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Work Is a Four-Letter Word

Work Is a Four-Letter Word

June 18, 2026

yomoyomo yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

「AIは人間の雇用を奪うか?」と聞かれれば、そりゃ奪うに決まってるだろうと思うわけですが、今年度に入り、いろいろあって失業の恐怖を切実に感じ、それに怯えているワタシ的には、それがどの程度なのかが問題になります。

この「AI失業論」については、大企業による人員削減は過剰な人員配置や経済情勢の変化への対処策であって、AIが都合の良いスケープゴートとして使われている(マーク・アンドリーセン)、AI雇用終末論は経済予測ではなくマーケティング戦略で、わたしたちが目撃しているのは、仕事の終わりではなく恐怖の収益化だ(スコット・ギャロウェイ)、といった主張をそれぞれ聞けば、確かにそうなのかもと納得するわけですが、人間の雇用が奪われていること自体は確かです。

コリイ・ドクトロウは、「AIがあなたの仕事をこなせないからといって、AIセールスマンがあなたの上司を説得してあなたをクビにし、あなたの仕事をこなせないAIに置き換えるのを止めることはできない」と書きます。人間をAIに置き換えられるというセールスマンの言葉に経営者が乗る気満々なら、AIが本当に人間の仕事をこなせるかどうかに関係なく、その人の職は奪われる――経営幹部の99%が今後2年以内に「AI関連の人員削減」が起こると考えていると聞けば、やはり経営者層はそういうつもりなのかと思うわけです。

AIによってホワイトカラーの仕事が消滅してしまうといった言説が大げさなのは確かだとしても、AIの影響を受けやすい職種では若年層の雇用減少が観測されています。コンピューターサイエンス専攻であれば安泰という図式が崩れ、8000社に応募しても仕事に就けないという話を聞くと、そりゃAIと雇用について口にしたエリック・シュミットが盛大なブーイングを浴びアメリカのZ世代はAIを嫌っているという見方が出るのも不思議でなくなります。

そして、その徒労感は若年層に限った話ではありません。テック業界でレイオフが相次ぐ中、従業員の士気は急落しており、従業員間の協力や仲間意識が減退し、相互不信が蔓延しており、特定企業の従業員だけがアクセスできるプライベートチャンネルを提供するBlindが盛況だという記事をニューヨーク・タイムズ紙で少し前に読みました。

最近読んだので特に感じ入るところがあったのは、及川卓也氏がGoogle I/O 2026の初日を見て、「私たち自身がDisruptされる側に立たされている」ともらした感慨だったりします。やはり、今年のGoogle I/Oを取材したCNETの記者は、「ディストピア」とまで辛辣に書きます

会場の観客の疲れた表情は隠しようがなかった。Googleの独り善がりな発表は、現実世界では陰鬱な意味を持って響いた。なぜなら、Geminiが自らの役割だと主張するもののために、いままさに仕事や業界そのものが危機にさらされているからだ。

そして、「脅威は開発者だけにとどまらず、オンラインで働くあらゆる人々に及ぶ」と記事は続くわけですが、少し前に話題になった、経済の労働力を吸収する速度よりも速くにAIが人間の労働者を置き換えてしまうなら、企業が頼りとする消費者需要そのものが損なわれてしまうリスクがあることを示した論文「AIによるレイオフの罠」は、まさに「囚人のジレンマそのもの」というべき、競争市場のインセンティブに忠実に従った結果、企業はAIで生産性を上げるが、人間の労働者が職を失い、必然的に経済が回らなくなって市場が崩壊するという、人間にとっての負の連鎖を現出させています。

やはり、超知能AIを作る前に人類は滅亡するのでは、とワタシなど思うわけですが、重要なのは、この論文においてユニバーサル・ベーシックインカムも検討されており、自動化税の補完にはなりうるが代替にはなりえず、企業をAIによる自動化に急き立てる競争構造を止める政策ではないと評価されていることです。

ジャーナリストのスティーヴン・グリーンハウスが、イーロン・マスク、サム・アルトマン、そしてピーター・ティールらがAI脅威論を抑え込もうと語る、最終的には皆が遥かに豊かになる式の楽観論を批判し、国家は国民が受けるべき保障を真剣に考えるべきだし、それには力強い市民運動が必要だと訴える文章をガーディアン紙に寄稿していますが、AIを巡る議論が「技術論」から急速に「政治経済論」に移行している潮目の変化を感じます

そうなると、人間の労働力をAIに置き換えようとする経営層の論理を知ることも重要になります。経営層のAIへの過大な期待をTechCrunchは「AI psychosis(AI精神病)」とものすごい表現で揶揄していますが、WIREDの「テックCEOたちはAIの分身で“遍在する存在”になれると考えている」は、そのあたりに応える記事です。

