし固定化するようになるのだ。こうした「正常化バイアス」と呼ばれるものが働くと、問題を最も見えなくする。
拙著「まなざしのデザイン」では、そんなある範囲に固定されている私たちのまなざしの枠を、少しだけずらしたり外したりすることで、モノの見方を自由にする方法論を探った。とはいえ、地球の問題の全体像が見据えるのはとても困難なことであることに変わりない。それを何とか考えようと、拙作の空間インスタレーション「地球の告白」では地球の主な13個の問題について、52項目に整理して展示した。
この複雑な問題を考える上で、「地球(Earth)」の頭文字にちなんだ「Eの問題」を見取図にして追いかけてみたい。地球(Earth)は、その頭文字である“E”にちなんだ様々な問題に満ちている。様々なスケールで海や大気や土壌が汚染する「Environment(環境)」の問題。例えば海洋環境の問題一つとっても深刻だ。既に2015年時点で、世界の海に存在するプラスチックごみは合計で1.5億トン(*1)あると言われている。そこへ少なくとも年間800万トン(*2)が、新たに流入し続けていると推定されている。その結果として、生命のネットワークシステムである「Ecology(生態系)」の崩壊が深刻化しつつある。その問題は海だけに止まらない。
2019年の世界の昆虫個体数に関する調査(*3)では、全ての昆虫種のうち40%が減少しているとの結果だ。そこでは、今後数十年で絶滅する可能性のある種も示唆されているが、生態系の基本である昆虫は陸上の生物の2/3を占めるため、その減少は全生態系に影響する。人間は自らの問題だけの解決にフォーカスしているが、他の生物の間が崩壊していくことはいずれ私たちにも還ってくる。
その根底には、過剰な生産と消費を基本とする私たちのライフスタイルを維持するのに必要な膨大な「Energy(エネルギー)」の問題がある。オイル枯渇が叫ばれた70年代から、自然エネルギーやシェールオイルなどの開発は進んだ。ただ未だに交通部門ではエネルギー需要の92%(*4)は石油によって賄われている。世界エネルギー見通しについて国際エネルギー機関(IEA)の2018年の発表(*5)は暗い。原油の供給不足が将来、深刻化するリスクへの懸念。そして米国のシェールオイル増産は2020年代半ばで頭打ちになるとの予測がされている。それは我々が過度に依存している「Electricity(電気)」の問題ではあるが、科学的に言うと温室効果ガス含め、無限に拡散していく「Entropy(エントロピー)」をいかに制御するのかが本質的な問題である。
一方で「Economy(経済)」の仕組みは、富が富にますます集中するようになっている。2018年の国際NGOのオックスファムのレポート(*6)では格差の深刻な問題が指摘されている。低所得層の半数の約38億人の富が11%減少。それに対し、10億ドル以上の世界の億万長者は一年で資産を9000億ドル増やしている。つまり富裕層は1日当たり20.5億ドルの資産を増加させていることになる。現在の世界経済の仕組みでは富は富に集まるようになっている。個人の財布の中身はグローバル経済ともはや無関係ではなく、経済格差は拡大する一方である。
世界のわずか1%の超富裕層の資産が、残り99%の資産より多くなっている現実に対して、多くの市民が「Equality(平等性)」や「Equity(公平性)」を求めて、動き出している。2012年のアメリカのウォール街占拠運動、2018年のフランスの「黄色いベスト運動」。世界的にポピュリスト勢力の増大が起こり、政権の弱体化が多くの国で広がっていく。
一方で、そうした動きがますます政権を独裁主義へと向かわせ、それぞれの立場から「Exclusion(排除)」を生み出す状況も生まれている。平等や公平はどの立場から眺めるかによって答えが異なるが、経済危機の台頭は排除すべき人々を特定する。そこには経済格差だけでなく、「Ethnicity(民族性)」の問題も横たわる。グローバル化が進んだ観光を中心にした未曾有の大移動社会では、移民や難民を始め膨大な人々が国境を越える「Exodus(移動)」が起こる。
そうした状況から、特にこの数年は高まるナショナリズムやテロの勃発の中で「Enemy(敵)」が問題視され、軍事的な圧力も再び高まる一方だ。テロだけでなく、戦争の匂いも強まっている。2014年にウクライナで、2015年にはリトアニアでいずれも徴兵制が復活している。NATOに加盟していないスウェーデンは2018年に8年ぶりに徴兵制を復活させた。フランスのマクロン大統領も徴兵制を復活させる考えを明確にしている。冷戦構造は崩れたが、各国がそれぞれ自国を守るための緊張状態が見られる。
