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和力発想事典09「メリハリ」

和力表現事典09「メリハリ」

2019.12.26

Updated by Yukimasa Matsuda on December 26, 2019, 15:28 pm JST

メリハリとは

「メリハリ」とは、もともと邦楽用語からきている。低い音を「減り(メリ)」、高い音を「上り・甲(カリ)」とよんでいた。この「カリ」が転じて「張り(ハリ)」となり、音楽に限らず表現全般において、強弱をつけることで対象を浮き上がらせ、シャープにするときに使うようになった。

クローズアップ(近景)を効果的に挿入した映画は、観る人をワクワクさせる。映像にメリハリが与えられるからだ。逆に、クローズアップが多過ぎると、全体の印象が把握しづらい。全体像とディテールの往還が大事である。

写真でも、近景と遠景を対比させたメリハリのある表現は、迫力がある。今やポピュラーな構図のひとつとなっている。

こうしたメリハリをつける表現手法のルーツに浮世絵の構図があったとしたらどうだろう。つまり、手前に近景が大きく広がり、その向こうに遠景が見える構図である。本稿で、すでに何度も言及している葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉や、歌川広重〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉がその代表例だ。

▼図1──葛飾北斎『冨嶽三十六景』〈神奈川沖浪裏〉19世紀前半。(「葛飾北斎」wikipedia)
図1──葛飾北斎『冨嶽三十六景』〈神奈川沖浪裏〉19世紀前半。(「葛飾北斎」wikipedia)

▼図2──歌川広重『名所江戸百景』〈亀戸梅屋舗〉19世紀半ば。(『アサヒグラフ別冊 美術特集 特集編1 ジャポニスムの謎』朝日新聞社、1990)
図2──歌川広重『名所江戸百景』〈亀戸梅屋舗〉19世紀半ば。(『アサヒグラフ別冊 美術特集 特集編1 ジャポニスムの謎』朝日新聞社、1990)

その浮世絵的構図を西洋の表現のなかから、探してみる。まず、浮世絵的構図を効果的に使った、ロシア・アヴァンギャルド派、エル・リシツキーから。

ロシア・アヴァンギャルドの隆盛

リシツキーは、ロシア・アヴァンギャルドの中心人物のひとり。アーティスト兼グラフィック・デザイナーだ。彼は、浮世絵的構図、つまり、近景のクローズアップと遠景を対比させたメリハリのある写真の構図を使っている。その構図採用の背景には、人生の起死回生策のひとつという側面もあった。

そこでまず、リシツキーがその構図にたどりついた背景を簡単にたどってみよう。

カラヴァッジョが16世紀末に描いた、明暗を強調した絵画は、攻勢をかけてくるプロテスタント派に対抗すべく、カトリック教会から、インパクトのある絵画を、という要請に応えたものだった。リシツキーの場合も、インパクトのある誌面を、という国家の要請に応えたものだが、自らのキャリアを賭けるものでもあった。

リシツキーの主な活躍時期は、1917年のロシア革命後から20年ほど。革命直後のリシツキーらロシア・アヴァンギャルド派は、革命側と呼応して発展し、後世に影響を与える多くの刺激的な作品を残した。

ただし、ロシア・アヴァンギャルド派の抽象表現主義が我が世の春を謳歌したのは束の間の革命後約10年である。10年しか続かなかったのは、芸術表現にたいする国家の関与があったから。それは、ロシア・アヴァンギャルド派が推し進めていた抽象表現主義から、古典的リアリズムに社会主義を味付けした「社会主義リアリズム」に方針が変更されたのだった。共産主義体制下では、表現手法も国家の意向にしたがわなければならない。強大な国家権力(独裁国)の前では、表現の自由どころか、個人の自由もない。

ロシア・アヴァンギャルド派のもう一方の雄、ウラジーミル・タトリンのことばがそれをうまくいいあらわしている。「古いものでも、新しいものでもなく、必要なもののために!」(ソロモン・ヴォルコフ『20世紀ロシア文化全史』)。

それによってリシツキーも身の処し方を問われることとなった。

革命とはすべてをゼロにすることである。ロシア革命も例外ではない。既得権益を得ている者は当然パージされ、次の体制では冷や飯を食わされる。最悪粛清される。

まだ、革命の帰趨がはっきりしない、赤軍と白軍が争っていた内戦時代(1917〜1920)、旧来の美術関係者は、どっちにつくか決めかねていた。誰しも考えることは同じ、優勢な側につきたい。

