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村上陽一郎

スーパー書評「漱石で、できている」9 宮澤賢治の童話 その1

2021.01.13

Updated by Yoichiro Murakami on January 13, 2021, 17:10 pm JST

「私」は漱石によって作られた、とかつて書きましたが、「私」の一部(それも軽視できないほどの部分)には賢治も入り込んでいます。かといって、世にある「ケンジアン」とは、自分は少し違うように思っていますが。両親が講談社の絵本の次に私に与えた本は、賢治の童話でした。当時から最も親しくなった二冊の書物、『風の又三郎』と『グスコーブドリの伝記』(羽田書店)は、今も書棚の手の届くところにあります。そこで、ここでは賢治の童話に限って考えることにします。

と言いながら、最初に触れるのは、童話ならぬ、例の「雨ニモマケズ」です。ケンジアンから見ると、私などは、まるで素人か異教徒のように映るかも知れない、と自覚する理由の一つは、ケンジアンに叱られることを承知で書きますと、この詩に全幅の信仰心を持てないことによります。

小学校で担任となった先生のお一人は、見事なケンジアンでありました。国語の授業などでは、教科書そっちのけで、「どんぐりと山猫」を読ませたり、「精神歌」を歌わせたりで、宿題の一つは「雨ニモマケズ」を最後まで暗唱できるようにすることでしたから、今でも、私は最初から最後まで、原文の通りに空で、この詩(とりあえず「詩」と呼ばせていただくことにして)を暗唱することができます。大好きな件もあります。漢字・仮名は原文通りではありませんが、

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ
南に死にさうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言ひ
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないから止めろと言ひ

このレトリックなどは、本当に見事だと思います。もともと、他人に見せるつもりのなかったであろう、手帳に殴り書きのような原文ですが、よく練られた、現代に書かれた自由な詩として、傑出したものと評価するに吝かではありません。

とはいえ、私はどうしても、この詩に微かな、本当に微かではあるものの偽善を感じてしまうのです。多分問題は,詩にあるのではなく、そう感じてしまう私にあるのでしょう。小学四年の春、この詩を最初に黒板で紹介した先生の、この詩に対する「信仰心」ともいえる絶対的心服が、初めて具にこの詩を知ることができた私の子供心に、逆に微かな反発を呼び起こしたのだと思います。むしろ、自分で最初から本格的に接していれば、この詩の真髄にもっと素直に入り込むことができたかもしれません。

もっとも、上に述べた『グスコーブドリの伝記』という本の扉絵には、横井弘三による石碑の木版(実際の高村光太郎の碑とは少し違うようですが)が掲げられており、そこには「野原の松の林の・・・」から最後までが刻まれていますし、目次の前に「詩」として、その全文が原文のままの形で紹介されていますから、全く新規に小学校で教えられたのではなかったのですが。

そんなわけで、最初から妙な書き出しになったかもしれません。しかし、話を童話に限れば、賢治の書くもののどれもこれもすべて、心から愛して已まないものばかりです。二編の群を抜いて長い作品、つまり上の二冊のそれぞれの表題作は、一つずつきちんと取り上げるべきものでしょう。でもここでは、もう一つ制限を加えて、短編童話だけに話題を絞ることにしたいと思います。

上記二冊の単行本に収められている作品は、その全てが魅力的なのですが、子供の頃に最も魅力的に思えたのは「オツベルと象」という作品でした。このタイトルも、賢治の作品に多く見られるように、いろいろなヴァージョンがあって、最初に接したときは「オッペルと象」でしたが、さまざまな考証の結果、「オツベル」とするのが至当らしいので、ここでは、そう記すことにします。

主役は白い象なのですが、主役に準ずる人物は、オツベルという富裕な地主、もともと多くの使用人を使って、稲の脱穀などを大掛かりに行い、巨利を得ています。そこへ、森から出てきた白象が迷い込むようにやってくる。オツベルは、言葉巧みに象に足かせなどを嵌めさせ、「のんのん」と音を立てながら動く脱穀機を動かす動力に利用する。人の(?)よい象は、オツベルの舌先三寸にまるめこまれ、きつい労働を、楽し気にこなしていきます。

夜は、月と会話しながら、時を過ごします。オツベルは、しめしめ、というわけで、飼料は減らすは、労働量は増やすは、やりたい放題。水を汲ませ、薪を運ばせ、鍛冶ではふいごの替りをさせ、食べ物の藁は一把ずつ減らされていく、といった有様。とうとう苦しくなった象は、月に向かってサンタマリアと呼びかけながら、もう駄目ですと訴えます。

