今回は、単行本が出たときから気になっていて、少し前に文庫本になったのを知ってようやく買って読んだ吉田豪の『サブカル・スーパースター鬱伝』の話から始めたいと思います。
この本は、書評家・インタビュアーの著者が、「サブカルは四〇越えると鬱になる」というテーゼをその界隈の有名人たちに問いかけた連載を元にしたものですが、書名に「鬱」の文字が入っているものの、インタビューを受けている人たちが皆それに当てはまるわけではなく事情もそれぞれで、これも著者の表現を借りるなら「サブカルというか文系な有名人はだいたい四〇歳前後で、一度精神的に壊れがち」ぐらいが適当でしょう。
ただ実際に本を読むと、「サブカル」でくくらなくても、同じく40歳を越えたそれこそワタシを含むサラリーマンにも当てはまる普遍的な内容に思いました。
もう仕事の上では若手じゃないし、ベテランの入口みたいなところに入ってきたとき、この程度のことしかできないのかなとか、終点から逆算したときに、これからつまんなくなりそうな予感みたいのが出てくるでしょ。(リリー・フランキー)
たとえば本がまったく売れなかった時期のほうが、いつかは売れるかと思ってたから幸せで、半端に売れて、「あ、こんなものか」と思ったときに、たぶん能力的にこれ以上にはならないから、ホントに希望が持てなくなっちゃって。(枡野浩一)
ワタシも3年前の文章で既に残り時間を逆算する感覚について書いていますが、もう40過ぎになると自分ができること/できないことが大体分かってくるのもあり、もはや自分の能力に向こう見ずな期待はできなくなりますし、黙っていたら未来に対する面白みが減退するのは避けられません。
仕事の上で若手でなくベテランの入口に入るというのも同様で、例えば「プログラマー35歳定年説」という言葉は最近ではあまり声高には言われなくなった印象がありますが、それでも日本企業ではその前後の年齢で、コードを書く側からそれを管理する側へ移ることをキャリアアップとして勧められるようになります。
人間、"自分のため"に頑張れるのは三〇代まで、ですね。結婚したり子供を作るのは、"こいつらのために"という新たな目標を持って、頑張る期間を長続きさせるためなんです。(唐沢俊一)
『サブカル・スーパースター鬱伝』を読むと、何人かは四〇前後で結婚生活を破綻させており、そうした家庭問題が鬱に密接に絡んでいることが分かるのですが、それはさておき前述の管理職への移行というキャリアパスも、この「頑張る期間を長続きさせる」仕組みの一部と言えるかもしれません。
ただ問題は、40歳ぐらいで身体が無理がきかなくなり、体力が落ち出します。それは運動嫌いが多いサブカル者に特に当てはまるのですが、そうなると仕事のパフォーマンスにも影響が出ます。昨年ワタシが解説を書いた河口俊彦『大山康晴の晩節』にも、40歳になるとトップの地位にいた棋士がことごとく実力以上にクラスを落とすことに気付いた著者の「男の厄年は本当だ」という話がありますが、属するクラスがそのまま収入に直結する(順位戦のクラスが一つ落ちると対局料収入が約三割減になる)将棋界ではそのあたりのシビアさも格別ですし、皆が自営業のサブカル業界もそれに近いものがあるのかもしれません。
一方で、『サブカル・スーパースター鬱伝』の元になったクイック・ジャパン誌の連載タイトルが「不惑のサブカルロード」だったように、「四十にして惑わず」という孔子の言葉からこの歳は「不惑」とも呼ばれます。40歳にもなれば、分別盛りであることが求められるわけです。
ただ現実には、40歳を迎えたから人間的にどっしり安定するとは限りません。今年は AERA とほぼ日刊イトイ新聞のコラボ企画「40歳は、惑う。」なんてのもありましたが、糸井重里のメッセージやら感慨やらは個人的にはどうでもいいとして、宮沢りえとの対談「試練という栄養。」は興味深く読みました。
宮沢りえとワタシは同い年なのですが、彼女のデビュー当時には、そのまばゆいばかりの美しさに同じ世界の人間とは思えませんでしたし(これは現在までその通りなのですが)、少なくとも同い年の人と意識したことはありませんでした。
その彼女も40歳を越え、かつてのまばゆさは失われてしまったと書いて問題ないでしょう。よく2ちゃんねるで「【悲報】○○が劣化wwwwwwwww」みたいな下品なスレタイが多用されますが、そうした価値観に倣えば、彼女は劣化してしまったと言えるのかもしれません。
しかしこれを強調しなければいけないのですが、それでも彼女は今も、かつてとは違った魅力を獲得しているのです。今年、映画『紙の月』を観て再確認したのですが(テレビでは「ヨルタモリ」も楽しく見ています)、顔に刻まれた皺すらも今の彼女の年齢相応の美しさに貢献しているのです。
上でリンクした糸井重里との対談を読むと、現在の彼女の充実は、なんとはなしに巡ってきたものではなく、惑いながらも自らの意志で掴み取ってきたものであることが分かり、やはりワタシなぞが安易に同い年というだけで安易に見習える存在でないわけですが。
