たまには、自身の専門領域から、ただし、かなりポピュラーになった書物を取り上げさせて頂きます。著者はトマス・クーン(Thomas Kuhn、1922~96)、原著は1962年<The Structure of Scientific Revolutions>として刊行されました。中山訳は1971年の刊行です。さらに同じ書肆から、ハッキングという人が書いた序説を加えて、新しい訳書が出版されました。原著が刊行されて50周年を記念に、アメリカで新版が刊行されたものの全訳ということになります。
旧訳書の訳者中山茂氏(1926~2014)について、多少言及しておくべきでしょう。私が東大の教養学科で学んでいるときに、ハーヴァード大学の大学院を終えて、1960年講師として着任されたばかりの中山氏の講義を受けたことがあります。氏は広島から上京(被爆経験がおありです)して東大で、天文学を学び、平凡社に就職されますが、フルブライト給費生としてハーヴァードの大学院で、科学史の訓練を受けられました。その際、クーンにも直接薫陶を受けていますから、翻訳者としては最適であったはずです。その後、東大の教養学部講師のまま1989年定年を迎えて退官されました(正確に書くと、定年1年前に、講師から助教授に昇進されています)という経歴をお持ちの方でした。
学業の先輩であり、いろいろな業績もお持ちの中山氏に関して、負の言及をするのは心重いのですが、歴史の記録としても、率直に語っておかねばならないことが二つあります。その一つは、東大教養学部における氏の処遇についてです。私が東大教養学部に助教授として着任したのが1973年、その際かつて私が学生の頃、講師として教壇に立たれていた氏は、講師のままの身分であったわけです。定年一年前に助教授に昇任されたのは、定年を迎えるスタッフへの事務的な仕来りによるものでした。氏が教養学部の講師として迎えられたのは天文学教室であって、科学史・科学哲学教室ではありませんでした。ですから、私が学生として氏の講義を受けたのは、師の専門が科学史であることから、言わば「越境」的な扱いでの講義であったわけです。
ところで、氏が天文学教室に迎えられた経緯は、当時同教室の助教授であった小尾信彌氏が1958年に渡米されるに当たって、プログラムに欠落ができるのを補うために、小尾氏が帰国するまでの臨時の約束で、中山氏が着任されたということでありました。後で考えれば、この種の約束は、一般の労働法の上では無理筋だったかもしれませんが、大学という良識の府(?)での紳士協定としては、幾つもの先例があった由です。しかし、小尾氏が1961年に帰国された際、中山氏は、天文学教室が移動先の手筈まで整えていたにも関わらず、移動を拒否されました。小尾氏の居場所も含めて、窮地に立たされたのは天文学教室でした。そしてこの人事問題は、教養学部全体の問題にもなってしまいました。
その結果、中山氏は、天文学教室とは無縁(同様に科学史・科学哲学教室とも無縁)の一講師として、定年まで勤められることになったのでした。科学史・科学哲学教室も、学部全体の事情から、身元引受となることは不可能な状態でした。しかし氏の専門が科学史なので、この中山氏の処遇は、外部からは、科学史・科学哲学教室の「不当な処置」と見なされることが多く、私なども随分批判もされましたが、実情はそんなところにあったのです。
この陰惨な問題とは全く別個のところで、本題のクーンの著作の訳本における中山氏に、実は問題がありました。既に書いたように、当時この本の翻訳者としては、クーンとも知遇を得ていた中山氏が最適の訳者であったはずですが、刊行を急がれたのか、初版の訳業は杜撰としか言えないものでした。あるいは、杜撰というよりは、著者と専門を同じくすることからくる「安易さ」が働くのか、原文に接したときの自己流の印象を、そのまま訳文としてしまう傾向が強かったのかもしれません。
後年、ある大学のゼミで、原著講読にクーンの書物を使った際、中山訳と比べた結果は、訳書のすべてのページが、訂正で真っ赤になってしまった経験があります。最も判り易い例を一つだけ挙げましょうか。原著に<successive theories>という表現が使われているところがあります。中山訳では「成功した理論」となっています。日本語としては違和なく通ってしまうので、困惑は深まるのですが、言うまでも無く<successive>は、「成功する」という動詞である<succeed>を語源としていますが、この動詞には、同時に「繋がる」、「後継する」の意味があって、この点は英語を学んだ人間なら誰でも注意すべきことの一つと弁えているはずです。そして形容詞となると<successful>と<successive>とに分かれることも。これは単に一例にすぎません。ハーヴァードで学位をとった研究者の訳業として、理解しかねること、と書かざるを得ません。よほど急がれたのでしょうか。