この記事では、Metaのマーク・ザッカーバーグとBlockのジャック・ドーシーの二人が取り上げられていますが、いずれもAIを自らの存在を更に拡張し、統制を強める手段と見ていることが分かります。Blockの従業員の40%にあたる4000人を解雇したジャック・ドーシーは、「階層から知能へ」と題した文章において、AIツールの高度化により、従来の階層構造を企業から排することを目指していることを明らかにしています。

Blockでは、組織は階層構造でなければならず、人間がその調整役を担わなければならないという根本的な前提に疑問を投げかけている。その代わりに、我々は階層構造の役割そのものを置き換えることを目指している。現在、AIを活用している企業の多くは、すべての従業員にAIアシスタントを与えているが、それは既存の構造を少し改善するだけで、その構造を根本的に変えるものではない。我々が目指すのは、それとはまったく異なるものだ。知能(あるいはミニAGI)として構築された企業である。

階層構造という前提が崩れれば、中間管理職も必要なくなります。

企業の動きは、情報の流れによって速くなったり遅くなったりする。階層構造や中間管理職は、情報の流れを阻害する。ローマ軍のコントゥベルニウムから今日のグローバル企業にいたるまで、2000年にわたり、我々には実質的な代替手段がなかった。テントを共にする8人の兵士にはデカヌス(十人の長)が必要だった。80人になれば、センチュリオン(百人隊長)が必要になる。5000人の部隊なら、軍団長が必要になる。問題は、階層が必要かどうかではない。そうした階層を担う役割を果たせるのが人間だけかが問題なのだ。もはや人間だけしかできないということはない。Blockは階層構造の次の段階を構築している。

一昨年、「有害な「創業者らしさ」」という文章で、階層構造と中間管理職を前提とする「マネージャーモード」と、それらを必要としない「創業者モード」の対比について論じたことがあります。ワタシは「創業者モード」について、「(スタートアップの創業期を除けば)経営危機を乗り切る経営資源の集中の手法などに推奨局面が限定されるのでは」と予測したのですが、甘かったようです。ジャック・ドーシーは、AIによって「創業者モード」を新たな企業経営の前提にできると考えているのが分かります。

しかし、先ごろ『AI過大評価社会』の邦訳が出たアルヴィンド・ナラヤナンとサヤシュ・カプールは、「AIがソフトウェアエンジニアを置き換えず、そして今後もそうならない理由」で、その後の報道でまったく異なる実態が明らかになったと分析します。パンデミック中に従業員数を3倍以上にしたBlockは多大な財政的圧力にさらされており、従業員全員にAIが押し付けられたが、生産性の向上はごくわずかだったというのです。

そうなると、スティーヴン・レヴィによるインタビューで真っ先にツッコまれていた「過剰雇用」が実態であり、AIをレイオフの口実とする「AIウォッシング」が疑われます。

ナラヤナン&カプールの「普通のテクノロジーとしてのAI」論を支持するワタシとしては、彼らの「AIは今もこれからもソフトウェアエンジニアを置き換えない」であったり、「AIによる「雇用の黙示録」は起こらない」といった主張に飛びつきたくなります。しかし、それは失業への恐怖で心が弱った人間が正常バイアスにすがっているだけではと言われれば、反論できる自信はありませんし、及川卓也氏が書くところの「アイデンティティシフト」を対応する自信についても同様です。

ジェフ・ベゾスが「プロメテウス」というスタートアップで、コンピューターから自動車からジェットエンジンに至る様々な機器の製造プロセスを改善する「汎用人工エンジニア(Artificial General Engineer)」の構築しようとしていることをニューヨーク・タイムズ紙のインタビュー記事で語っていますが、まさに「働き手は、雇うものから、つくるもの」が現実になろうとしています。

一年前に「AIファーストだからこそ人間ファースト」と書いていたティム・オライリーが、「AIと「仕事のない未来」に向けたシナリオプランニング」という長文記事を書いており、事態の切迫度を示しているようにも思えます。

オライリーは、AI能力の向上速度とAIの導入速度の二つを軸にして、以下の4つの未来のシナリオを示します。

・拡張経済:AIの能力は向上するが、導入が緩やかなペースで進むと、労働者は置き換えられることなく、その能力は拡張される。AIは個々の労働者の生産性と価値を高めるツールとなり、その恩恵は広く行き渡る。効率化によって得られた利益を、単にコスト削減に充てるのではなく、より良いサービスの構築に活用すれば、経済は前向きに成長する

