WirelessWire News Technology to implement the future

by Category

スーパー書評「藤沢周平が描く人間の暗部」
『黒い縄』ほか

2025.06.03

Updated by Yoichiro Murakami on June 3, 2025, 12:27 pm JST

この作家を選ぶに当っては、随分考えました。選びたいという意欲があるのですから、藤沢ファンであることを自認することになるのは当然として、しかし、世には藤沢ファン、しかも熱烈なファンが数多おられるのを知っている身としては、何かを書いて、忽ち、お前の言うことは間違っとる、という指摘が、あちこちから飛んでくる、つまり不肖のファンとして馬脚を現す危険性が極めて高いわけで、君子危うきに近寄らず、を決め込んでおく方が賢い、と我が身に備わった常識は囁くのです。

もう一つ、これも書くと双方から批判の声が上がるとは思いますが、書かれる時代や題材にはかなりの共通性もないではない、しかも同じような多作家として知られる人に池波正太郎がいます。正直に言うと、私のこの種の読書は、山本周五郎を除けば(彼については、別項を立てて論じる所存です)、先ず池波作品に始まりました。藤枝梅安やら、秋山小兵衛やら、「鬼平」やらにすっかり魅せられて、文庫版(廉価なので)を片端から読破しているその最中に、当時愛読していた『オール読物』の中に、藤沢の初期の作品(遥か薄れた記憶に頼るとすれば、後に「オール読物新人賞」を齎した昭和46年の「溟い海」か翌年の「黒い縄」ではなかったか、と思います)に出会って、これは、と思ったのですから、ことの公平の為に、池波に触れないで済ますことはできない、というのが正直なところです。

そうは言っても、二人の著述に対する姿勢や方法は、非常に違います。池波作品に最初に触れたのが何であったか、今では記憶の影に入ってしまっていますが、やはり『オール読物』の連載だったはずです。その文体に触れた時の衝撃は今でも鮮明です。殆ど毎行改行が行われ、時には会話でない中での「や」だの「むぅん」だの、極端なときは「・・・」で一行が費やされます。要するに<マル>から次の<マル>までの一文章が、必ず行替えで記載されるわけです。だから総じて紙面はとても「白い」のです。一冊の書物で、定価を総字数で割ったら、池波作品は相当割高になるのでは、などとさもしいことを考えたことさえありました。慣れてくると、その書法が快く感覚に訴えてくるのも確かなのですが。

他方、藤沢の文体は、およそ違います。端麗で、選び抜かれた言葉が、清潔な文脈のなかに、きちんと場所を得る。こう書くと、何だか池波のそれが、ひどく否定的に感じられているような印象を与えるかもしれませんが、それは違います。まるで両者は次元の違うような書法に依拠しているので、同じ平面で比較は出来ないというのが、私の感覚です。

ただ、池波にせよ、藤沢にせよ、自分の作品が所謂「純文学」に数えられるとは思っていないでしょう。流行りの言葉に頼ればエンターテインメント(「エンタメ」などと見るも聴くもおぞましい略語などは使わないで下さい)の為の文学であることは、異存のないところでしょう。

話は変わるようですが、音楽の世界でも、芸術と娯楽のジャンル分けには厳しい面があります。芸術作品としての音楽がステージで演奏されるとき、聴衆はしわぶき一つ殺して、身動きさえ我慢して、只管高貴なる何物かを戴く、という姿勢で接することが義務化されています。終わったときの反応も、拍手だけ、まあブラヴォ、ブラヴァの声を発することは許されるでしょうが、娯楽音楽の際の口笛やら足踏みやらは、まして手持ちのライトなどは、純音楽の会場では厳禁です。もっとも一言付け加えれば、オーケストラの演奏会で、ソロ楽器の協奏曲の演奏家を迎えたときなどは、演奏が終わったときの一種の儀礼もあって、オーケストラのメンバーが一斉に足踏みをすることはあります。楽器を手にしていて拍手がし辛いこともあっての、反応ですが、聴衆が足踏みをすることは先ずありません。

脱線しましたが、文芸の世界でも、純文学と娯楽のためのそれとの間には、厳しい区別があるようです。かつて「むっつり右門」(右門捕物帳)や「旗本退屈男」などで一世を風靡した作家に佐々木味津三という人がいました。彼は菊池寛、芥川龍之介らと交流しつつ純文学を目指して、作品を発表していましたが、自宅の経済的窮状を救うために、手っ取り早く金を稼げるような方向に転向し、同時に一種のコンプレックスにも苦しんだと言われます。芥川の励ましで救われた、と述懐しています。

そういう点では、野村胡堂、海音寺潮五郎、吉川英治(彼らについては、正直のところ私は殆ど読んでいませんので、語る資格は全くありません)や山本周五郎などにも、「純文学」を念頭に措いた葛藤が色々とあったと思いますが、音楽の世界での並行現象が直ちに思い出されます。

