小学校に入ったとき、国語も算数も、どの教科も同じ教室、つまりそのクラスの本拠の教室は一つに決まっていて、その教室で授業を受けることになっていました。だから、高校生になって、物理は物理の教室で、化学は化学の教室で、美術は美術室で、というように、教科毎に教室を移動する習慣に出会った時には、とても新鮮で、何か偉くなったように思ったものです。ただ、小学校でも、音楽だけは、音楽室という特別な教室があって、いつも授業はそこで受けました。
グランド・ピアノが教卓の横にあり、黒板は二つあって、一つは普通のもの、もう一つは緑の地に白いペイントで予め五線が何段も書かれた特別なものでした。その上に、三枚の肖像画が掲げてありました。付された説明に曰く、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス。そして音楽の先生は、ことある毎にこの<三大B>を説明して下さいました。この頃は、教室でレコードを聴く、というような事はありませんでしたが、時に先生が、三人のBさんたちの代表的な曲をピアノで少し弾いて下さる、というわけです。バッハでは、「主よ、人の望みの喜びよ」、ベートーヴェンでは「エリーゼのために」、ブラームスでは「子守歌」などを覚えました。
当分の間、私は、この音楽室的な音楽観に何の疑問も持たずに育ちました。一つには、学年で四年上の姉が、小学校の音楽の先生にピアノを習い始め、その音楽室的環境が自宅にも少しづつ浸透していたこともあったのだと思います。
ところで、私の非常に近い伯父が能楽の専門家でしたので、四歳から能楽に親しみ、謡曲を習っていました。小学校に入る頃には、手ほどきの「小謡」(こうたひ)などは卒業して、『船弁慶』や『紅葉狩』、『羽衣』などを一つずつ上げるまでになっていました。正月に伯父の家に集まって謡会があると、最初のうちは「子方」の役だけでしたが、やがて、一人前の役を振られたり、独吟を務めるまでになっていました。けれども、私は学校では、そのことが何故か恥ずかしくて、先生はもちろん級友にも一切話しませんでした。無論、謡曲を「音楽」の一つだという認識もありませんでしたから、音楽の先生にも口をつぐんでいました。
一方、両親は、謡のほかに私に歌を歌わせたがりました。私も嫌いではありませんでした。自宅には貧弱なものながら手回しの蓄音機があり、海軍の軍医だった父が遠洋航海で異国で買い求めたものも含めて、かなりの数のレコード(勿論、SPレコードです)を集めてもいましたので、それらからいろいろな「音楽」に親しんだわけです。声楽の曲も多数ありました。
もっとも、私はオーケストラも好きで、今でも覚えていますが、「ビクター家庭名盤集」という緑の立派なケースに入ったアルバムの最後の二枚に収録されていた、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』、あるいは海外盤で、確か「ブランズウィック」というレーベルの、グリーグ『ペール・ギュント組曲』などがありました。前者は、レコード一面ずつ、「夜明け」、「嵐」、「静けさ」、「行進曲」と、ちょうど一面一曲で、特に最後の「行進曲」が好きで、何度もかけるうちに盤面が劣化して白くなったほどでした。後者では、「山の魔王の宮殿にて」というのがお気に入りで、最後に宮殿が「崩れ落ちる」ような音楽描写を面白がっていました。
声楽曲では、これもペール・ギュント組曲の中の「ソルヴェイグの歌」と、ドリーブの歌劇『ラクメ』の有名なアリア「鐘の歌」(父はよく「ベル・ソング」と何故か英語で呼んでいました)を表裏にカップリングしたヴィクター赤盤のレコードが、歌い手がガリ=クルチ(Amelita Galli=Curci, 1882-1963)であったために、父は宝物のように扱っていたという記憶があります。当時ガリ=クルチは、コロラトゥーラ・ソプラノの第一人者の評判を得ていたのです。
父の死後、大分経って、ある雑誌でソプラノの伊藤京子さんが、ガリ=クルチのレコードを探している、と書いておられたので、お譲りしたという後日談があります。
