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インターネットは我々である:2015年のクルートレイン宣言

2015.01.13

Updated by yomoyomo on January 13, 2015, 14:00 pm JST

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Web 2.0!

......と2015年になってこの言葉を持ち出しても、何を今さらという感じでしょうか。提唱者のティム・オライリーも、この言葉を冠したカンファレンスを2011年を最後に打ち止めにしているくらいですが、この言葉が表現していた、プラットフォームとしてのウェブが実現する個人のエンパワーメント、情報の送信側と受信側の垣根がなくなる双方向型、参加型なメディアの実現といった話に何の意味もなかったわけではありません。

例えば、この言葉が言われた当時からジョエル・スポルスキーは、「私は、人々がWeb 2.0という語を使うのを聞くと、その日一日、自分が少し愚かになった感じがする」と極めて批判的でしたが、彼が成功を収めたプログラマー向け質問回答サイト Stack Overflow(昨年末に日本語版が始まりましたね)は、ユーザ参加型、集合知、フォークソノミーなど実はとても Web 2.0 的なネットサービスだとワタシは思うのですが、今その言葉で Stack Overflow を形容しても迷惑がられるだけでしょう(笑)。

Web 2.0 という言葉が内包していた理念の雛形だとワタシが以前から主張してきたのが、「市場とは対話である」から始まる、来るべきネット時代におけるマーケティングの「95のテーゼ」をぶち上げた The Cluetrain Manifesto(クルートレイン宣言、日本語版)です。

クルートレイン宣言は、1999年にウェブに発表されるなり大変な反響を呼び、翌年には書籍化されました。その邦訳は『これまでのビジネスのやり方は終わりだ―あなたの会社を絶滅恐竜にしない95の法則』という凡庸な邦題のせいかあまり話題になりませんでしたが、本国では2010年に原書刊行10周年記念版が刊行されており、影響力の大きさが分かります。

クルートレイン宣言の起草者のうち、クリストファー・ロックは『ゴンゾー・マーケティング』、デヴィッド・ワインバーガーは『インターネットはいかに知の秩序を変えるか? デジタルの無秩序がもつ力』、そしてドク・サールズは『インテンション・エコノミー 顧客が支配する経済』というそれぞれクルートレイン宣言の内容から発展した本を書いていますが、特にデヴィッド・ワインバーガーとドク・サールズの二人は、現在までアカデミズムとブロゴスフィアを結ぶインフルエンサーであり続けています。

その二人が2015年の年頭に New Clues と題したクルートレイン宣言の新バージョンを公開しています。

オリジナルのクルートレイン宣言が発表された1999年と現在の違いは何かというと、やはりインターネットの一般層への普及があります。当時はブロードバンド回線による常時接続はまだ一般的ではなく、やはりまだユーザ層は限られていました。今クルートレイン宣言を読むと、「インターネットは、マスメディアの時代にはただ不可能だった人間同士の対話を可能にしている」「ハイパーリンクは階級制をくつがえす」などインターネットに対するまぶしいばかりの期待が垣間見えますが、あれから16年が経ち、インターネットのセキュリティは脅かされ、国家による監視やプラットフォームを握るネット企業による独占も進んでおり、ネットにおける個人の自由は時に容易に虐げられています。

そうした現状を踏まえ、著者たちは、自分がインターネットを理解していないことが分かっていない、ネットを形だけ取り入れてきたビジネス人種である「愚か者(The Fools)」でも、インターネットをデータやお金を収奪する対象とみなす「略奪者(The Marauders)」でもない普通のインターネットユーザである「我々」に、インターネット本来の価値を問い直したいのだと思います。

今回の宣言は、実に121ものテーゼからなります。いずれ誰かがちゃんとした日本語訳を公開してくれるはずですが、それまで待てない人たちのために、まとまりごとにざっと要約したいと思います。ありがたいことに原文はパブリックドメイン指定されており、基本的にそれをどう利用しようと自由なのです(GitHub に関係ファイルすべてが公開されているところが今風でしょうか)。

なんか最初に見たときとちょっと変わってるような気がしますし、(とにかく急いだので)ワタシの文章理解が間違っているところも少なからずあると思いますが、ともかく新たなクルートレイン宣言は、今のインターネットユーザにどのように映るのでしょうか?