ワタシ自身は40過ぎても腰が定まらず、おまけに20代後半から断続的に軽度の鬱常態に陥っていたためか、現在も常に人生の暗い面に目がいく性格の暗い人間なのですが、それでも雑文書きや翻訳者として優れた仕事をしたいという気持ちは失ってないつもりです。
そうした意味で宮沢りえはともかくとして、同年代で活躍している人たちの存在は励みになりますし、もっと上の人であっても、40歳を過ぎてから世間に知られるような仕事をするようになった人に目がいきます。
以前に書いた「邪悪なものが勝利する世界において」で取り上げたキャシー・シエラは、「天才になるのに遅すぎるということはない」という文章で「私が世に知られていることは、ほとんどすべて50以降にやったことだ」と語るドク・サールズを紹介していますが(そして、彼は60代半ばにして初めての単著『インテンション・エコノミー 顧客が支配する経済』を著します)、そこまではいかなくても上に書いた世に知られている仕事が40代になってからという人は結構いるものです。
ワタシが自分の連載で名前を引き合いに出すことが多い人だけみても、例えば少し前に新刊を取り上げたニコラス・カーは、IT 業界に悪名をとどろかせた IT Doesn't Matter を発表し、翌年初めての著書『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』を著した時点で40代半ばでしたし、今年『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』の邦訳が出たケヴィン・ケリーも、雑誌 Wired を創刊し、最初の著書『「複雑系」を超えて―システムを永久進化させる9つの法則』を著した時点でやはり既に40代でした(それを踏まえて、彼が今年書いた「今からでも遅くはない」を読むと趣深いものがあります)。
ただし、彼らにしてもそれ以前に何の努力もせずただプー太郎をやってたわけではなく、彼らができたから自分にもできるとはならないのですが、なぜ彼らにそれができたのかを考えることは有益でしょう。
そんなことをワタシが考えるのも、少し前にある大学生の方に社会人としてのキャリアについて質問されてちょっと考え込んでしまったことがあったからです。
正直に書くと、今の大学生にキャリアについて何か忠告めいたことを語る資格はワタシにはないと思っています。その人をはじめ、今の大学生のほうが、自分の頃よりも遥かに意識が高く(揶揄ではなく、言葉本来の意味で)、逆に言えばそうした意識の低さが災いしてワタシは長い下り坂人生を歩んでいるのですが。
よって「社会人になる君が守るべき8つの心得」みたいな箇条書き糞ライフハックをしたり顔で授けることはワタシにはできませんが、自分が読んだことのある文章でそうした人たちに応用が利く文章を考えたところ、それは意外にもポール・グレアムの「知っておきたかったこと」でした。
意外にもというのは、元々この文章は高校生向けに書かれたものだからですが、これから社会人になる大学生にも、さらにはワタシのような40過ぎたおっさんにもこの文章は適用可能だとワタシは本気で考えます。
この文章のメッセージは、「風上をめざせ」と「士気を失うな」の二つに集約できます。これなら先に名前を挙げたニコラス・カーにもケヴィン・ケリーにも当てはまるでしょう(「風上をめざせ」が特に)。
この文章では、優れた仕事を「天才」など才能の有無に短絡させることを戒めています。しかし、「士気を失うな」というメッセージに絡めて定義すれば、才能とは「情熱の持続」と言えるのではないでしょうか。同様に「風上をめざせ」というメッセージに絡めて定義すれば、才能とは「好奇心の持続」とも言えるでしょう。
果たして自分は情熱や好奇心を今も保ち続けているだろうか? 今も自信をもってイエスと答えたいところですが、ワタシの場合、今でもそのように見せかけているだけで、本当はそれが尽きかけているのではないかという恐れがあります。
これは鬱気質がもたらす自信の欠如なのかもしれませんが、まだ優れた仕事をしたいという執着心は健在なれども、その裏づけとなる情熱と好奇心が失われてしまっていたら、潔く舞台を後にすべきなのでしょう。そこにいたり、大山卓也『ナタリーってこうなってたのか』に対する、やはりワタシとほぼ同年の西森路代さんのレビューの一節を思い出したりするわけです。
とはいえ、この本にでも、津田さんが「今の若い子からしたら、ナタリーはもうとっくに老害みたいに見えてるかもしれない」と言っている部分がありましたが、我々70年代前半生まれは、20代、30代は注目されず、40代になって初めて世の中でちょっとだけ何かができるようになったかなと自信が出てきたと思ったら、すぐに老害行きという気もします。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。