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年末に行くに従って、平日は忙しく、休日はどんどん暇になっていくなかで、この平成最後の天皇誕生日を含むクリスマス連休をどう過ごすかというのは、一人の男にとっては一種の戦いであり、まあ別の言い方をすればいかにクリスマス感を感じずに時間が去るのを待つか、ということでもある。

豊洲の新市場に食事に行こうかと思ってでかければ、なぜかキャッキャウフフするカップルに
囲まれ、車がぜんぜんとめられない。何事かと思えば、DMMチームラボに行列ができているのである。めでてーな。こちとら朝から一人でアジフライ食いに来てるってのに。

まあカップルたちにはぜひとも少子高齢化を食い止めていただきたいので踵を返して自宅に戻り、先日発売されて買ったまま、遊ぶ暇がなくて放置していた「テトリスエフェクト」を遊んでみることにした。

そもそも「テトリス・エフェクト」とは、テトリスを遊びすぎて、ゲームをしていない時間にも脳がテトリスを考え続けるようになる現象である。

僕はよく、MRIに入るときに頭の中でテトリスを遊ぶ。これも一種のテトリスエフェクトだろう。

PSVRでVR空間に蘇るテトリス・・・と聞いて、人が想像するのは非常に陳腐なものだろう。かつてテトリスは何度もこの種の「雑な消費」をされてきた。単に3Dになったり、背景が豪華になったり、走れトロイカのBGMがつけたされたりと、テトリス=ソビエト連邦という陳腐なイメージから、テトリスというゲームが持つ本質的な面白さとは無関係な演出が加えられるのが常だった。

それでも、テトリスは破壊的に面白いゲーム性があり、BGMがなんであろうが、背景がなんであろうが、テトリスはテトリスとして圧倒的なものだった。

ところがテトリスにはひとつだけまともな演出を加えることができる可能性があった。
ゲームの進行と音楽、画面のエフェクトが一体化する、シナスタジア理論の適用である。

シナスタジア理論は、水口哲也がカンディンスキーの純粋抽象画から着想した、ゲーム性と音楽性をシンクロさせる独自の方式で、2001年にセガから発売されたRezという作品で初めて採用された。

この作品の衝撃は凄まじく、それまでとは全く異なるゲーム体験に多くの人々を驚かせた。あらゆる操作が、効果音が、弾着が、全て音楽とシンクロするように再設計されることで、ゲームで表現される芸術と、プレイヤーが一体に溶け込んでいく感覚を見事に実現した。

Rezは2001年の作品ではあるが、それから15年の時を経てPSVR向けに移植され、その先進性と芸術性が改めて評価された。

2001年当時のRezは、理解するのが少し難しい作品で、もともとテクノの素養がないと世界観の飛び方についていくのが難しかったのだが、PSVRに移植されたことで、15年前とほとんど全く同じ演出のゲームであるにも関わらず、完璧なVR空間の中のエンターテインメントとして最高峰のものだったことを改めて証明したかたちになる。

しかしRezの芸術性の高さは、同時にゲーム性とのバランスをとるのが難しいという宿題を残すことになった。

「気軽にRez」モードでは、ゲームオーバーを気にせずに世界観に浸れるようにされていたが、そうなると、そもそも「ゲームオーバーがないゲームはゲームと言えるのか」という問題にぶち当たる。

Rezが表現する世界は、「ゲームと芸術」の狭間を改めて浮き彫りにしたのだ。

メディアアートの世界では、いわば「ゲーム性のないゲーム」であるインスタレーションというものがよく登場する。

まさしくチームラボが得意とするもので、単純な身体的・光学的・音楽的インタラクションによってなにかを表現する。

ところが水口哲也はゲームクリエイターであり、彼に寄せられる期待はやはりゲームを主軸としたものにならざるを得ない。しかし実際に表現したい世界はゲームそのものというよりも、ゲーム性を通した全体の「シナスタジア体験」である。