* * * * *

インターネットは我々であり、つながっている:インターネットは銅線やグラスファイバーなどでできているのではない。インターネットにつながるデバイスがインターネットなのでもない。通信キャリアやケーブル会社がインターネットを所有しているのでもなければ、Facebook や Google や Amazon がネットの支配者なのでもない。我々がインターネットを共有し、所有者不在の状態にしている。つまり、インターネットとは我々のものなのだ。

インターネットはモノではなく、特定の用途はない:重力がモノでないように、インターネットもモノではない。そうでなくインターネットは合意の集まりで、ギーク流に言えば「プロトコル」になるが、かつてなら「戒律」と言ったろう。その第一の戒律にはネット中立性がくる。言語以来、そんな汎用のツールは存在しなかった。つまり、インターネットは、SNS とか広告とか、ビジネスとか、教育とか特定の何かのために存在するのではない。インターネットを一つの用途に最適化するのは、他のすべての用途の妨げになる。そうしてインターネットは重力のように区別することなく我々すべてをひきつけるのだ。

ネットはコンテンツではない:インターネットには優れたコンテンツが存在するが、インターネットはコンテンツでできているわけではない。「コンテンツ」という言葉は括弧つきで使わないのは下品だ(注釈:「コンテンツ」という単語に対するネガティブな反応として、リチャード・ストールマンのインタビューが参考になります)。

ネットは媒体ではない:対話が媒体でないように、ネットも媒体ではない。我々こそがネット上でメッセージを動かす媒体なのだ。我々はネットでメッセージを送るたびに、その中に我々自身もちょこっと入れている。人間の思いやりがインターネットの原動力だったりする。

ウェブはワールドワイドだ:1991年にティム・バーナーズ=リーはワールドワイドウェブを生み出したが、それは誰の許可も必要なく他のどのページにもリンクできるページの書き方を伝えるプロトコルだった。10年もしないうちにウェブには何十億ものページができたが、現実世界と違い、ウェブにあるものもそのつながりもすべて、誰かが自分の興味を表現することで作られたものである。どのリンクも無私無欲で寛容な行為で、読者をそのページを起点にして、世界が他の人にはどんな風に見えるかを知るよう誘う。ウェブは我々の集合的で創発的なイメージの中に世界を作り直すものである。

どうして我々は対話を兵器化してしまったのか:インターネット上で遭遇する対話、友情、共感、思いやり、喜びを大事にすることが大切だ。なのに我々は、「ホモ」とか「ニガー」といった言葉をオフラインよりもネットでずっと多く目にする。自分が理解しない属性の人たちを悪魔のようにみなすのが、この上なくひどい。ネット上に憎悪があるのは現実世界にそれが存在するからだが、ネットはそれを表現したり、耳にするのを容易にする。その解決策は......それがあったら、こんな宣言を書いてあなたを煩わせないっての。それでも、憎悪がネットを生み出したのではないが、憎悪はネットを(そして我々を)前に進めなくしているとは言える。少なくとも、ネットは人間の価値を内包していることを認めよう。ネットはテクノロジーに過ぎないとも言えるが、大事に思うものと温かい関係を築いている人たちが住むところではないか。ネットは我々に自分らしくいれる共有地を提供する。その場所は誰のものでもない。皆がそれを利用できるし、誰でもそれを改良できる。それこそが開かれたインターネットの姿なのだ。

「全部に同意するよ。君は面白いな!」:世界は我々の眼前にビュッフェみたいに広がっているのに、我々は自分の食事に固執している。これは一つには、対話には言語や関心など共通の土台が必要だからというのがある。この土台の共有からトライブが生まれる。インターネット上では、このトライブ間の距離がゼロから始まる。これは我々のオープンさ、思いやり、我慢強さへの挑戦だが、乗り越えることは可能だ。

マーケティングは未だ語るのが難しい:市場とは対話である、というのは正しかった。対話とは、袖を引っ張って聞きたくもない製品を売り込むことではない。製品に関する真実を知りたいと思ったら、我々はお互いの口コミからそれを知ることになる。我々の対話への参加は歓迎するが、それがあなたが自分自身の言葉で語ってくれる場合だけだ。あなたが我々を「消費者」と呼ぶたび、「肉」という言葉を調べる牛みたいな気分になる。おたくらのビジネスに関係のないデータを抜き出すべく我々の生活を追跡するのは止めたまえ。自分が買いたいと思ったら声をかけるけど、それは我々がやりたいようにやらせてもらう。人間味があるようで実はマーケティング部門の過敏性大腸から生まれた広告はウェブの面汚しだ。何かパーソナライズした結果が気味悪いなら、それはあなたが人間らしさの意味を理解していない良い証だ。あと、我々が見逃すのを期待して、後ろのほうにちょこっと免責事項を入れて、広告をニュース記事にドレスアップするのも止めていただきたい。「ネイティブ広告」は、正しく「プロダクト・プレイスメント」とか「記事型広告(advertorial)」とか「偽クソニュース記事」とでも呼んだらどうなんだ。

