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地デジ化・スマートテレビで広告は変わるのか

2011.09.28

Updated by WirelessWire News編集部 on September 28, 2011, 18:30 pm JST

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(cc) Image by LGEPR

「スマート」とは何か

僕は、基本的に略語を使うことがあまり好きではない。例えば「シューカツ」。できれば学生たちにはきっちり「就職活動」と言ってほしいと思っている。「就職」という言葉が持っている―職に就く―という本来的な意味の広がりが失われると、どこかの就職情報サービスが引いた既成のプロトコルに縛られ、人生を描く主体性を失ってしまいかねない。

だから僕はなるべく「スマホ」とは言わないことにしている。「スマートフォン」とはっきり呼ぶことによって、初めて僕たちはこのモノの本質に近づくことができるのだ。この名は、それがかつて「通信機能付きPDA」とか、「パームトップPC」(懐かしい!)とか呼ばれたものの進化形であった歴史からの決別を表している。「スマート」とは、その飛躍に与えられた名である。

「スマートフォン」という呼び名が一般に広まったのは、間違いなくiPhoneのおかげだ。確かにそれ以前にもBlackBerryがこの名で呼ばれていたが、そのブームは限られたマーケットを出ることはなかった。今やOSではAndroidが急速にシェアを広げていても、デザイン的にはiPhoneを踏襲しているものが多い。iPhoneがもたらしたApple的ソリューション=操作感が、「スマート」の名に実体を与えたのだ。

「スマート」は、本来「賢い」という意味で理解すべき言葉である。日本語の「スマート」が持つスタイリッシュなイメージは、この「賢さ」というコンセプトから派生したものだ。一方、エネルギー問題で注目を集めた「スマートグリッド」、それを実装した都市「スマートシティ」などが表す意味は、感覚的なベネフィットよりもむしろ理性的な賢さ=最適性に傾斜している。

この、全くかけはなれたところにあるように思える二つの「スマート」のイメージは、しかし、「流れ」(情報、あるいはエネルギーの)という点から考えると同じロジックに支えられている。それは、送り手と受け手の分断に基づかない、複雑かつ非線形な「流れ(flow)」を「中間的な場」において制御(match up)する技術に支えられている。

さていよいよ本題である。昨年来、しばしば展示会などで話題を呼ぶようになった「スマートテレビ」も、同じ「賢さ=非線形な制御系」の文脈上にあることは確かだ。しかし、どうも実体がはっきり見えてこない。鳴り物入りで紹介されたGoogle-TVの苦戦が伝えられているからだろうか。それだけではないだろう。「テレビ」の「スマートさ」が何によって実現されるのか、そのかたちが一向に見えてこないのだ。

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テレビのコアは、どこに存在するのか

テレビ・モニターは―ワンセグを除けば―基本的には手のひらに乗るものではない。今のところ、携帯端末によるワンセグ視聴を「スマートテレビ」と呼ぶ人はいない。それは「スマートフォン」の一機能としてのテレビ視聴でしかない。このことは、iPhone的ソリューションが、必ずしも「テレビ」と「スマート」を概念的に結びつけるわけではないことを示している。

ここでまてよ、と思う。僕らは「テレビ」という名で、そもそも何を指し示していたのだろうか。それをはっきりさせなければ、「テレビ」と「スマート」の関係を定義することすらできないではないか。

「テレビを買う」といえば、モニターを買うことを意味し、番組のスポンサーになることや、テレビ局を買収することとは理解されない。だが、何も映っていないモニターを見ていても「テレビを見る」とは言わない。ここでは「テレビ」は「番組」を指している。このような意味の揺らぎは、テレビが「コンテンツ」と「伝送回路」と「インターフェイス」のいずれもがそれ専用に作られた"完結した連動システム"である(あった)ことを表している。そのことが、テレビというメディアの情報の「流れ」を支え、スタジオと時間編成とお茶の間という、テレビがテレビたるための「時空間」を作り出してきたのだ。