ところが、抽象表現主義者であるロシア・アヴァンギャルド派は、即座に革命側についた。彼らはヨーロッパでは多少知られた存在だったが、ロシアではまだまだマイナー。ここで一気に主流派になるべく賭けにでて革命側についたのだった。

おかげで彼らは芸術に関する要職につくことができた。そこで彼らは、抽象表現を基軸に据えた革命のためのプロパガンダにまい進した。当然旧美術側は冷や飯を食わされた。そして、アヴァンギャルド側は、権力側についていることで調子に乗り、旧美術側を中傷した。多木浩二さんのことばを借りれば「アヴァンギャルド独裁」(『進歩とカタストロフィ』)である。

ロシア・アヴァンギャルド派の凋落

しかし、無我夢中で突っ走っているときはそれでもよかった。革命でゼロ地点に戻されたロシアでは、生産体制も崩壊。ウラジーミル・レーニンは「戦時共産主義」、つまり緊急事態だとして、農民から食糧を徴収した。ただでさえ生産力が落ちているところに、レーニンの身勝手な要求に農民は疲弊した。都市住民も食糧不足で、餓死者が続出、国の崩壊一歩手前まで追い詰められ、レーニンは政策転換を迫られた。

そこでレーニンは、一部市場経済を導入した。一部とはいえ資本主義化であり、(そのままだが)「新経済政策(ネップ)」と称した。これが功を奏して経済は立ち直りはじめた。ロシア革命から4年後の1921年以降のことである。

そして、レーニンが病死(1924)し、そのあとの権力抗争を経て実権を握ったのがヨシフ・スターリン。ネップによって貧富の差が生じはじめていたことにたいしてスターリンは、ネップを反社会主義的だとして非難、そのかわりに第一次五ヶ年計画を発表(1928)、強力な社会主義化路線を歩みはじめた。それに芸術政策も含まれ、前述の、表現はすべて「社会主義リアリズム」に則るべしとされた。

カジミール・マレーヴィチの、白地に黒ベタの四角形だけを描いた〈黒い四角形〉(1915)からはじまったアヴァンギャルド派の隆盛は、革命後3年半で表現の限界を露呈しはじめていた。抽象表現で大事なのは、その表現が持つ「内容・意味」。それがないと単なるコンポジションになってしまう。作品ではなく「スタディ」である。

▼図3──カジミール・マレーヴィチの〈黒の四角形〉1915。(「黒い正方形」Wikipedia)
図3──カジミール・マレーヴィチの〈黒の四角形〉1915。(「黒い正方形」Wikipedia)

その究極の表現が、アレクサンドル・ロトチェンコ〈純粋な青〉〈純粋な赤〉〈純粋な黄色〉(1921)。青・赤・黄の三原色をキャンバス1枚ずつに塗っただけの作品である。もはやこれ以上なんともし難い究極のコンセプトである。

▼図4──アレクサンドル・ロトチェンコ〈純粋な赤・純粋な黄・純粋な青〉1921。ロトチェンコの最後の絵画作品。(『ロシア・アヴァンギャルド──未完の芸術革命』水野忠夫、パルコ出版、1985)
図4──アレクサンドル・ロトチェンコ〈純粋な赤・純粋な黄・純粋な青〉1921。ロトチェンコの最後の絵画作品。(『ロシア・アヴァンギャルド──未完の芸術革命』水野忠夫、パルコ出版、1985)

また、ネップにより経済が上向き、人びとに普通の生活が訪れた。その余裕が、もはや形式的になってしまったアヴァンギャルド派の表現を必要としなかったということもあった。そして作品の価値は下落した。

社会主義リアリズム

社会主義リアリズム路線が本決まりになると、前出のマレーヴィチは、教育に携わっていたが、表現への圧迫に苦慮し、顔を黒く塗りつぶしたり、のっぺらぼう、視線をはずした絵ばかり描くようになった。

▼図5──マレーヴィチ〈女の像〉1930ごろ。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)
図5──マレーヴィチ〈女の像〉1930ごろ。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)

▼図6──マレーヴィチ〈複雑な予感(黄色のシャツを着たトルソ)〉1930ごろ。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)
図6──マレーヴィチ〈複雑な予感(黄色のシャツを着たトルソ)〉1930ごろ。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)