・緩やかな圧迫:AIの能力向上も導入も緩やかな場合、AIの主な用途は効率化になり、企業がAIを利用して利益率を押し上げつつ、しかし、その恩恵を還元したり新たな能力への投資を行わない「陰湿な」世界となる。ジュニア職は減少し、労働者の交渉力も低下する

・置き換えの危機:AIの進歩速度よりも急速に導入されれば、AIはほぼ効率化だけが目的となる。これは、失業率が10%を超えて株価が暴落するという悲観論者が警告する未来になる。オライリーはBlockの大量解雇をこの象限に当てはめており、彼も「AIウォッシング」と見ているのが分かりますが、「ウォール街が大量解雇を受けて株価20%上昇という形で報いたという事実は、現在のインセンティブ構造が何を最適化しようとしているかを如実に物語っている」とも分析しています

・大転換:AIの能力が急速に進歩し、導入も速い場合、「少ないリソースで同じことをする」よりも「より多くのことを成し遂げる」ことがAIの用途となる。これは新たな産業の誕生につながり、新規の雇用が現実のものとなる。事務職などAIの影響で職を失う人は出るが、全体的な方向性としては人間の能力の向上につながる

オライリーも認める通り、これら4つのシナリオのいずれかに未来がすっぽり当てはまるわけではなく、同時に複数のシナリオが現実に起こりえます。

個人的にオライリーの記事を読んではっとしたのは、未来予測の前段だったりします。

私はこれまでずっと、「もっと働け」という考え方は、私たちがどんな世界に住みたいかという人間の判断に基づく、主に道徳的な議論だと考えてきた。IMFが今年はじめに指摘したように、「労働は人々の生活に尊厳と目的をもたらす。だからこそ、AIによる変革はかくも重大な意味を持つ」のだ。 価値の獲得が一部に集中し、投資できる資本を持つ者と恒久的な失業状態にある下層階級との間に格差が生じる世界は、ディストピア的なSFの世界の話そのものだ。

なぜワタシはかくも失業を恐れているのか。「働いたら負けかなと思ってる」が21世紀における人類の名言トップ50に入ると考えるワタシですら、労働に人間の尊厳の少なからぬ部分がかかっているのを認めるからです。

ローマ教皇レオ14世の初の回勅となった「Magnifica Humanitas(マニフィカ・フマニタス)」も、労働が「人間の尊厳」にかかわるものであり、この回勅で語られる「共通善」の中心的な具体化になっています。

個人的には「マニフィカ・フマニタス」におけるトランスヒューマニズム/ポストヒューマニズム批判よりも、ある意味基本的とも言える内容の「デジタル変革の時代における労働の尊厳」のほうが響くものがありました。

149. こうした理由から、労働は単なる手段ではない。それは私たちの生活の尊厳を表現し、高めるものである。それは人間としての条件であり、成熟、成長、そして自己実現への自然な道筋である。この点において、貧しい人々への経済的支援は緊急時には必要となることもあるが、それが唯一の返答であってはならない。なぜなら、一人ひとりが自らの労働を通じて尊厳を持って生きられるようにすることが目標とされるからだ。

154. 労働は依然として人間経験の根本的な側面である。それは生計の手段であるだけでなく、自己表現、人間関係、そして地域社会への貢献の場でもあるからだ。したがって、労働に関する問題は、家族の生存に必要な所得だけに留まらない。高度な技術開発が進んでいるにも関わらず、人口のごく一部にしか雇用を保証しない社会は、多くの人々を強制的な無活動、責任感の欠如、日々の課題や刺激の欠如にさらす危険性があり、結果として人間的・文化的な貧困を招く。これは、物質的な進歩と人間的な後退という矛盾を生み出し、公正で安定した社会平和の基盤を損なうものである。このため、教会の社会教説は、すべての人への労働へのアクセスが、公共政策や経済活動における最優先事項でなければならないと主張し、あらゆる開発モデルの人間的質を評価する基準としてこれを位置づけている。

「マニフィカ・フマニタス」には、来たるAGIについての言及がなく、「人類が地球上で最も知的な存在としての地位を失う中で、人間は何をなすべきか」について熟考すべきだったというディーン・ボールやシャキール・ハキムの批判もありますが、ワタシの関心がそれ以前であることはお分かりでしょう。

もっとも労働者としてのワタシ自身は、特に立派なものではありません。今年亡くなったつげ義春が「大場電気鍍金工業所」で描いていた、経営者が夜逃げしてとうに人手に渡った工場で、その事情を飲み込めないまま機械の前で黙々と作業を続ける(明らかに著者自身がモデルである)主人公が労働者としての自己イメージにもっとも近いかもしれません。50過ぎてそれは惨めだろうと言われるでしょうが、それが本当のところなのだから仕方ありません。

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