さてしかし、ソプラノ(特に後者はコロラトゥーラ風でしたから)のレコードは、私にはお手本にはなりません。歌を覚えるという点では、藤原義江のヴィクター赤盤『荒城の月』と『沖の鴎』のカップリングが、最もかける頻度が高いレコードではなかったでしょうか。ただ、『荒城の月』はともかく、『沖の鴎』の方は、もともとが民謡である上に、藤原義江があまりに崩して歌っているので、真似をすることは到底できず、結局、自分のレパートリーにはなりませんでした。
他には、ポリドール盤の『城ヶ島の雨』。歌い手は確か奥田良三だったと思いますが、この曲の作曲者の梁田貞が、父が第一中学に在学していたときの音楽の先生(「ライオン」と渾名されていたそうです)であったこともあって、父は特に好んでいましたので、よく歌う曲の一つになりました。同じ奥田の歌った『美しき天然』(ポリドール盤)も父の好みの歌でした。
父は、遠洋航海でイタリアのとある港町に停泊中、日本の歌を披露しなければならない機会があって『城ヶ島の雨』を歌ったところ、聴衆の中から「今の歌、気に入った、採譜させろ」と頼んでくる人が現れ、仕方なく三回ほど繰り返して歌ったといいます。ところが、「お前の歌は、毎回少しずつ違う」とクレームを付けられてしまったそうです。確かにこの歌は、譜面を正確に辿らないと、怪しげな譜割になりがちな曲です。後に私も公に歌うときには、譜面を丹念に確認したものでした。
つまり、小学校に上がる前に私は、謡曲以外に、藤原義江や奥田良三(どちらも、当時出色のテノールだったことになりますが)が歌った歌を父親に覚えさせられて、家庭の音楽会など、機会があるごとに独唱させられることになったのです。小学校に入ってからは、学芸会などで公に独唱することにもなりました。
特に「空に囀る鳥の声、嶺より落つる瀧の音、大波小波たうたうと、響き絶えせぬ海の音 聞けや人々面白き、この天然の音楽を、調べ自在に弾き給ふ、神の御手の尊しや」という歌詞が大好きで最も頻繁に歌ったのは、この『美しき天然』(武島羽衣 作詞、田中穂積 作曲)でした。あとで判ったことですが、この歌は私立佐世保女学校(現県立佐世保高校、実際には<南と北>とがある)の音楽教材として作られたものだそうです。
作曲者の田中穂積は、当時の軍港佐世保の海軍軍楽隊の指揮者でした。他には『勇敢なる水兵』などの作品があります。しかし女学生の唱歌として作られた作品が、やがてはサーカスなどの「ジンタ」、あるいはちんどん屋のレパートリーになるのですから、音楽の世界は面白いともいえましょう。
話を戻すと、当時の私は、声変わり前ですから、声質は当然「ボーイ・ソプラノ」とでもいうべきものだったのでしょうが、謡曲が根底にあったからかも知れませんが、何となく地声で十分で、「美声」に磨こうという意識は全くありませんでした。親も声質には拘りませんでした。後のことですが、歌手志望の遠い親戚が、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)の声楽科を受験するために九州から上京して、自宅に泊まった際、歌を披露してくれたことがあります。一応、ベルカントの訓練を受けた人間の「歌」をいわば「生」で初めて聴いた時の衝撃は、今も記憶にあります。
他にレコード以外で覚えたのは、「四百余州を挙る十万余騎の敵、国難ここに見る、弘安四年夏の頃」で始まる『元寇』、「藍より蒼き大空に、たちまち開く百千の」という『空の神兵』という双方とも軍歌のジャンルに属するものですが、自分の好みでよく歌いました。やがて、ラジオ放送も歌の教材になり、いわゆる「流行歌」は両親が聴かせてくれませんでしたが、多くの戦時歌謡もレパートリーに加わりました。例えば『水師営の会見』、『戦友』、『勇敢なる水兵』、『暁に祈る』、『加藤隼戦闘隊』、『月月火水木金金』などなど。さらには、今になると恥ずかしい思いが先に立ちますが、『米英撃滅の歌』(野口米次郎 作詞、山田耕筰 作曲)や『比島決戦の歌』(西条八十 作詞、古関祐而 作曲)なども含まれていました。