このジレンマを解く鍵となるのが、今作「テトリスエフェクト」なのではないかと僕は思った。

いうまでもなく、テトリスは世界的ゲームであり、国籍、言語、人種を問わず誰もが熱中するゲームである。

にも関わらず、僕はここ数年はテトリスをプレイしていない。テトリスの面白さはもう味わい尽くした、と考えていたのかもしれない。

中学生の頃、自分のパソコンでテトリスのプログラムを書いて、それを遊ぶだけで丸二日徹夜したりとか、高校時代はゲームセンターに行って、セガのテトリスを遊んだりした。

セガがすごいと思ったのは、このテトリスの移植が、単なる移植にとどまらず、より高いゲーム性を実現すべく改良されていたことだった。

たとえば、レバーを下に下げると速くブロックが落ちてきたり、ブロックが落ちた状態でも、レバーを左右に動かしたり回転ボタンを押したりすれば多少の時間は「滑り」があって調節できたりといった細かい工夫が凝らされていた。

セガのテトリスはゲームセンターに置くという性質上、あまり長時間プレイされても困るので、最後の方は鬼のようなスピードでブロックが落ちてくるのだが、これを捌ける人はヒーローだった。僕の地元では赤坂くんというヒーローがいて、彼が高速に落ちてくるブロックを「滑り」で瞬時にさばいてはハイスコアを出す瞬間をワクワクドキドキしながら見守ったものだ。

「テトリスエフェクト」を率いる水口哲也もまた当時のセガのDNAを受け継ぐ人間である。従って、この「テトリスエフェクト」は当然、セガのアーケード版のゲーム性を引き継いでいる。

そして遊び始めた僕は思った。

「そういえばおれ、テトリスそんなに好きじゃなかったな」と。

確かに昔は夢中になって遊んでいたのだが、とことん遊び倒してしまうと、テトリスはその後出てきた連鎖系の落ちものパズルに比べると色褪せて見えた。要は同じ作業の繰り返しで、単調に思えるのである。

ところがテトリスエフェクトでは、その単調さが逆手にとられ、どんどん音楽が変化していき、レバー操作ごとに気持ちの良い音源がサクサクはいる。

気がつくと、つい気持ちがよくて、無駄にレバーを動かしてしまい、へんな積み方をしていた。音と光の気持ち良さが単調なゲーム展開を全く別次元の体験に変えていた。

しかし、ゲームを進めて行くと、それだけでは済まなかった。

やはりこれはセガのDNAを受け継ぐテトリス。終盤にいくにつれて、鬼のようなスピードでブロックが落ちてくる展開に変わっていくのだ。

このとき、僕は初めて自分がテトリスというゲームを本当は理解していなかったことを知った。
テトリスは、四段綺麗に並べて、テトリス棒という棒が落ちてくるのを頑張って待つゲームだと思っていたのだが、ブロックが高速に落ちてくるようになると、とにかく速くたくさん消すゲームに変化した。

そしてゾーンゲージが全開になると、音と光、そしてゲームの快感に包まれる。なんということだ。

ここで表現される体験は、誰もがルールと遊びかたを知っているテトリスだからこそできるもので、それが良い土台となって、水口哲也的世界観が十二分に体験できるようになっている。

もはや、面白いとか面白くないとかではなく、気持ちいいのである。
Rezでもまだたどり着けていなかった領域に、テトリスエフェクトは到達した感がある。

これはもう完全に芸術と言って良い。DMMチームラボでぼっち感を満喫するくらいなら自宅でテトリスエフェクト。もしくは、DMMチームラボでキャッキャウフフのデートをしたあとで「ウチにくればもっと凄いのあるぜ」と二人でテトリスエフェクト。誰でも遊びかたを知っているテトリスだからこそこの展開もワンチャンある。

ここまでくれば、その次の段階、ゲームが芸術を超える段階まであと少しではないか。

クリアしたというのに、また遊びたい。
この原稿を書きながらも、頭の中ではテトリスエフェクトのことばかり考えているのである。

いわばテトリスエフェクト・エフェクトとでもいうべき状態。

良いクリスマスイブを。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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