さて、余計な負の雑音で初めてしまいましたが、今では、政治家や文筆業の方々まで、日常的に使われる表現となった「パラダイム」<paradigm=英語>という語を、かくも流行らせた原点がこの書にあります。もともとは、古代ギリシャ語ですが、<para>つまり「一緒に」、「並んで」、<digm>「見せる」という熟語で、最も簡潔には「範例」という訳語が使われます。「模範」という漢語が運ぶ「優れた」、「立派な」というニュアンスはなく、「一つのグループに属するものを示す実例」といった感じの語です。例えばラテン語の規則動詞で第一活用に属する動詞は沢山ありますが、通常<amo>を使って活用を覚えます。そのとき<amo>は第一活用動詞のパラダイム(代表例)ということになります。まあ短いですし、よく使われますし、意味も悪くないので、といったところで、代表例になるわけですが、第一活用として特別に「相応しい」というような価値的な意味付けはないと考えて良いと思います。
そういう意味で使われてきた「パラダイム」という言葉を、認識論における基礎概念として、提案したのがクーンでした。通常歴史は「進歩」すると考えられる傾向にあります。次に来る時代が、今より「悪い」と考えたくない心理が働くのも一因かもしれませんが、とりわけ科学の場合、観察・実験を重ねれば重ねるほど、多くの知見が手に入るわけですから、その上に組み立てられる理論も、過去よりは現在、現在よりは未来という時間の流れの上に、より「正しい」(或いは、より「合理的」な)体系が築かれるのは、ごく自然なことと考えられていましたし、今でも、そうした「進歩史観」が通用すると考えている人々は多いのではないでしょうか。
実際、古代ギリシャ・ローマ時代の自然学(自然哲学)に肯定すべき点は少なくないとしても、その後の西欧世界では、16世紀頃までは、自然現象について合理的な理解は進みませんでした。しかし、その頃起こった「科学革命」によって、先ず、古典的、そして(西欧の場合ですから)キリスト教的な概念枠に縛られていた状況から徐々に解放された科学者たち、天文学ではコペルニクス、ガリレオら、医学ではハーヴェイら、そして物理学ではガリレオ、デカルト、ニュートンらが、新しい「科学的な」考え方を次々に展開したではありませんか。
そうした基礎が出来た上で、19世紀から20世紀にかけて、「科学革命」でも生まれなかったような量子力学、あるいは生命現象を司るDNAの構造、など目覚ましい進歩を我々は体験しています。科学は確実に進歩してきたのです。ここに述べたような理解は、決して不合理とは言えず、学校レヴェルでも、一般常識でも、今でもほぼ肯定されていると考えられます。
しかし、こうした考え方で、科学の歴史は本当に捉えられるのか、という疑問が、20世紀半ば過ぎから、徐々に科学史の世界の中に生まれ、育ち始めました。例えば、科学革命期と呼ばれる時代に生きた「科学者」なるものは、本当に宗教(キリスト教)から自由になっていたのでしょうか。ガリレオは、当時宗教界が主張していた地球中心説に異を唱え、『天文対話』という書物を出版することで、太陽中心説(所謂地動説)を提唱したために、異端審問所から断罪されました。しかし、あのガリレオ裁判は、むしろ単純なものでした。そもそも教皇庁のもう一つの部局である出版審査局では、事前に許可を下ろしていました。また断罪されたのは、かつてガリレオと異端諮問所との間に交わされた「コペルニクス説」への公的な支援はしない、という意味の誓約を、あの書物の刊行が違背した、ということにおいてでした。従って、「禁固」という判決も、実際には緩やかなもので、その身柄も暫くは、ガリレオの友人に当たる貴族の館に預けられましたが、間もなく自宅に戻ることも許されました。
ニュートンは、確かに現在の物理学でも基本的には容認している「万有引力」の概念を提唱しましたが、それが地球と月のように、極めて離れた距離にある「もの」どうしの間に働くには、結局は「神の力」を想定せざるを得ませんでした。デカルトは、確かに「慣性」という概念を見事に掴みましたが、その彼は主著『方法序説』の中で、「神の存在論的証明」に熱い思いで取り組んでいます。