ネットのグァンタナモ米軍基地:我々は皆アプリが好きだが、ウェブページがつながりが肝だったのに対して、アプリはコントロールが肝なようだ。ウェブからアプリベースの世界に移行するにつれ、自分たちがかつて共に築き上げてきた共有地を失うことになる。アプリ王国では、我々はユーザでありメイカーではない。新しいウェブページができるたびにウェブは大きくなり、新たなリンクはウェブを豊かにするが、新たにアプリが増えてもバスの中でやることが増えるだけ。

重力はそれが我々をブラックホールに吸い込むまでは素晴らしい:Facebook、Google、Amazon、Apple が提供するのは、その会社のゴーグルを強いられるようなウェブ体験である。これらの企業の単一性が危険なのは、それが邪悪だからではない。彼らは実に良い仕事をしており、それは称えられるべきだ。しかし、彼らは集団性の重力、つまりは「ネットワーク効果」から利益を得ている。競争相手がいないなら、こうしたウェブの巨人が初心を忘れてないか我々は深く警戒する必要がある。

スパイ時代のプライバシー:政府は我々のデータを握っており、これに関しては政府の勝ちだ。政府に譲歩してほしいとしても、その取り決めは、次の攻撃が来たら、政府が我々の監視を強めるのに文句を言えないものになるに違いない。自分たちが何を諦めるのか分からないなら、公平な取引とは言えない。セキュリティとプライバシーのトレードオフがまさにそれだ。政府や企業の手からデータを遠ざけておくためにもっと多くのことをやらなかったのを我々は後悔することになるだろう。

密告者時代のプライバシー:個人のプライバシーは、それを望む人たちにとっての罰金であり、我々は皆どこかで線を引くことになる。ウェブはやっと十代が終わったところだ。我々はプライバシーの問題の始まりにいる(終わりではない)。我々はプライバシーの再発明をやっと始めたところなのだ。

僕らの歌はエコー室では驚くほど良く聞こえる:インターネットは驚異的だし、ウェブがすごいのは端的な事実であり、この20年でネットが成し遂げたことを過小評価しないようにしよう。今ではネットで無料で大学レベルの授業を受けることもできる。もちろん、インターネットは世界のあらゆる問題を解決したわけじゃない。インターネット否定派のおかげで、我々は正直でいれる。連中が恩知らずでなければ、連中のことも好きになれるのだけどね。

ポケットはお説教でいっぱい:簡単な4つの手順でインターネットを正す方法を教えようと思ったのだけど、思い出せたのはその最後の手順だけだった。それは「もうける(profit)」なのだけど、以下思いつくままに書くと、我々は楽しませ心を軽くしてくれるアーティストやクリエイターを支援すべきだし、必要な助けを求める勇気を持つべきだし、著作権には意味があるけどデフォルトで共有すべきだし、あなたのサイトで行われる対話がクソならそれはあなたの責任だし、本当にウェブを「分かった」ビジネスを支援すべきだし、アプリは楽しい体験を与えてくれるけどウェブは終わることなく我々をつなげてくれるリンクが重要だし、怒りは愚か者になるライセンスだし、あなたがインターネットに前進させてほしい価値を実践すべきだし、ちょっと喋りすぎたからもう黙るね。

協力すること:それがあらゆる問題の原因であり解決策だ:インターネットの失墜において、ネット市民(つまり、あなたと我々)の役割に注目するのは、それは我々が未だ自分たちの信念を持ち続けているからだ。我々ネット市民は自分たちが協力してどれだけのことができるか分からないのだけど、それは我々が協力の仕方を発明し終えてないからである。インターネットは古来からの力を解放してきた――それは我々を結びつける重力だ。つながりの重力は愛である。オープンなインターネット万歳。長く我々がインターネットを愛し続けんことを。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。