▼図7──マレーヴィチ〈自画像〉1933。〈黒の四角形〉にこだわっているためか、右手は四角形を象っている。画面右下には、二重の四角形のサインが見える。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)
図7──マレーヴィチ〈自画像〉1933。〈黒の四角形〉にこだわっているためか、右手は四角形を象っている。画面右下には、二重の四角形のサインが見える。(『マレーヴィチ画集』ジャン=クロード・マルカデ、五十殿利治(訳)、リブロポート、1994)

プロパガンダのコピーライターとしてずっと活躍してきた、ロシアの顔ともいえる詩人のウラジーミル・マヤコフスキーは、女性問題も絡んで自殺する(謀殺説もある)。

▼図8──ウラジーミル・マヤコフスキー追悼号の号外、『リテラトゥールナヤ・ガゼータ+コムソモーリスカヤ・プラウダ(文学新聞+コムソモールの真実)』1930年4月17日発行。ロトチェンコ撮影のマヤコフスキーの生前の写真が大きく扱われている。(『東京大学コレクションXVIII プロパガンダ1904─45──新聞紙・新聞誌・新聞史』西野嘉章、東京大学出版会、2004)
図8──ウラジーミル・マヤコフスキー追悼号の号外、『リテラトゥールナヤ・ガゼータ+コムソモーリスカヤ・プラウダ(文学新聞+コムソモールの真実)』1930年4月17日発行。ロトチェンコ撮影のマヤコフスキーの生前の写真が大きく扱われている。(『東京大学コレクションXVIII プロパガンダ1904─45──新聞紙・新聞誌・新聞史』西野嘉章、東京大学出版会、2004)

プロパガンダ・ポスターなどのデザインで、スターリンのイメージづくりに多大な貢献をしたグスタフ・クルーツィスは、スターリンが側近だろうとなんだろうと殺し続けた大粛清時代、民族主義的陰謀に荷担したという根も葉もないいいがかりで、銃殺された。

▼図9──クルーツィス、デザインの「偉大な計画を実行せよ」ポスター、1932。(『THE SOVIET POLITICAL POSTER 1917 / 1980』Nina Baburina, Penguin Books, 1985)
図9──クルーツィス、デザインの「偉大な計画を実行せよ」ポスター、1932。(『THE SOVIET POLITICAL POSTER 1917 / 1980』Nina Baburina, Penguin Books, 1985)

そんな苦難のなかで、ロトチェンコとリシツキーは、写真とデザインに活路をみいだした。ちょうどフォト・モンタージュなど、写真の重要性が増大しはじめていた時期である。写真は社会主義リアリズムに則っている、というわけだ。その背景には、網版による写真の印刷技術の向上もあった。

▼図10──ロトチェンコは、雑誌掲載のために、社会主義リアリズムに則った、大量生産工場のクラッチを撮影、1929。(『Alexander Rodchenko: Photpgraphy 1924-1954』Alexander Lavrentiev, Lnickerbocker Press, 1996)
図10──ロトチェンコは、雑誌掲載のために、社会主義リアリズムに則った、大量生産工場のクラッチを撮影、1929。(『Alexander Rodchenko: Photpgraphy 1924-1954』Alexander Lavrentiev, Lnickerbocker Press, 1996)

▼図11──『建設のソ連邦』に掲載された、重工業の発展を示すようなリシツキーによるフォトモンタージュ、1935。(『RED STAR OVER RUSSIA: A visual history of the Soviet union from 1917 to the death of Stalin』David King, Tate Publishing, 2009)
図11──『建設のソ連邦』に掲載された、重工業の発展を示すようなリシツキーによるフォトモンタージュ、1935。(『RED STAR OVER RUSSIA: A visual history of the Soviet union from 1917 to the death of Stalin』David King, Tate Publishing, 2009)

リシツキーと『FRONT』

ソ連では、第一次五ヶ年計画の成果を誇示するためにプロパガンダ・グラフ誌『建設のソ連邦』を1930年に創刊した。ロトチェンコとリシツキーは、そのグラフ誌のデザイナーとして大活躍した。写真とフォト・モンタージュが重要となるグラフ誌ならではである。

▼図12──ロドチェンコのデザインによる、『建設のソ連邦』1935年12月号所収、上下に折り畳まれたページを開けるとパラシュートが広がる。(『RED STAR OVER RUSSIA: A visual history of the Soviet union from 1917 to the death of Stalin』David King, Tate Publishing, 2009)
図12──ロドチェンコのデザインによる、『建設のソ連邦』1935年12月号所収、上下に折り畳まれたページを開けるとパラシュートが広がる。(『RED STAR OVER RUSSIA: A visual history of the Soviet union from 1917 to the death of Stalin』David King, Tate Publishing, 2009)

