ジョン・ヘンリー・マッケイ(John Henry Mackay, 一八六四~一九三三)という人がいます。あまり日本では知られていないと思いますので、少し詳しく紹介してみましょう。名前からすれば、誰もがイギリス人だと思うのではないでしょうか。確かに生まれはグリーノック、これも名前だけでは見当が付き難いかも知れませんが、スコットランド、といっても比較的南のグラスゴー近くの町です。ジョン・マッケイはそこに生を受けました。
父親はスコットランド系の実業家、母親はドイツ、ハンブルクの豊かな家の生まれでした。ジョンが生まれて間もなく、父親が病で亡くなったので、母子は、母親の実家のあるドイツに戻ります。マッケイは結局、ドイツで育ち、ドイツで死んだ人間になりました。
彼が一八九六年から住み着いた当時のベルリンは、世紀末の状況を映して、見方によってはひどく「頽廃した」とでもいうべき状況にありました。ベルリンだけではありませんが、この時期、社会主義、反カトリシズム、既成道徳の否定、反社会秩序(アナーキズム)などを奉じる人々が力を得て、活発な活動を繰り広げている時代でありました。結果的には、そうしたドイツの状況の中から、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが台頭してくることになりますが、それはそれでまた別の物語としましょう。
マッケイは、ベルリンで、アドルフ・ブラント(Adolf Brand, 一八七四~一九四五)やベネディクト・フリーレンダー(Benedikt Frieländer, 一八六六~一九〇八)といった無政府主義者たちと親しくなりました。彼らは、社会主義や「自由」あるいは「人間解放」への強い主張を共有していましたが、その主張に含まれる一つの方向として、帝国刑法一七五条、つまり男性同士の性的な関係を禁じる条項を廃止する運動を組織化し、「科学的人間主義委員会」(Wissenschaftlich-Humanitäres Komitee)なるものを立ち上げ、あるいは「自立する人間協会」(Gesellschaft der Eigenen)を通じて、その主張の普及を図ったりした人たちです。ジョン・マッケイも実は同性愛者であることで知られています。
マッケイが亡くなったのは、一九三三年のことですが、この年は、「別の物語」の中の主人公ヒトラーが「ドイツ帝国宰相」(Reichskanzler)に選ばれた年であり、ベルリンをはじめドイツ各地で、ナチスが「不健全な」ものと断定する内容を持つ書物を集めて、街の広場などで焼くという「焚書運動」が頂点に達した年でもありました。
その「不健全な」ものの中に、同性愛、とりわけ男性の同性愛(いわゆる「少年愛」も含めた)があったのは、彼らの主張からすれば当然であったでしょう。前述の「科学的人間主義委員会」創設メンバーの一人、マグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld, 一八六八~一九三五)が一九一九年に、ベルリン・ティアガルテンに「性科学研究所」(Institut für Sexualwissenschaft)を建てていました。ヒルシュフェルトがユダヤ人であることも手伝って、この年のベルリンでの焚書運動の直接攻撃の目標の一つは、この性科学研究所であったようです。
そうした騒然たる状況下でのマッケイの死は、時代状況に絶望した自殺の疑いも残るとされてきました。マッケイの伝記(注1)を書いたヒューバート・ケネディ(Hubert Kennedy, 一九三一~)によると、マッケイが死んだのは自宅に近い医師の診察室で、死因は心臓発作であったということですから、自殺ではなかったようですが、真のナチス時代を知らずに逝ったのは、彼にとっては、むしろ幸せだったのかも知れません。
注1)Hubert Kennedy : Anarchist of Love, the Secret Life of John Henry Mackay , North American Man/Boy Love Association, 1996