「旅順開城約なりて、敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の、ところはいずこ水師営」(水師営の会見)、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」(戦友)、「煙も見えず 雲もなく、風も起こらず、波立たず」(勇敢なる水兵)、「嗚呼、あの顔で、あの声で、手柄頼むと妻や子が」(暁に祈る)、「エンジンの音 轟々と、隼は征く」(加藤隼戦闘隊)、「朝だ 夜明けだ 潮の息吹」(月月火水木金金)というわけで、自分は決して記憶力が優れている人間とは思っていませんが、不思議なことに、今でもこうした歌は、歌わせれば最初から最後まで、きちんと歌えます。
『比島決戦の歌』などは、歌詞が露骨過ぎて、歌の品格という意味では当時でさえ気が引けて、公には歌った覚えがありません。しかし、例えば『戦友』は、むしろ最後の節「筆の運びは拙いが、行灯の陰で親たちが、読まるる心思ひやり、思はず落す一雫」というような歌詞の内容が(付け加えれば曲想も)「暗く」、敢えていえば「厭戦的」な雰囲気が強く、太平洋戦争中は軍隊では歌うのを禁じられた時期があった、と聞いたことがあります。また、『空の神兵』の高木東六の曲などは、「軍歌」とは思えない美しいもので、他の曲も、歌詞、曲ともに、軍歌として一様に葬り去られるには勿体ないと思うものも少なくありません。
とはいえ、今こうした歌を放歌高吟する意志は、私には毛頭ありません。音楽の中には、ある種の価値はあっても、社会的事情によって完全に抹殺されざるを得ない運命にある曲も存在するわけで、これは哀しいことでもあります。もっとも、瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』は、戦後占領が解けた後、何故かパチンコ屋の客寄せ音楽として復活し、今では自衛隊音楽隊のレパートリーにも入っているようです。あの曲にも「守るも攻むるもくろがねの、浮かべる城ぞ頼みなる」と、れっきとした歌詞があるのですが、流石に歌の方は公には復活していないと思います。航空自衛隊の方に伺ったところによると、空挺部隊の隊歌として、『空の神兵』が復活しているのだそうです。
一つお断りしておきますが、私はカラオケなるもので歌うことは絶対にありません。そもそもカラオケに足を踏み入れたこともないですし、残り少ないであろうこれからもありません。
さて、戦時歌謡を離れて、父が教えてくれた、というよりも、私に歌わせたがった歌に、「嗚呼 玉杯に花受けて、緑酒に月の影宿し」と続く一高寮歌、同じく寮歌「春爛漫の花の色 紫匂ふ雲間より 紅深き朝日影」がありました。したがって、これらは父の愛唱歌であると同時に、私のレパートリーにもなりました。不思議なことに、これらの歌は長調で作曲されたものとのことですが、短調で唱った方が私の感覚には良く合いました。
「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ」という『桜井の訣別』も短調、長調双方で歌ってよいような曲想です。また、「園の小百合、撫子、垣根の千草」という詞で始まる『故郷を離るる歌』、「夕空晴れて 秋風吹き」つまり『故郷の空』や、「庭の千草も 虫の音も」の『庭の千草』などは、本来外来音楽ですが、歌詞の美しさや受容の仕方もあってか、曲想も変わって(特に『故郷の空』はその典型でしょうか)、学校の音楽教育での重要な材料となっていましたから、主として私は母から教えられたように思います。
小学校二年生まで、私は歌好きな少年として、上記のような歌たちを公私ともに歌いながら生きていました。それが、私にとっての「音楽」だったのです。繰り返しますが、「公」の場面で、謡曲のような「日本音楽(?)」の徒でもあることは、おくびにも出しませんでした。