▼図13──リシツキーのデザインによる、『建設のソ連邦』1937年9・12月合併号所収のフォト・モンタージュ。(『エル・リシツキー──構成者のヴィジョン』寺山祐策(編)、武蔵野美術大学出版局、2005)
図13──リシツキーのデザインによる、『建設のソ連邦』1937年9・12月合併号所収のフォト・モンタージュ。(『エル・リシツキー──構成者のヴィジョン』寺山祐策(編)、武蔵野美術大学出版局、2005)

彼らは、それまで行っていた抽象表現を基軸としたアート活動や、革命がもたらすと期待されたユートピアへの夢を封印した。「古いものでも、新しいものでもなく、必要なもののため」の、プロパガンダ・デザインに徹した。ここで評価を得られなかったら、つらい晩年が待ち受けているかもしれないからだ。しかもリシツキーは肺結核という病いも抱えていた。

そして彼らは、デザイナーとして生き延びられた。そればかりか、プロパガンダ・グラフ誌におけるデザイン力で高い評価も得た。そのひとつが、浮世絵的構図などを使ったメリハリのある表現である。

たとえば、軍艦の大砲が大きく前景に陣取り、その隙間から軍艦の甲板を見る、というクローズアップを使った構図(1937)。これによって迫力ある誌面が完成した。

▼図14──リシツキーのデザインによる、『建設のソ連邦』1937年1月号所収の、前景の2本の大砲によって迫力がでた写真。(『エル・リシツキー──構成者のヴィジョン』寺山祐策(編)、武蔵野美術大学出版局、2005)
図14──リシツキーのデザインによる、『建設のソ連邦』1937年1月号所収の、前景の2本の大砲によって迫力がでた写真。(『エル・リシツキー──構成者のヴィジョン』寺山祐策(編)、武蔵野美術大学出版局、2005)

この構図は、軍国日本のプロパガンダ・グラフ誌『FRONT』にも見られる。

『FRONT』は、もともと『建設のソ連邦』のようなグラフ誌をつくろうとしてはじまったので、デザインにその影響が見られるのは当然だ。判型もあえて『建設のソ連邦』と同じ(A3)にしたところなど、その参照具合は半端ではない。

その『FRONT』の創刊号(1942)のなかに、巨大な2本の大砲を前景に、その向こうに小さく連合艦隊が見える写真がある。ちょうどリシツキー版における寄り引きをより極端にしたトリミングだ。この写真によって雄大な連合艦隊のイメージが立ち上がった。

▼図15──リシツキーの迫力あるデザインを彷彿とさせる、『FRONT』1・2合併号(創刊号)の見開きページ。(『『FRONT』復刻版──海軍号/満州国建設号/空軍(航空戦力)号』多川精一(監修)、平凡社、1989)
図15──リシツキーの迫力あるデザインを彷彿とさせる、『FRONT』1・2合併号(創刊号)の見開きページ。(『『FRONT』復刻版──海軍号/満州国建設号/空軍(航空戦力)号』多川精一(監修)、平凡社、1989)

『FRONT』のデザインを担当した原弘さんたちは、リシツキーのデザインを通して、浮世絵的構図を逆輸入したことになる。

中景のない表現

ここで、『FRONT』の写真や、リシツキーの見本となった例の浮世絵的構図のあり方をもう一度みてみよう。

木村重信さんの『東洋のかたち』によれば、前景に何もないよくあるトリミングでは、全体の印象は、ひと目で把握できる。

ところが、このような、前に大きく張りだした前景(近景)と小さい後景(遠景)がセットとなったトリミングには動きを感じさせる、という。

クローズアップされた前景を把握するためには、「部分から部分へと眼を動かさねばならない。すなわち眼によって触れるのであり、その意味でこの場合の全体印象は、純粋な視覚印象と眼を動かすことによって得られた運動印象から合成されている」(木村、前掲書)と語る。

まあ、そこまで激しく動感を感じるかはともかく、この構図には、シャープさも加わる。

ヨーロッパ的表現の特徴は、遠景、中景、近景という具合に徐々にこちらに接近してくる。ところが浮世絵的構図では、中景をカットし、クローズアップされた近景と遠景の対比で描く。遠景と近景の大きさの落差が激しく、よって全体にメリハリがもたらされ、シャープな印象となる。