これまでは、何だか男性同性愛がテーマのような論述になっていますが、書きたいことはおよそ違います。勿論ジョン・マッケイは当然ながら、男性同性愛擁護の強力な論陣を張り、それを題材にした論文集や小説を、ザギッタ(Sagitta 注2)の筆名で発表していますが、非常にロマンティックな数多くの詩も書いています。それらは、世紀末の作曲家たちの強い作曲意欲を引き出しました。そうした作曲家には、かのアルノルト・シェンベルク(Arnold Schönberg, 一八七四~一九五一)もいますが(注3)、中でもリヒアルト・シュトラウス(Richard Strauss, 一八六四~一九四九)は、最も強い影響を受けた一人でしょう。
注2)本来は「矢座」の意。マッケイは二月六日生まれですから水瓶座ですが。
注3)シェンベルクの比較的若い頃の作品(Op.6)に『八つの歌』があります。その第六曲「路傍にて」(原題<Am Wegrand>)はマッケイの詩になるものです。彼の作品のなかで最も有名なものの一つ『浄められた夜』(Verklärte Nacht)は一八九九年、この『八つの歌』は一九〇三年頃の作品であろうと思われます。
リヒアルト・シュトラウスは、一八九四年、三十歳のときにバイロイト音楽祭でワーグナーの『タンホイザー』を指揮しますが、その際、エリーザベト役を歌ったソプラノ歌手パウリーネと運命的な出会いをし、即座に結婚するのです。パウリーネ(Pauline de Ahna, 一八六三~一九五〇)は、後に悪評ただならぬ女性として描かれることになります。確かにシュトラウス自身、「一瞬たりと同じ人格であり続けない」多面的で奇矯な人物と評していますが、結婚生活は無事に続け得たようです。そして、シュトラウスのその後の作品、例えば、巨大な交響詩『英雄の生涯』の第三部「英雄の伴侶」や、オペラ『インテルメッツォ』、あるいは『家庭交響曲』(Sinfonia Domestica)などは、パウリーネの人柄などが反映されている、と解釈できるといわれています。
余談ですが、『英雄の生涯』について、シュトラウスは、ベートーヴェンの第三交響曲『英雄』(エロイカ)の後継に当たるべきものと考えていたようで、調性もEs-Dur(変ホ長調)で、「エロイカ」と同じです。最終的に「英雄の生涯」(Ein Heldenleben)と決めるまでは、友人たちの間で「自分のエロイカ」と称していた、という話が伝わっています。
マッケイが、生きていればナチス政権から最初に迫害される立場の人間であったとすれば、シュトラウスは、戦後、親ナチの疑いで色々と戦中の言動を審査されたり、厳しい批判にあったりしたことからも判るように、ナチ政権に近かった人物です。確かにナチ政権下に帝国音楽アカデミーの総裁であったこともあり、政権に協力的な側面が認められます。
しかし、自分のオペラ『無口な女』(Die schweigsame Frau)の原作台本の作者でオーストリアのユダヤ系文学者シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 一八八一~一九四二)が、ユダヤ系であるがゆえに、そのオペラの原作者であることを公表しないよう政権から強制されたときには、激しく抵抗したという経歴もあります。それゆえに、このオペラはナチ政権下では、初演はされましたが、政権の要人は出席を断り、結局それ以降は上演できない結果となりました。また息子の結婚相手がユダヤ系であったことから、彼らを守るために親ナチを装わざるを得なかった、という解釈もあり、中々面倒なことが絡んでいるようです。
脱線しますが、日本が一九四〇年に「紀元二千六百年」を祝う行事の一環として、世界の著名な作曲家に祝典曲を依頼した際、ナチス政権の後押しもあって、シュトラウスは「奉祝曲」を日本に贈っています。因みに、このとき海外から祝典曲を寄せたのは、イギリスのベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 一九一三~七六)、フランスのジャック・イベール(Jacques Ibert, 一八九〇~一九六二)ら、五人ほどでした。ただブリテンの曲は、期日に間に合わなかったり、「レクイエム」という言葉が表題に入っていたり(間もなくイギリスは敵性国になったこともあり)、色々と問題が重なったので、演奏されることはありませんでした。