確かに「Electrical communication(電子情報技術)」の台頭は、地理的制約を超えて個人の自由なつながりと簡単な情報発信が可能になった。SNSの台頭は個人が簡単に発信できる社会を生み出し、世界規模での繋がりをもたらしたが、同時に孤独や混乱も生み落とされた。これまでの「Ethics(倫理)」が徐々に機能しなくなる中で、「Evidence(証拠)」の確認ができないショッキングなフェイクニュースが膨大に溢れている。そんな嘘が日常化する「ハイパー・ノーマライゼーション」は逆に人々を従順にさせるとも言われる(*7)。その一方でそんな状況に慣れてしまうと、事実に基づいた理性の判断ではなく「Emotion(感情)」だけを判断基準にしがちになる。そんな状況に「Education(教育)」は全く追いついておらず、何を拠り所にすれば良いのか私たちはうろたえ、心の中は「Emptiness(空虚感)」に満ちている。つまるところ、私たち人類と文明が次にどのような「Evolution(進化)」を遂げるのかが問われていることだけは確かだ。
一体なぜこんな複雑な問題が次から次へと出てくるのだろうか。私たちはどこで何を間違えたのだろうか。人類が一つに絞り込んだ社会システムは、三十年を待たずしてもう機能不全に陥っている。だが今の文明にはもはやオルタナティブが用意されていない。
一方で「持続可能な開発」という題目だけは勇ましく唱えられ、世間は大騒ぎしている。しかしその“持続可能”が一体何を意味するのかは甚だ疑問だ。持続とはどういう状態を指すのか。今の政治経済のシステムや価値観、ライフスタイルが変わらず続いていくことを意味するのか。そして持続とは何年を指しているのか。数十年なのか、数百年なのか。数千年も同じ形で持続した文明など歴史上一つとしてない。
さらに誰にとっての持続なのか。この地球上から人類がいなくなっても地球は一向に困らない。むしろ地球が持続するためには、人類などいなくなってもらった方が助かる種(しゅ)の方が多いのではないだろうか。今の私たちの文明が他の生命の持続に何か貢献しているとはまるで思えない。
あまりにも複雑に関係し合い、問題の所在も解決の糸口も見つからない「Eの問題」。実はこれらの問題の根元は、ほぼ全て一つのシンプルな「Eの問題」として集約される。それは「Ego(自我)」の問題である。このシンプルな問題こそ最も解決することが難しいのだ。私たち人類は、個人レベルから国家のレベルまでどのスケールにおいても様々なエゴが問題を生んでいる。自分(セルフ)を中心とするエゴ、企業(カンパニー)を中心とするエゴ、共同体(コミュニティ)を中心とするエゴ、国家(ネイション)を中心とするエゴ、人間(ヒューマン)を中心とするエゴ...。そんな様々なエゴをベースにしている以上、その上にいくらテクノロジーやシステムを積み上げても、問題は一向に解決しないだろう。
地球環境は人間にとっていよいよ不都合な状況となりつつある。そんな危機的な状況にも関わらず、一向にまとまらない人類の問題の真の原因は何なのだろうか。それぞれが勝手なことを主張しあう自我(エゴ)を外すことなく、地球(アース)の問題の解決がどうしてあり得るだろうか。
*1:McKinsey & Company and Ocean Conservancy (2015)
*2:Neufeld, L., et al. (2016)
*3:Francisco Sánchez-Bayo, Kris A.G. Wyckhuys, Worldwide decline of the entomofauna: A review of its drivers, Biological Conservation, Volume 232, April 2019, Pages 8-27
*4:https://www.isep.or.jp/archives/library/11103
*5:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37698450T11C18A1FF8000/
*6:https://www.oxfam.org.nz/reports/public-good-or-private-wealth
*7:Alexei Yurchak: “Everything Was Forever Until It Was No More”, 2006
2020年2月25日、ぷねうま舎より『ヒューマンスケールを超えて』が出版されます。
今回の記事「Eの問題」についても紹介していますのでご確認ください。
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。