これを五感にたとえてみると、五感の序列は、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の順に並べられる。遠方から徐々に手元にまでやってきて、最後は口中に入る、というイメージである。

すると、この近景・遠景表現は、視覚のあとの聴覚・嗅覚をすっとばして触覚・味覚にいたる速度感に似ている。見た途端に、心の準備ができる前に触り味わう、あるいは、触り味わってから視る。どちらにせよ、かなり危ない行為だ。大江健三郎の著書のタイトルにあった「見るまえに跳べ」である。その危なさが刺激的となり、メリハリを生む。

また、ほかのところでも触れているように、中景のないことによって、中景がもたらすはずの立体感も失われる。

たとえば、「ダブルトーン」という印刷用語があるが、モノクロ写真を印刷するとき、黒色を補完するためにグレーを1色加えた2色刷りで写真を印刷することをいう。

このときの製版方法は、黒色の版を硬調(アミ点が少ない)、つまり、ハイコントラストで製版し、グレー版は中間調がでるように軟調(アミ点が多い)で製版する。これを合体すると立体的なモノクロ写真になる。中景をカットするのはダブルトーンからグレー版をやめて黒色版だけで表現することにイメージは近い。硬調で製版したハイコントラストのみの写真は、立体感が薄れ、より平面的になる。カラヴァッジョの濃淡を強調した絵画とも通じてくる。

この近景と遠景を対比した構図にはもうひとつ特徴があった。目があちこちに動くことで、複数の視点が生まれる。これはまさに東アジアに通じる点景観、多視点観である。

ところでリシツキーは、このようなデザイン手法をどこで得たのだろうか。

リシツキーと浮世絵的構図

リシツキーは、ドイツに留学するなど、若いときからヨーロッパの息吹を浴びていた。だから、19世紀末にヨーロッパの画家たちに衝撃を与えた浮世絵のデザインも知っていたのだろう。

直接知らなかったとしても、彼の留学先であるドイツのダルムシュタット工科大学のあったダルムシュタットは、アール・ヌーヴォー(ドイツではユーゲントシュテイルとよばれた)作品が街中に溢れていたことで知られている。アール・ヌーヴォーの二次元の表現は、19世紀末のジャポニスム・ブームのなかから生まれた、ともいわれている。

リシツキーには、ベルリンで出版された、マヤコフスキー詩集『声のために』(1923)という「視覚詩(visual poetry)」のデザインがある。

そのデザインでは、さまざまな大きさの活字の清刷りを切り貼りし、文字に極端な大小をつけて視覚的意味が生まれるようにデザインしている。活字だけを使っているので一見平面的に見えるが、建築的な立体感も感じる不思議な絵本である。この強弱のつけ方がのちの近景・遠景表現につながったように思える。

▼図16・17──大小の活字で構成された、リシツキーのデザインによる、マヤコフスキー詩集『声のために』(1923)の二見開き。
図16・17──大小の活字で構成された、リシツキーのデザインによる、マヤコフスキー詩集『声のために』(1923)の二見開き。

図16・17──大小の活字で構成された、リシツキーのデザインによる、マヤコフスキー詩集『声のために』(1923)の二見開き。

「クローズアップ」概念の登場

「クローズアップ」が西洋美術史のなかではじめて使ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼の手稿はまさに「観察」「クローズアップ」記録集である。当時の画家たちは、もちろんモデルを見て描きはしたが、観察して描いていたわけではない。だから省略や想像は当たり前。ところが、レオナルドは、徹底的なリアリズムを追求した。

▼図18──キンポウゲやアネモネなどの草花をスケッチしたレオナルド・ダ・ヴィンチ、手稿より、1505〜1507ごろ。(『万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ』アレッサンドラ・フレゴレント、張あさ子(訳)、ランダムハウス講談社、2007)
図18──キンポウゲやアネモネなどの草花をスケッチしたレオナルド・ダ・ヴィンチ、手稿より、1505〜1507ごろ。(『万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ』アレッサンドラ・フレゴレント、張あさ子(訳)、ランダムハウス講談社、2007)

たとえば、こんな話がある。西洋美術のなかで、日本の絵巻物ほど明快な表現ではないが、ふたつのシーンを同一画面に描いた作品がいくつかある。これは「異時同図法」といって、のちにピカソが得意とした、複数の顔の向きを同居させた手法の先取りである。