東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽部)に在籍して、ハイバリトンとして将来を嘱望されていた増永丈夫が、やはり実家の窮状を見かねて、在学中に禁じられていたアルバイトとして流行歌の世界に足を踏み入れて、見事な成功を収めた という典型例があります。彼、藤山一郎は、その後、娯楽音楽の世界の言わば帝王の地位に上り詰めましたが、「楷書の歌手」と称されたように、常に正当な歌唱法、譜面を崩さず、言葉もきちんとした日本語から離れることはなく、純音楽の過去を背負ったものの矜持を持ち続けたように思われます。それは、転向へのコンプレックスの鮮やかな裏返しであったとも推測されるのですが。

そういう点で、江戸職人の伝統を継ぐ家庭で育てられ、都会の只中で、小学校卆で奉公に出、株式の売買で若くして財を成した池波と、東北の農業地帯を生まれ故郷としながら、山形師範(現山形大学)を卒業して、国語と社会を学校で教えていた藤沢という、両者の出自の対称も、陰に陽に作品の性格に影響していたと考えることもできるかもしれません。
と書いたところで、さて、本稿をどう続けましょうか。藤沢作品の多くでは、時代は江戸時代と設定されていますが、舞台は海坂藩という架空の、ただし北国の小藩という形で、話が進められます。海坂藩は、藤沢の故郷である山形の庄内藩がモデルと考えられますが、地形、地名なども詳細に設定されていて、『海坂藩の面影』(鶴岡市観光連盟)というパンフレットでは、現在の鶴岡市の地図の上に、海坂藩として描かれている諸作品の具体的な場を重ね合わせた「散策絵図」が綴じ込まれています。

そうした前提から当然ながら、作品の中では、架空の空間と雖も、幕藩制度に基づく武家社会の決まりは、丹念な史料の分析に基づいて、正確に再現されています。藩の実権を巡る争い、藩主の世子の場を巡る争い、江戸詰めと国許との様々な格差からくる問題、武家制度の一つとしての敵討ち、あるいは隙あらば介入しようとして藩の実情に目を光らせる幕府の監視体制というような、当時の大きな社会空間から、市井一般の庶民が営む微細に亘る「世間」の姿までを題材として、藤沢の筆は、縦横に走ります。

藤沢の作品の中には、雲井龍雄を題材にとった『雲奔る』、長塚節を主人公にした『白き瓶』、あるいは新井白石の生涯を描いた『市塵』、歌麿が主役の『喜田川歌麿女絵草紙』など、実在の人物を小説に仕上げた作品が幾つかありますが、その他の目覚ましい数の小説群の登場人物は、完全に作者の造り上げたものです。ただ、現実の庄内藩で起こった史実を調べた上で、書き上げた「長門守の陰謀」(現在は表題作をタイトルにした『長門守の陰謀』文春文庫に所収)は、実際の人物の評伝風の小説というよりは、「小説」そのものに近く、その後の藤沢作品の重要な節目とも言えるものではないでしょうか。

それはともかく、藤沢作品の一つの特徴は、描かれる女人像にありましょう。池波の作品に登場する女性が、ふくよかな肉の色と香りに満ちているのに比べて、藤沢のそれは、飽くまで慎み深く、静謐な面影を崩しません。男女の情熱が熱くたぎるような場面でさえ、その慎みは保たれます。例として、今は短編集『闇の梯子』に所収されている「相模守は無害」を挙げましょうか。

幕府隠密の明楽箭八郎(あけらやはちろう)は、永年海坂藩の情勢を探りに潜入していましたが、藩内の厄介ごとを巧みに収め、問題が起こる可能性がなくなったことを見定めて、その報告を伝えかたがた、久しぶりに江戸へ戻ります。しかし、戻った家にいるはずの母も妻も既に亡く、箭八郎は厳しい義務からの解放感よりも、孤独感に打ちのめされます。それを救ったのは、幼い頃からの顏馴染で、留守中母を看取ってくれたという隣家の勢津という女性でした。彼女も夫を亡くして娘と二人暮らし、身の回りの家事をしてくれるというのです。しかしある日、箭八郎は、海坂藩江戸屋敷の有様を垣間見て、自分が働いて落ち着いたはずの藩の情勢が、一変していることに気付きます。幕府へ行った報告が凡そ的外れになって仕舞っていることに気付いた箭八郎は、もう一度海坂藩へ戻ると決心します。気配を察した勢津は、思い余って夜半に箭八郎を訪ね、二人は激しく抱擁することになります。しかし、最も高揚してよいはずのこの場面で、藤沢の描く勢津は、それでもなお、慎みを忘れない女性として存在するのです。