しかし皮肉にもテレビの進化とは、このシステムの完結性を自壊させていくプロセスであった。1980年代のビデオに始まり、やがてゲームがモニター画面を侵食し、ケーブルテレビが伝送回路を複線化していった。そしてデジタル環境の広がりとともに、PCや携帯端末での視聴が可能になり、VODやHDRがますます定時視聴習慣を過去のものにしていった。崩壊は内部からも起こっていた。番組制作の内製率はどんどん低下し、施設としてのスタジオは局が保持していても、そこで働く人の過半数は外部スタッフという状況。アナログ停波の前に、既にテレビは「テレビ」ではなくなっていたのかもしれない。

地上デジタル放送への完全移行は、この自壊過程の大きな節目となった。テレビがデジタルになるということは、システムがもはやテレビの"完結性"を保障しないことを意味する。2011年7月24日を過ぎたばかりの今は、とりあえずまだ新しい環境にかつての「テレビ」をコピーペーストした状態に過ぎないが、これからはますます他のメディアとの干渉・混沌化が進んでいくであろう。そんな中でテレビが「スマート」を目指すということは、どういう意味をもつのか。それはまさしくデジタル環境下での「テレビ」のコア(核心)を、新たにデザインすることに他ならない。

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あいまいな「スマートテレビ」のイメージ

今年の初めにラスベガスで開かれた家電ショー「2011 International CES」で、サムスンやLGが示した「スマートテレビ」のコンセプトは以下のとおり―「パッシブメディアの受信」「ブロードバンドの常時接続」「映像・音楽配信サイトからストリーミング/オンデマンド受信、再生」「ゲームやユーティリティーなどのアプリケーションのダウンロード/実行」「SNSの通信機能」「リモコンは、タッチスクリーン」(麻倉怜士「"スマートテレビ"とは何か――「2011 International CES」総括」『ITmedia+D Lifestyle』2011年1月18日」より)。要は"いろいろできる"という感じだ。

風間雄介氏は、この多様な機能の併存を支える条件を「ネット接続機能」「アプリケーション・プラットフォームと第三者による開発を支えるソフト開発キット」「十分なハードウエア能力」「スマートテレビ用のインターフェイス」の四つに整理している(「「スマートテレビ」時代は本当にやってくるか」『ファイル・ウェブ』2011年8月1日)。もっと単純に、「スマートテレビ」の「テレビ」とは受信端末のことであり、新しく提供されるインターネットサービスに「対応、追従していける柔軟性」があることをもって条件とする人もいる(本田雅一「「スマートテレビ」の論点をもう一度整理してみよう」『ITmedia+D Lifestyle』2011年8月1日)。

いずれの論者も、明確なイメージを描くことに逡巡している。共通しているのは、いまだこの定義・条件は確立されていないということと、Google-TVは「スマートフォン」におけるiPhoneのようなキラー・システムにはならないだろうという予感だ。彼らを躊躇させているものは何か―それは"「テレビ」らしさ"自体の語りにくさとモロに関係している。

旧来のテレビでは「コンテンツ(番組)」の完結性、伝送回路の一方向性が、パッシブに(楽ちんに)楽しめる受動性(とそれに適合するインターフェイス)を支えてきた。しかしどうも新しいサービスは、それと明らかに矛盾するもの―すなわち「前のめり(lean forward)」のメディア接触態度を要求している。どうやらかの「語りにくさ」の要因は、この対立を調停・制御する「接点」が、見いだせずにいることに求められそうだ。

だが、躊躇を覚えるのであれば、開き直ってそこを発想の基点とするのも一つの方法だろう。この「楽ちんさ」こそが、過去半世紀以上に亘る「テレビ」の君臨を支えてきたものと考え、そこに軸足を置くアプローチは"有り"だ。

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新しい「楽ちん」は、どこに生まれるのか

一方、究極の「前のめり」メディアであったPCも、その中にいかに「楽ちん」な要素を取り込むかについてずいぶんイノベーションを重ねてきた。その結果到達した「中間的な制御のかたち」が、柔らかい操作感を実現したiPhone=iPad的なタッチパネル・インターフェイスであったといえよう。逆に「スマート」な「テレビ」は、もともとのパッシブな世界の方から、新たな「接点」を模索することになる。