▼図19──縞柄の人物が手前と右奥の2ヵ所に描かれている。ティツィアーノの「異時同図法」による〈嫉妬深い夫の奇跡〉1511。(「Tiziano Vecellio」Wikipedia)
図19──縞柄の人物が手前と右奥の2ヵ所に描かれている。ティツィアーノの「異時同図法」による〈嫉妬深い夫の奇跡〉1511。(「Tiziano Vecellio」Wikipedia)

ところが、レオナルドがこの表現をリアルではないと否定したせいかどうか、その後廃(すた)れた。画家の特質は、イマジネーション力よりも観察力であることを示したのがレオナルドだった。

しかもレオナルドは、観察をするとき、カメラ・オブスクラ(暗箱カメラ)を使っていたらしい。おそらくカメラ・オブスクラを使って下書きをしたのはレオナルドが最初だろう。

そのカメラ・オブスクラの使い方は、部屋のように大きな暗室に空いた穴から、外の像が暗室の壁に映る、それをトレースする。穴にはレンズがはめ込まれる場合もある。穴ではなく、大きな開口部でも外の像は壁に映るので、使い勝手は意外によかったのかもしれない。

▼図20──小さい部屋タイプのカメラ・オブスクラを使った模写の仕方の例。上は、180度回転して、左右反転した像が見える。中は、180度回転、下は、正像となる。(『フェルメールのカメラ──光と空間の謎を解く』フィリップ・ステッドマン、鈴木光太郎(訳)、新曜社、2010)
図20──小さい部屋タイプのカメラ・オブスクラを使った模写の仕方の例。上は、180度回転して、左右反転した像が見える。中は、180度回転、下は、正像となる。(『フェルメールのカメラ──光と空間の謎を解く』フィリップ・ステッドマン、鈴木光太郎(訳)、新曜社、2010)

カメラ・オブスクラを使うことのメリットは、リュート(ギター)などを微妙な角度で持つ形も簡単に精確にデッサンできる、ということだが、パーツごとに詳細に下書きをしてあとで合体し、全体を描くこともできる。これはまさに多視点、つまり疑似点景的創作法に思える。

▼図21──リュートも含めてさまざまな小物をカメラ・オブスクラなどを使って描いた印象が強いハンス・ホルバイン〈大使〉1553。(「ハンス・ホルバイン」Wikipedia)
図21──リュートも含めてさまざまな小物をカメラ・オブスクラなどを使って描いた印象が強いハンス・ホルバイン〈大使〉1553。(「ハンス・ホルバイン」Wikipedia)

そしてパーツごとに描くということは、ディテールを詳細に描けるということでもある。実際、かつては省略していたような模様も描くようになり、カメラ・オブスクラ使用前と後では、衣服の模様の細かさの質がまったく違っていった。

▼図22──カメラ・オブスクラを使っていたと覚しきアーニョロ・ブロンズィーノ〈エレオノーラ・ディ・トレド〉1545。(「アーニョロ・ブロンズィーノ」Wikipedia)
図22──カメラ・オブスクラを使っていたと覚しきアーニョロ・ブロンズィーノ〈エレオノーラ・ディ・トレド〉1545。(「アーニョロ・ブロンズィーノ」Wikipedia)

ただし、パーツを集めて合体したとき、全体のバランスが狂うこともある。顔の大きさに比べて異常に肩幅が狭い、身体が十頭身どころじゃないとか、その逆などだ。

▼図23──十頭身はあろうかと思われるアンソニー・ヴァン・ダイク〈ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン〉1633。(「アンソニー・ヴァン・ダイク」Wikipedia)
図23──十頭身はあろうかと思われるアンソニー・ヴァン・ダイク〈ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン〉1633。(「アンソニー・ヴァン・ダイク」Wikipedia)

画家のデイヴィッド・ホックニーさんの研究によると、17世紀あたりから左利きの絵が増えたのはカメラ・オブスクラを使って描いたからだ、という(『秘密の知識』)。

そしてレオナルドの試みから約半世紀後、ほかの画家たちもカメラ・オブスクラを使いはじめた。そのまた半世紀後には、顕微鏡、望遠鏡も発明された。「観察」という概念がこれらの道具の登場によってよりリアリティを増し、「クローズアップ」はより身近になった。