さて、話を戻すと、パウリーネとの結婚に際して、新妻に贈った作品27「四つの歌」(Vier Lieder)という、彼にとってとても大事な作品のなかで、第三曲「密やかな誘い」(Heimliche Aufforderung)と、第四曲「明日には!」(Morgen !)の二曲の詩は、ジョン・マッケイの手になるものです。とりわけ四曲の締めくくりに置かれた「明日には!」は、作曲者のシュトラウス自身大変気に入っていたらしく、管弦楽とヴァイオリンの独奏用に編曲したものを、別に自分で作っているくらいです。
ドイツ・リート(歌曲)のピアノ伴奏者として無類の才能を発揮し、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau, 一九二五~二〇一二)、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(Victoria de los Angeles, 一九二三~二〇〇五)、エリーザベト・シュワルツコップフ(Elisabeth Schwarzkopf, 一九一五~二〇〇六)、ヘルマン・プライ(Hermann Prey, 一九二九~九八)、クリスタ・ルートヴィヒ(Christa Ludwig, 一九二八~)らの文字通り錚々たる名歌手たちが、最高のピアノ・パートナーとして求めたジェラルド・ムーア(Gerald Moore, 一八九九~一九八七)は、この曲の繊細さと至上の美しさに感銘を受け、「この曲、壊れ物につき、取り扱い注意」というラベルを貼っておくべきだ、という名警句を残しているほどなのです。
では、その壊れ物のような繊細極まりない曲は、どんな風に書かれているのでしょうか。詩については、後で述べることにして、譜面から読み取れるところを、少し探ってみます。調子はG-Dur、つまりト長調、四分の四拍子、発想記号として、ドイツ語で「ゆっくり」と指定があった後、「とても一音一音を大事に保って」という意味のドイツ語の指定<sehr getragen>が置かれています。念のためですが、ドイツ語の<getragen>は、普通の音楽用語(イタリア語)に直せば「テヌート」(十分音を保って)とほぼ同じと考えて良いでしょう。
曲の最初から、ピアノの左手の一拍を三連音符に使った上行の分散和音の上に、ある意味ではシンプルな、しかし耽美的な高音のメロディが、右手でゆっくりと紡ぎ出されます。かなり長いこのピアノの前奏は、十三小節目に至って、三連音符の呪縛から解放されたように、右手の下降の四分音符がはっきりした四拍を刻んで、強い印象と期待感を持たせたのち、そのメロディを途中から受け継ぐように、次の十四小節目の二拍目の裏から、ある意味では唐突に、しかし忍びやかに歌が始まります。
この多少意表を突く歌い出しは、歌詞が<Und>(<und>は英語の<and>と同じです)、つまり「そして」で始まるのを処理するための工夫のように見えます。普通「そして」と言えば、その前に何かがあって、それを受け継ぐ接続詞ですが、このマッケイの詩では、何もない冒頭に「そして」が置かれている、その意味では些か異例の形をしているわけで、そのことを逆に利用した音楽作りと思えるのです。音楽は、それまでの十三小節と一拍半でピアノが伝えたことを踏まえて、それを受けた歌手が、「<そして>ね」と歌い始めたように聞こえるからです。
最後の<schweigen>(「沈黙する」という意味のドイツ語ですが)という言葉に当てられた歌の締めくくりの音も、ト長調の音楽としては宙ぶらりんのような<Fis>(嬰ヘ音)で終わります、というか、終わらずじまいのような終わりです。そのたっぷりとした余韻のなかに、再び数小節のピアノの分散和音があって、最後の和音が導かれます。これも「終わりのないままの終わり」に相応しい形で選ばれた和音です。
色々と説明してきましたが、音楽を言葉で表現するのは、結局は愚かな業、人気のある曲ですから、YouTubeで色々な歌手が歌っている例を、幾つも聴くことができます。まだお聞きになっていない方も、どうか一度は、聴いてみて下さい。そして、この曲がどれほど繊細な「壊れ物」であるかを、実感してみることをお勧めいたします。