そもそも、この勢津が熱い抱擁の中でも武家の女としての則を崩さない姿勢にこころを打たれながら、そのことが、海坂藩に潜入中に、酌婦の建前で近づいてきた女と数回の情事を持ったときに、その相手が酌婦らしからぬ慎みの態度を崩さなかったことを、箭八郎に思い出させ、その女が酌婦などではなく、藩の上層部から箭八郎の身分を探らせる役割を担っていて、結局は彼の身分はとっくにバレており、彼が藩に滞在中に仕組んだ改革プログラムは、彼を欺く偽計であったのでは、という強い疑惑を箭八郎に持たせた、という設定になっています。

つまり、ここでは、女性(武家の)の情事における慎み深さが、物語の主要なキーになっていることになります。このモティーフは、色々な工夫の中で、繰り返されて藤沢の作品に現れます。もう一つだけ例を上げれば「ただ一撃」という短編にも、このモティーフが形を変えて現れます。死をかけた試合を引き受けて、老いをかこつ舅が、修練によって若い頃の野生を取り戻し、試合前日、息子の嫁三緒に挑み、三緒もそれが試合を迎えるために不可欠ならば、と受ける。彼女は翌日朝自害をして果てます。藤沢は物語の終末に、三緒の自害の理由を明かしますが、それは舅と嫁という許されぬ仲の間の営みであったことではなく、その際女としての慎みを忘れ、その野生溢れる営みにあって、躰が「不意に取乱して歓びに奔った」ことだったのだ、とされているのです。

際どい場面に話が集中してしまったようで、気を取り直しましょう。これは、誰しもが言うことで、藤沢本人も自己を語るエッセーの中でしばしば言及しますが、ある業界紙の記者をしながら、作家としての道を歩み始めたころの藤沢は、様々な鬱屈を抱え込んでいて、それがそのまま作風にも反映されていました。私が初めて彼の作品に『オール読物』誌上で出会った頃には、期せずしてその短編のタイトルも「溟い」だの「黒い」だのという言葉含まれていて、いかにも陰鬱な雰囲気が漂う印象があり、むしろ池波作品には全く見られない、そうした作風が、とても新鮮で、心に響いてきたのだと思います。

昭和48年に発表されて直木賞に輝いた「暗殺の年輪」(現在は、表題作をタイトルにした文春文庫で読めます)も、心を寄せる女性の兄を含む権力者たちの陰謀から暗殺を手掛け、しかも首謀者たちの手で抹殺されようとする主人公馨之介の暗い運命を描いたものですし、「黒い縄」は商家の娘おしのが、縁づいた先でいたたまれない仕打ちを受けて実家に戻っている間に、思いを寄せあう若者が追われる身であり、実家に出入りをする岡っ引きの地兵衛に執拗に追及される緊迫を描いた作品ですが、この地兵衛という岡っ引きが実に「暗い」印象を与えて、読者に救いようのない反応を強いるように仕上がっています。

こうした初期の作品群の「暗さ」は、確かに、ハピーな読後感からは程遠い印象を齎しますが、人間は常に「ハピー」を求めるわけでもないことは重要です。一つ思い出すのですが、オーストリア生まれで、生化学の専門家でありながら、言語・文藝の世界にも、専門家裸足の見識を示したシャルガフという人が、面白いことを書いています。英語の<happy>という語に相当する語は、他の言語には見つからない(彼は十を超えるヨーロッパの言語をマスターして、書物はすべて原語で読む、という習慣を身に付けていた人です)と言うのです。この言葉は、およそ影のない、底抜けの明るさしか運ばない、非人間的な言葉ではないか。

話が脱線しましたが、私の出会った藤沢作品は、一般の反応も含め、藤沢自身の「反省」もあって、次第に彼の作風に変化が生まれ、爽快な読後感へ導いてくれるような、言ってみれば「ハピー・エンド」に終わるような作品も多く書かれるようになります。例えば「たそがれ清兵衛」を代表作とする短編集『たそがれ清兵衛』(文春文庫)では、「うらなり」だの「かがなき」だの「だんまり」だの「ほいと」だのという、一見芳しくない世評を背負った主人公たちが、最後には人を驚かすような仕事を見事にしてのける、そういう小説集で、読後はすっきりと爽やかに終わるものです。

そうした作品を読むのは私も大好きですが、初期の作風が無意味であったとは、夢にも思いません。人間に付き纏う「ハピー」でない何ものか、それを無視した文芸は、あり得ないと思うのです。読むことに伴う「しんどさ」も、文芸の重要な働きの一つではないでしょうか。

藤沢の長編の代表作には触れる機会がないままに本稿を終わることになりますが、それは、触れる価値がないわけでも、読んで面白くないわけでも、断じてありません。ただ、成り行きでの結果として読者のお許しを得たいと思います。

WirelessWire Weekly

おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)

登録はこちら

村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。

RELATED TAG