ちなみに、顕微鏡、望遠鏡の発明を促したのは、ルネサンスで本が大量生産されるようになったことがきっかけのひとつといわれている。

みなが本を手軽に読めるようになったことで、「遠視」の存在に気づいた(近視の登場は本をより多く読むようになってから)。本の文字がよく読めない人々はメガネ屋に殺到した。メガネ屋の隆盛はレンズの性能アップにつながった。そこに、メガネはレンズが横に並んでいる、レンズを縦に並べたらどうなるのだろう、というセレンディピティ的発想がオランダのレンズ職人のなかから生まれた(次に述べるフェルメールの地元だ)。これが顕微鏡、望遠鏡発明につながっていったのだった。

フェルメールの近景表現

フェルメールもカメラ・オブスクラを下書きに使っていたといわれている(だからといって絵の価値は減じないが)。ディテールの細かさはたしかに群を抜いている。カメラ・オブスクラを使ったと覚しき〈デルフト眺望〉(1660〜61ごろ)は、その精細さからイギリスの美術史家、ケネス・クラークが、「カラー写真に最も近づいた絵画」(スヴェトラーナ・アルパース『描写の芸術』)といったとされる。

▼図24──かなり精細に描かれたヤン・フェルメール〈デルフト眺望〉1660〜61ごろ。(「ヤン・フェルメール」Wikipedia)
図24──かなり精細に描かれたヤン・フェルメール〈デルフト眺望〉1660〜61ごろ。(「ヤン・フェルメール」Wikipedia)

近景に大きな男の後ろ姿が立ちはだかる〈士官と笑う女〉(1658ごろ)の人物の比率を測った研究者は「写真的比率」だとして、これがカメラ・オブスクラを使った証拠だとも述べている(アルパース、前掲書)。

▼図25──フェルメール〈士官と笑う女〉1658ごろ。(「ヤン・フェルメール」Wikipedia)
図25──フェルメール〈士官と笑う女〉1658ごろ。(「ヤン・フェルメール」Wikipedia)

そのフェルメールには、手前にカーテンやドア、人の背中などを持ってきて、その背後に絵のテーマとなる対象を描くという作品がいくつかある。

それらの絵では、手前とそれ以外、というふうに明らかにふたつのシーンに分けられているように見える。本稿で述べている浮世絵的構図の近景と遠景にあたる。

前述の〈士官と笑う女〉(1658ごろ)、ドアの隙間からリュートを弾く女性を見る〈恋文〉(1969〜70ごろ)、カーテンごしに女性を見る〈窓辺で手紙を読む女〉(1659ごろ)、カーテンと絵描きの後ろ姿の向こうに本を持つ女性が描かれた〈絵画芸術〉(1664〜65ごろ)、近景にテーブルのある〈音楽の稽古〉(1662〜65ごろ)など。〈地理学者〉(1669ごろ)も、手前にカーテンやテーブルにかけたテーブル・クロスだか毛布みたいなものを置いてあり、〈ヴァージナルの前に立つ女〉(1673〜75ごろ)も手前に椅子がある。

▼図26-1──フェルメール〈恋文〉1669〜7ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)
図26-1──フェルメール〈恋文〉1669〜7ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)

▼図26-2──フェルメール〈窓辺で手紙を読む女〉1659ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)
図26-2──フェルメール〈窓辺で手紙を読む女〉1659ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)

▼図26-3──フェルメール〈絵画芸術〉1664〜65ごろ。(「絵画芸術(フェルメールの絵画)」Wikipedia)
図26-3──フェルメール〈絵画芸術〉1664〜65ごろ。(「絵画芸術(フェルメールの絵画)」Wikipedia)

▼図26-4──フェルメール〈音楽の稽古〉1662〜65ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)
図26-4──フェルメール〈音楽の稽古〉1662〜65ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)

▼図26-5──フェルメール〈地理学者〉1669ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)
図26-5──フェルメール〈地理学者〉1669ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)

▼図26-6──フェルメール〈ヴァージナルの前に立つ女〉1673〜75ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)
図26-6──フェルメール〈ヴァージナルの前に立つ女〉1673〜75ごろ。(「ヨハネス・フェルメール」Wikipedia)

これらの絵は、中景が省略された近景と遠景で構成されているといってもよさそうだ。まさに浮世絵的構図である。

また、〈恋文〉〈絵画芸術〉〈音楽の稽古〉の床の市松模様は、その中景を補う役割が与えられているに違いない。フェルメールのスタジオの床が市松模様だったということもあるが。