そもそも、ニュートンを「科学者」あるいは「物理学者」と呼ぶこと自体が、時代錯誤ではないでしょうか。ニュートンの母国の英語に、「科学者」を表わす<scientist>とう言葉も、「物理学者」を表わす<physicist>という言葉も全く存在しませんでした。これらの言葉が新造されて使われ始めるのは19世紀半ば過ぎからです。言葉がないということは、それが指し示す対象、つまり「科学者」も「物理学者」も、ニュートンの時代には影も形も無かったことを示しています。因みに、ではニュートンは誰だったのか。答えは簡単で、哲学者だったのです。ただし、哲学者というのも、19世紀以降、カントだ、ヘーゲルだ、メルロー=ポンティだ、といった議論をするだけの哲学者とはかなり違います。いや、カントだって、宇宙を論じ、自然に関する知の追求を怠ったことはありませんでした。つまり、私たちがイメージとして思い描く哲学者とは、20世紀、21世紀の大学の文学部哲学科の教授としての哲学者であって、それはそれとして、存在意義を認めるに吝かではありませんが、しかし、そうした存在が18世紀にも17世紀にも、同じであったと考えることは、歴史的に大きな錯誤を侵すことになります。
全く同じことが「科学者」についても言えます。というか、現代の大学理学部物理学科教授のような意味での「科学者」、「物理学者」が、17世紀や16世紀にも存在したと考えることは、とんでもない錯誤を侵すことなのです。言い換えると、現代にある状況が、過去のある時代にも、同じような形で、ただし、現代よりは劣った形で、存在する、と考えること自体が、ひどい時間の錯誤を侵している、そのことに気付くと、簡単に歴史が「進歩」するとは言えなくなります。
別の面から見てみましょう。進歩史観から見れば、昔の人は、科学的にまことに愚かとしか言えないような考え方をしています。例えばリンゴが木から落ちるのも、リンゴという物体に備わった「下降傾向」という性質に基づく現象である、というのが、古代ギリシャの哲学者アリストテレス派の考え方だったと言って良いでしょう。物体が、そのような「性質」を持つ? なんと馬鹿馬鹿しい、と今なら小学生でもそう思うでしょう。では、今の小学生の頭脳に比べて、古代ギリシャの(というより歴史上最大の哲学者の一人とも言われる)アリストテレスの頭脳が、事程左様に愚昧だったのでしょうか。
クーンは、大学院までは理論物理学の分野で勉強を重ねていましたが、たまたまアルバイトで大学生に物理学の手ほどきをしなければならなくなった際、専門的な知識を教えることは出来ないなら、物理学の歴史でも教えてみたら、と考えたそうです。この「でも」は、要するに古典力学が生まれてくる進歩の過程、それが「古典」とされるに至る進歩の過程なら、「簡単な話」だと考えられていたことの表明でしょう。しかし、クーンは調べ始めた科学の歴史の中に、まさに、上のような疑問を見つけてしまったのだと言います。
人間の頭脳の機能が、時代とともに著しく「進歩する」とは、とても考えられないはずです。そうだとしたら、ここに現れてくる「過去の愚かさ」対「現代の賢さ」の背景に何があるのか。クーンはこの問を温め始めたのでしょう。丁度時代も、単純な進歩史観に満足できない研究者たちが、様々な仮説を発表しつつある頃のことでした。そしてクーンが辿り着いた結論が「パラダイム」だったわけです。ある時代、ある文化圏で、物を考える人々の間に、共通に分け持たれているもので、問題を見つける方法、その問題を考えるための概念、解決へと導く方法などが複雑に絡み合った、明示的、或いは暗黙的なモデルがある、と考え、その「モデル」を指す言葉として、クーンは「パラダイム」を提案したのでした。
そうだとすれば、科学の歴史は、連続的な進歩の歴史ではなく、あるパラダイムが強固に支配する時代(通常科学)、それが緩み始め、新しいパラダイムの芽が生まれ始める時代(異常科学)、そして新しく誕生したパラダイムが、古いパラダイムに取って代わる時代(科学革命)、そしてまた新しいパラダイムが安定して支配する時代(通常科学)、こうした時代交代現象の繰り返しこそが、科学の歴史ではないか、というのがその後「クーン主義」と呼ばれるようになった新しい科学史モデルでした。
この点は、一般の歴史観にも影響を及ぼしました。歴史的過去を評定するのに、現代の我々の立場をそっくり過去にも通用するものとして当て嵌めて、如何に過去が現代に比べて愚かで非合理であったか、とすることの愚かさ、パラダイムの考え方は、そうした我々が陥りがちな歴史観、つまりは進歩史観への、基本的な批判をも生み出したことになります。こうした発想を相対主義的歴史観と呼びます。クーンは、比較的温和な常識人でしたので、個人的に話しても、こうした相対主義的歴史観への全面的な賛意を表しませんでしたが、例えばポール・ファイヤアーベント(Paul Feyerabend、1924~94)のようなラディカルな人は、はっきりと相対主義を表明しています。