実は地上デジタル放送のベネフィットのうち大半は、通信領域で生まれた技術が一方向的な放送の情報の流れを補う目的で導入されたものだ。放送独自のイノベーションの成果といえば、ハイビジョンの高精細な画像と高品質な音声ぐらいが思い当たる程度だ。しかし、「地デジ」が構想された当初は、ネットアクセスはほとんどブラウザベース。そこに実装された融合形態は、決して「スマート」とは言えない、折衷的なものであったといえる。現在もなお、「地デジ」モニター上の情報配置(レイアウト)は、ブラウザ内的Webデザインを踏襲している。

iPhone=iPadが一般化させたアプリケーションが束ねるサービスのユニット化は、この一方向〜双方向の混在した空間の再編に一石を投じることになるだろう。おそらく現在のスマートフォンのアイコンが整然と並んだインターフェイスは、「スマートテレビ」の手元のタッチパネルリモコンの、開発のベースとなる。そうなるとメインモニター上に表示される情報も整理されるはずだ。こうした選別と配置の見直しを介して、画面やサービスのデザインはどうなるのか、非常に興味深いところだ。

▼プライベートなタッチパネルとパブリックなスクリーンの間
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具体的にはデザイナーの手に委ねることになるが―さらに暴走気味に、私見を述べるとすれば―いずれにしても「スマートテレビ」の基本インターフェイスは、大(パッシブ)×小(インタラクティブ)のWディスプレイを鏡のように合わせ、ユーザーと各サービスの距離感をもって制御していくイメージになるように思う。そのグラデーションの中に新しい、しかも「テレビ」特有の「安息感(楽ちんさ)」が実感できたとき、初めて「スマートテレビ」という言葉は、実体を伴うものに昇華するのではないだろうか。

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第三、第四のコミュニケーション・ビジネスモデルが必要だ

言うまでもなく、これは「仮説」である。しかし、そうした議論に具体的に踏み込んでいかない限り、「スマートテレビ」は、技術的ポテンシャルはあっても、なかなかビジネス・レイヤーに乗っていかないのは事実だ。

インターネットが普及するまで、パブリックなメディアを支えるビジネスモデルは、極端な言い方をするならば広告と販売(コマース)、言い換えれば間接課金と直接課金の二種類に大別できた。その間に、ユーザー行動をトラッキングして遡及的に課金するアフィリエイトや成果報酬型の広告といった中間形態が生まれたのは、ネットメディアがビヘイビア・トラッキング可能なシステムをコアに成長していったからに他ならない。

メディアの時空間をマネタイズするためには、そのカテゴリーのコア(核)=制御の場のデザインがある程度固まる必要があるのだ。その意味で「スマートフォン」がアプリケーション・プラットフォームとタッチパネル・インターフェイスをもってそのコアを築いたことで、アプリビジネスという新領域が開かれたのは象徴的な出来事だといえる。

しかしその「スマートフォン」も含めて、旧来のメディアビジネスから何も変わっていない側面もある。それは制御の場にタッチポイントを重ね、一点にコミュニケーションチャンス(トラフィック)を集約することで、行動を単純化させ、合理的にマス・ビジネスを展開しようとする方法である。これは情報の流れがいくらマルチになっても、マネーの流れがマルチになっていないことの表れである。送り手と受け手という二項図式の完結性が既に崩れているのに、社会的価値の表象は、払う―受け取るという一方向の硬直した流れに縛られているのだ。

新しいメディア構造ができても、なかなかそのかたちに見合ったビジネスモデルができないジレンマの理由を、この不均衡に見ることはできないだろうか。そのように考えると、「スマートテレビ」がもしかしたら生み出すかもしれない、Wディスプレイを基本としたタッチポイントの立体化(プライベートなタッチパネルとパブリックなスクリーンの間に生まれる空間)には、旧来のビジネスにない、さまざまな価値創造を支える可能性が浮かび上がってくる。

たとえば、この空間がファンドレイジングのプラットフォームとして機能することは考えられないか。ここ数年、インターネット空間が創造するさまざまなビジネスチャンスとして提案されたキーワードは他にもたくさんある―例えばシェアやキュレーションといったさまざまな社会的価値が生み出される情報デザインを、この機会にぜひ検証してみたいところである。

▼メディアを分類してみよう(タッチポイント×情報の流れ)
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このような多様なビジネスモデルが編みあわされる空間として、新しいデジタル・ネットワーク環境をとらえてみてはどうだろう。もちろん広告がなくなるわけではない。言ってみれば「ポジション」が相対化されるだけである。

スマートテレビ

文・水島 久光(東海大学文学部教授)

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