三年生になったとき、父親は、突然私の「歌」の世界に改革を加えることを決心したようです。というのは、医師である自分が学んだドイツ語を、ドイツ・リートを原語で教えることで、私に導入しようと試み始めたのです。これは、彼にしてみれば自然なことだったとも考えられます。彼が過ごした旧制中学・高校では、なかんずく医学志望のコースでは、圧倒的にドイツ語が幅を利かせていて、歌もドイツ語の民謡、例えばカタカナ語で『ムシ・デン』で知られる<Muss i denn>(別れの歌)や、『ローレライ』(Loreley)などが好んでドイツ語で歌われていましたし(後者は「民謡」とはいえないかもしれませんが)。
また、日常用語にも「メッチェン」(<Maedchen>つまり「女性」のこと)、「シャン」(「美しい」つまり<schoen>が転訛したもの)、「ドッペる」(<Doppel>は英語の「ダブル」に近い言葉ですが、ここでは学生用語で「同じ学年を二重にする」つまり「留年する」を意味した和製独語)など、広く応用されていました。これらは、今はすっかり死語になってしまいましたが、私が大学に入ったころは辛うじて、いわば過去の残滓として、大学という空間の中に残っていたものです。
余談ですが、医学の世界ではいまだに多少その傾向があり、例えば「個人診療録」のことを「カルテ」と呼んだり(実はドイツ語では「個人診療録」は普通<KG (注1)>と呼んで、<Karte>とはいわないので、これも「和製」ということになります)、また「患者が昨夜ステっちゃってね」などと言ったりしているようです。「ステる」というのは「死ぬ」というドイツ語<sterben>を日本語化したものです。
注1)
Krankengeschichteの略語。直訳すれば「患者の歴史=履歴」です。なお<Karte>の方は、英語の「カード」と同語源で、「カード状」のものすべてを指します。例えば、汽車の切符や入場券、葉書、名刺、(レストランでの)メニュー、トランプなど幅広く使います。
話を戻しましょう。父は、先ず『野薔薇』から始めました。この歌詞はゲーテの作で、愛する人への思いを「野に咲くバラ」に喩えた詩です。多くの作曲家の楽想を刺激したようで、著名な作曲家だけでも、シューベルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどが曲を書いています。私が学んだのは、最も有名なシューベルトとヴェルナー(Heinrich Werner, 1800-33)の歌曲でした。<Sah ein Knab’ ein Roeslein stehn, Roeslein auf der Heiden>と始まります。歌詞を覚えれば、曲の方はシューベルトのものも、ヴェルナーのものも、比較的単純ですから歌い易く、いわばレパートリーが二曲一挙にできた感じで、重宝しました。
次に教えられたのは『菩提樹』でした。これもシューベルトの『冬の旅』の第五曲としてあまりにも有名な作品です。<Am Brunnen vor dem Thore, da steht ein Lindenbaum>と始まります。歌詞は全体がミュラー(Johann Ludwig Wilhelm Mueller, 1794-1827)によるもので、その点は同じ作曲家の『美しき水車小屋の娘』と同じです。
ただ、ここでは一つの難点が生じました。『冬の旅』の楽譜にある『菩提樹』は、原詞は定型的な三節からなりますが、曲の方は単純な三節構成になっていません。第一節がE-Durで書かれているにも関わらず、第二節に入ると、譜面は突然同じ<E>調ではあってもe-Mollに転調して(嬰記号が三つ落とされて)、最初の二行<Ich musst’ auch heute wandern, Vorbei in tiefer Nacht, Da hab’ ich noch im Dunkel, Die Augen zugemacht>を歌うように指定されます。短調になった十二小節の音楽が終わると、調子は再びE-Dur(嬰記号四つ)に戻ります。