ところで、後回しにしたマッケイの歌詞は、どのようなものだったのでしょうか。すでに触れましたように、二節からなるこの詩は、唐突に<Und>という接続詞から始まります(実は、僅か八行の詩の中の行頭に<Und>は四回現れるのですが)。詩に合理的な解釈を求めるのは野暮に違いありませんが、この冒頭の「そして」は、今日のことをあるいは今日までのことを、暗黙の前提としているのでしょう。今日はどうなのか、それは一切描かれませんが、今日まではそれとして、しかし「そして、明日を迎えたら」というのが、この詩の基本になります。だから、この<Und>以下、時制を示す助動詞は、常に「未来形」です。だからこそ「明日には!」(Morgen !)なのです。詩文としての原文を無視して、散文的に下手な訳を試みれば、こんな風になります。なお野暮ったいのは承知の上で、わざと「そして」はすべて省かずに、忠実に残しておきます。
第一節は「そして、明日には、太陽は再び輝くだろう / そして、私が歩むはずの道を照らし / 光に満ちたこの地のただ中に / 再び、私たちの幸せを恵んで、、、」。
第二節は、ここでも<Und>で始まります。「そして、広やかで、紺碧の波の寄せる浜辺 / 私たちは、静かに、緩やかに、降りてゆくだろう / 私たちは、互いに視線を交わし合うだろう / そして、私たちの上には、沈黙の喜びが、、、」。
おわかりのように、第一節も第二節も、詩文は完結しないままです。シュトラウスの音楽もまた、通常の歌曲のように、調性の基音となる主和音、つまりこの場合はト長調ですから<G>を基音とする主和音から終結の音が選ばれず、先に書きました通り「終わらないままの終わり」を迎えているのです。明らかに詩文と符節を合わせたものといえましょう。
シュトラウスが、一目で恋に落ちたパウリーネを得ることができ、その喜びのなかで贈った作品として、詩も曲も、まことに相応しいものだったと思わない訳にはいきません。誤解のないように、念のために書いておきますが、出来上がった作品は、如何にもロマンティシズムの極致のような印象を与えますし、それはその通りなのですが、音楽としては、決して「甘い」、あるいは「甘っちょろい」ものではありません。極めて清潔な、それでいて深い喜びが全ての音に託されて静かに響いてくる、そんな音楽です。
ところで、私はなぜこの「明日には!」を、こんな形で取り上げたのでしょう。突然のようですが、美智子前皇后がピアノにご堪能であることはよく知られています。通称「草津の音楽祭」(正式には「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」といいます)は、今年で四十一回を迎えた(るはずでしたが、ヴィルス禍で中止になりました)由緒ある、日本でも有数の音楽祭の一つですが、海外から著名な演奏家や演奏団体を招いて、受講生に対する公開レッスンをしたり、彼らの演奏会があったり、と豊富な内容のイヴェントです。
いつの頃からか、上皇后のピアノと共演したい、という海外の演奏家たちの引きも切らない依頼があって、上皇后をフィーチャーしたセクションが組まれるようになりました。この様子は、テレヴィジョンのニュースでも報じられることが多くなり、二〇一八年、二〇一九年も、ニュースになりました。
そうした機会に、上皇后が最も愛されて、しばしば海外からの演奏家と共演なさる曲の一つが、「明日には!」です。相手が歌手のこともあり、ヴァイオリニストのこともあったと思います。私も、「明日には!」という曲は、かつて幾つかの演奏会で、あるいはレコードで耳にしたことは無論ありましたが、さして気に留めていませんでした。
恥ずかしながら、その神髄の魅力を知ったのは、まさしく上皇后のご演奏に接したからでした。上皇后が愛奏なさる曲の中には、シューマンのピアノ四重奏曲の、これも無類に美しい緩徐楽章もあり、どれも決して易しい曲ではありません。しかし、そうした曲のご演奏は、草津で海外の一流の演奏家と共演なさっても、全くひけをとらないどころか、彼らが感激して、来年も是非ご一緒に、と希望を寄せるほど、豊かな感性と深い共感に満ちた、感動的なものです。
その上皇后は、草津へお出かけになる前、軽井沢にご滞在中に、下練習をなさるのが慣例になりました。私なども、その末席に加えていただくことがあります。そこで得られる希有の感動を、読者の皆様にお伝えしたくて、この一文を草しました。
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。