フェルメールは、時代的に浮世絵との関連はなかったが、この構図のメリハリ感は、その後、19世紀末のジャポニスム・ブームが興るまで、引き継がれなかった。

コラージュ的構図

ほかのところでも述べているが、近景と遠景を使った構図はまさに舞台で使われる「書き割り」そのものである。カメラ・オブスクラを使ってパーツを描き、それを合成、言い方を変えればコラージュすれば、各々が独立した「書き割り」となる。

コラージュは、もともと異化効果、つまり、ありえないものが同居することでインパクトを与える手法である。メリハリをつけるための簡便な手法でもあった。

ピカソがパピエ・コレ(コラージュ)をはじめたのは、キュビスムの限界、つまり、キュビスムの同志、ブラックとの作品の違いが不明瞭になってきたからだった。加えて抽象表現における「意味」の喪失も表現の転換を迫られた要因のひとつ。

そのために、意味の断片を絵画に入れ込むことをはじめた。これがパピエ・コレ。コラージュである。

コラージュによる、画面に突然入り込む文字の断片にピカソ(ブラックも)は衝撃を受けたと思う。コラージュは、画面に異次元を持ち込む手法であり、画面には複数の視点が、例の点景的視点が生じる。これがのちのピカソの多視点の顔のルーツになった思える。

▼図27-1──パブロ・ピカソ〈ラチェルバ〉1914。(『新潮美術文庫42 ピカソ』日本アート・センター(編)、新潮社、1975)
図27-1──パブロ・ピカソ〈ラチェルバ〉1914。(『新潮美術文庫42 ピカソ』日本アート・センター(編)、新潮社、1975)

▼図27-2──ジョルジュ・ブラック〈ギターを持つ女〉1913。(『現代世界美術全集15 ブラック/レジェ』後藤茂樹(編)、集英社、1972)
図27-2──ジョルジュ・ブラック〈ギターを持つ女〉1913。(『現代世界美術全集15 ブラック/レジェ』後藤茂樹(編)、集英社、1972)

ピカソの多視点はアフリカ彫刻などから影響されたといわれているが、もともとピカソはそのヒントをコラージュから得ていたのだろう。

コラージュ作家、岡上淑子さんの作品を観ると、比率を極端に無視するところに主眼が置かれているように思える。たとえば、窓から巨大な女性が覗くとか、トランプを広げている手が少女の身体とスカートになっていたり、車の屋根に坐る巨大な女性、顔の両サイドから木を生やした女性、部屋から取り払われた壁の向こうには戦闘機の編隊、など。

▼図28-1──岡上淑子〈怠惰な恋人〉1952。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)
図28-1──岡上淑子〈怠惰な恋人〉1952。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)

▼図28-2──岡上淑子〈ダンス〉1951。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)
図28-2──岡上淑子〈ダンス〉1951。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)

▼図28-3──岡上淑子〈景色〉1956。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)
図28-3──岡上淑子〈景色〉1956。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)

▼図28-4──岡上淑子〈新たなる季節〉1955。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)
図28-4──岡上淑子〈新たなる季節〉1955。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)

▼図28-5──岡上淑子〈予感〉1952。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)
図28-5──岡上淑子〈予感〉1952。(『岡上淑子全作品』岡上淑子、河出書房新社、2018)

これらは、近景と遠景の落差を強調した表現、本稿の言い方では「書き割り」的表現といえる。

この「書き割り」的表現は、「影」「余白」で述べている「切り捨ての美学」とも通じている。琳派などで背景に金箔を貼ることで背景を捨象して描く対象を際立たせることと、中景をカットして近景、遠景ともに目立たせようとすることは、どちらも画面にメリハリを与える手法だからだ。

参考文献
『20世紀ロシア文化全史──政治と芸術の十字路で』ソロモン・ヴォルコフ、今村朗(訳)、沼野充義(解説)、河出書房新社、2019
『進歩とカタストロフィ──モダニズム 夢の百年』多木浩二、青土社、2005
『東洋のかたち──美意識の探求』木村重信、講談社現代新書、1975
『絵を見る技術──名画の構造を読み解く』秋田麻草子、朝日出版社、2019
『秘密の知識──巨匠も用いた知られざる技術の解明』デイヴィッド・ホックニー、木下哲夫(訳)、青幻舎、2006
『描写の芸術──一七世紀のオランダ絵画』スヴェトラーナ・アルパース、幸福輝(訳)、ありな書房、1993
『フェルメールのカメラ──光と空間の謎を解く』フィリップ・ステッドマン、鈴木光太郎(訳)、新曜社、2010

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松田 行正(まつだ・ゆきまさ)

書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。