月は、仲間に助けを求める手紙を書くよう勧め、赤い着物の童子と紙と筆とをオツベルの許に送ります。手紙を読んだ仲間は、一斉に「グララアガア、グララアガア」と叫び合いながら立ち上がって、オツベルの家を襲うのです。オツベルは六連発のピストルを撃ちます。仲間の象は、何かぱちぱち当たるねえ、といった風情です。こんな場面が続いた後、とうとう五頭の仲間がオツベルの邸になだれ込み、オツベルはくしゃくしゃになってつぶされます。白象は「たいへんやせて」助け出されます。そして、皆に「ありがとう」と白象はさびしくわらっていいました。

この話の構図に、人間社会における悪徳資本家と搾取される労働者の関係を読み取るのは自然でしょう。一人では事態を改善できない労働者が、仲間と手を組むことで力を得る、という教訓も窺えます。逆に、自己の利益を優先しがちな支配層への教訓とも受け止められるかもしれません。

しかし、そうした社会派的な主張を読む前に、月と白い象、そして仲間たちの造り出す、優しく伸びやかな空気こそ、賢治の作品に共通して流れる最大のモティーフでしょう。そこに興を添えるのが「のんのん」といった機械の発する音のオノマトペや、象たちの叫び声。賢治の独擅場です。

そうした生き物たちが綾なす自然に対する賢治の眼差しは、ほとんどすべての作品の背後に共通するものです。誰もが感じることですが、これは一つには、彼の法華経に対する帰依に由来するものでしょう。

それが鮮明に現れるのは、「よだかの星」です。よだかは、いわば被差別鳥です。ひばりでさえ、よだかに会うとそっぽを向きます。小鳥たちは「鳥仲間のつらよごし」などと罵る有様です。名を「騙られ」ているかに思う鷹は、会う毎に「名前をあらためろ」と強要します。お前の名前は「おれ」と「夜」から借用したものに過ぎない、「市蔵」と改名し、それを書いた札を首から下げて、それぞれの鳥の家を回るがいい、実行しなければお前を殺す、とまでいうのです。

絶望したよだかは、夜空に向かって、口を開けて飛び立ちます。何度か空をよぎる間に小さな虫たちが咽喉に入ります。中に甲虫がいて、口の中でもがきます。飲み込んだよだかは、そこで気付きます。自分が生きていれば、こうして虫たちが毎晩何匹も殺される、そして明日は自分が鷹に殺される。だとしたら、自分はもう何も食べずに空のかなたに飛び去ろう。そう決心したよだかは、夜明けとともに、お日様に向かって飛び立ち、自分を迎え入れてくれるように頼みますが、お日様は、お前は夜の鳥だから、夜、星に頼んでごらん、といいます。

よだかは、野に落ちて、夜まで気を失っています。夜、また空に駆けのぼったよだかは、オリオン座、大犬座、大熊座、鷲座と、星々に呼びかけますが、どれもまるで相手にしてくれません。失意のよだかは、地上に落ちる瞬間、最後の力を振り絞り、まっすぐに空へのぼっていきました。寒さに息も凍り、羽はしびれて動かなくなります。それがよだかの最期でした。しかし、そのとき「その大きなくちばしは、横に曲がっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました」。やがてよだかは、いつまでも青白く静かに燃え続ける星になった自分に気付くのでした。

この魅力的な話の眼目の一つは、甲虫を無理に飲み込んだとき、そして明日は鷹に殺されると思った時に、殺生をしなければ生きられない自らと、誰かの殺生の餌食ともなる自分の立場を、乗り越える可能性に賭ける決心をするところにあります。そして静かな最期、「少し笑う」ことのできる境地、それがもたらす永遠の<well-being>。あたかも、仏教でいう「寂滅為楽」そのもののように読むことができます。お説教臭さの微塵もない筆致で語られるこの見事な物語は、確かに仏の説く涅槃の世界を鮮やかに表現しているのではないでしょうか。

この作品の文章もまた、優れたものです。例えば、よだかが最後の飛行に飛び立とうとする夕景、彼方の山の稜線は落日の残光で、「山焼け」が鮮やかであった、という伏線の上で、すっかり暮れた空を「まっすぐにのぼっていく」よだかの目に映る山焼けは「もう山焼けの火はたばこの吸殻ぐらゐにしか見えません」という一行、この表現力はなんと見事でしょうか。

(この項続きます)

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。