ところが、次の詩の第三節に与えられた音楽は複雑で、譜面上の転調はしないものの(つまり嬰記号四つ)、詩の第三節の最初の二行<Die kalten Winde bliesen, Mir grad’ in’s Angesicht, Der Hut flog mir vom Kopfe, Ich wendete mich nicht>に与えられた八小節の間は、Cis(C#)とGis(G#)の嬰記号は、臨時の「ナチュラル」記号でキャンセルされて、実質上e-Mollと同じことになり、しかも楽想もかなりそれまでとは異なった、激しい形の歌になります。これを中間部とすれば、音楽上の第三節では、調性は最初通りで(譜面上E-Durのままです)、しかも詩は第三節の最初の二行を、中間部で使ってしまっているので、第三節後半<Nun bin ich manche Stunde, Entfernt von jenem Ort, Und immer hoer’ ich’s rauschen, Du faendest Ruhe dort !>という二行を、そのまま二回繰り返して辻褄を合わせる、といった具合です。しかも、最後の三小節のフレーズだけはリフレインする形になっています。
この楽曲構成は、なるほど詩の内容ともよく合致していて、とても見事にできていますが、ピアノの伴奏がない場合(学芸会などは大抵そうでした)、効果は半減するし、しかも小学三年生が歌うには、難し過ぎるともいえます。
そこで父は、原曲の第三節の音楽を、詩の上での三つの節に同じように適用して、つまり第二節前半の短調への転調はなし、実質上e-Mollの中間部もなし、すべてを同じ長調で歌い、そして原曲の第三節で行われている最後の三小節をリフレインするという方法を三節とも採用する、という便宜を図って教えてくれました。以後、学校で独唱を頼まれると、この二曲をとりあえずは歌うという習慣ができました。
その後、シューベルトのリートでは『セレナーデ』、『魔王』などなど、シューマンの『詩人の恋』から何曲か(特に『我は恨まじ』は大好きになりました)、『ミルテの花』の『献呈』などなど、レパートリーのリストは、中学二年生になって、声変わりが頂点に達し、まったく歌えなくなるまで、少しずつでしたが、着実に増えて行きました。可能な時には、姉がピアノの伴奏で付き合ってくれるようにもなりました。
父親を離れて、ドイツ・リートも離れて、自分で楽譜を探して勉強したものとしては、日本の歌曲が多かったように思います。山田耕筰の作品群、中山晋平の作品群などが主で、その他に長いものでは『千曲川旅情の歌』などですが、こうして挙げてみると、決定的に欠けているのが、歌を多少とも集中的に学ぼうとする人にとって最も基礎になるはずのイタリア古典歌曲です(ナポリ民謡などは歌った覚えがありますが)。また、シャンソンもアルゼンチン・タンゴも視野には入っていませんでした。
子供らしくない歌好きだね、という読者の声が聞こえてきそうです。確かに、学校唱歌には好きな歌も沢山ありましたが、いわゆる童謡、特に子供らしさに媚びたような(と思えたのです)歌と歌い方には、生理的な嫌悪を覚える子供でした。『かわいい魚屋さん』、『お猿のかごや』、『森の小人』、『みかんの花咲く丘』などは、歌自身もそれを歌う歌手たちも、正直なところ心底嫌いでした。『月の沙漠』辺りがぎりぎりのところだったでしょうか。
まあ、戦後否応なくラジオ放送で耳から入ってくる流行歌は、既に書いたように家庭内では一応タブーになってはいましたが、『湖畔の宿』、『湯の町エレジー』、『山小屋の灯』、『鈴懸の径』、『長崎の鐘』、『山のけむり』などは、いつの間にか口ずさむ歌の中に含まれるようになっていましたし、藤山一郎、近江俊郎、灰田勝彦、伊藤久男らの歌手たちへは憧れに似た感興を抱いていたことも確かです。
ところで、ここで気が付いたのですが、愚かなことに、本稿でお伝えしたかったことの中心的な部分は手付かずで取り残されているのに、紙数が尽きました。表現上の伏線は、いくつか張ったつもりではありますが。本稿は次回以降に続く、ということで読者のご了解を得たいと思います。
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。