スーパー書評「漱石で、できている」4
トクヴィル『アメリカの民主政治』 「デモクラシー」の負を克服する責務
2020.05.15
Updated by Yoichiro Murakami on May 15, 2020, 11:33 am JST
2020.05.15
Updated by Yoichiro Murakami on May 15, 2020, 11:33 am JST
かつて第二次世界大戦中のイギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、「デモクラシーは最悪の政治形態である、ただし、過去折々に試されたすべての政治形態を除けば」という見事な警句を残しました。イギリス知識人の典型の言らしい、ウィットと皮肉のなかに、真実を刺す言葉として伝えられています。
敗戦の年、小学生だった私は、戦後唯一の娯楽でもあったラジオ放送で、日曜日のゴールデンタイムに流された「真相はかうだ」に、強く印象付けられました。要するに、戦時中の権力者の不法・無法を暴露するもので、そのときの対象絶対否定の言辞が「封建的」であり、その反対が「民主的」でありました。私の記憶に間違いがなければ、この番組では、冒頭、アナウンサーが荘重な口調で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と毎回宣言するのでした。
この番組は、後に判ったことですが、GHQの制作だったということですが、いずれにしても「民主的」イコール絶対善、「封建的」イコール絶対悪の価値図式があからさまな内容でありました。しかし、子供心に、この図式はしっかりと根を下ろしました。私の中で「デモクラシー」は「民主主義」である、という確固たる概念形成もできました。こうした状況は、昭和二十年四月のローズヴェルト大統領の死に際して、「敵の親玉が死んだ、皆拍手しよう」と言った教師が、あるいは、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」(西条八十詞・古関裕而曲)と歌っていたそれまでの社会全体が、掌を返すように、占領軍の「民主主義」なるものを喧伝する立場に立ったことによっても、子供心は崩されず、むしろ素直に補強された感がありました。
この概念構造が自分の中で壊れた直接のきっかけは、二つあります。一つは、大学生になって、福沢諭吉の『学問のすすめ』の最初の論(この書には「学問のすすめ」と題された冒頭の文章のほかにも、何編かの論考が収められています)に接したこと、そしてもう一つは、大学のゼミナールでトクヴィルの『アメリカの民主政治』を読んだことでした。そこまでの伏線は、高校から大学への過程の中で、英語以外の幾つかの言語に晒されたことにもありました。例えば、その頃になって、というのは恥ずかしいですが、そもそも<democracy>を「民主主義」と訳すことに不審を持ったのです。原語はギリシャ語の<demos>と<kratos>から成っていて、「大衆」と「権力」です。しかも<aristocracy>つまり「貴族政治」、あるいは<autocracy>つまり「独裁政治」などの言葉遣いからも測られるように、<cracy>は明らかに「政治的権力機構」言い換えれば「統治形態」を指しています。
ですから、デモクラシーは、どう考えても、特定の価値観に裏付けられた一つの主張やイデオロギーを意味する「主義」ではなく、単に政治形態の一つを指す言葉ではないのか。実際、通常「民主主義」という、一つのイデオロギーを指す言葉としては、例えばアメリカでは、永らく<republicanism>という言葉が使われていたことも学びました。直訳すれば「共和主義」ですが、これは、明らかに一つの「主義」に違いありません。いずれにせよ、今思うと、大学へ入った頃から、私の中には、きちんと整理はされていなかったにせよ、一種言語上の疑いが生じていたことは事実です。
その上で福沢を読んで、仰天しました。なるほど、その文章の冒頭に、あのアナウンサーが勅語を読むような荘重さで語った一行がありました。しかし、そのあとに、「と言へり」とついているではありませんか。何のことはない、福沢が言おうとしたのは、世の中ではそう言うけれども、実際は人には上下がある、それは学問をするかしないかにかかっている、という論点だったのですから。
そしてトクヴィル(Alexis de Tocqueville, 一八〇五-五九)です。この書物は、日本語の翻訳が、文庫本で四冊に及ぶことからみても、かなりの大冊です。フランス革命を辛うじて生き残った貴族の末裔として、彼の書に、もともと「民主主義」なるものの最大価値の一つである「平等」に対して、明確な消極的姿勢があることは、容易に想像が付きました。それにしても、本書の基本トーンが、「民主主義」をはっきりと否定するという点であるのは、驚きでした。タイトルに、戦後我々に「民主主義」をご教示下さったはずの、アメリカにおける「デモクラシー」を謳っているにもかかわらず、です。
そうです。先ず、翻訳書のタイトルが「アメリカにおける民主主義」となっていないことにも注目すべきなのです。訳者は、やはりその点にきちんとした理解を持っておられることが判ります。原著は、フランス語では、De la democratie en Amerique(第一巻一八三五年、第二巻一八四〇年)であり、英語版では Democracy in America ですが、これを「アメリカにおける民主主義」と訳せば、明らかに誤訳になるはずなのは、すでに述べた通りです。
さて、トクヴィルです。名前や生没年からも判りますが、フランス革命で犠牲になった親族も少なくなかった貴族の出身で、フランス革命で家系を絶たれなかった幸運に恵まれた人物の一人と言えるでしょう。なおファースト・ネームは「アレクシス」と読みたいし、実際そう片仮名書きした邦訳書もありますが、綴り最後の<s>を読まないフランス語の習慣から言えば、「アレクシー」が正確であるように思われます。彼は、パリ大学を卒業後、ヴェルサイユ裁判所の判事教習生という職に就きます。そこで知り合った若い友人のボーモン(Gustave de Beaumont, 一八〇二-六六)という人物とともに、職責に関係のあるアメリカの監獄制度を視察するという名目で、アメリカの北東海岸からニュー・オーリンズまで南下し、そこから中部を通ってカナダまで足を運んで戻るという、九か月にも及ぶ長旅をします。この時の経験が、本書の基礎となりました。
本書の基本は先ず「デモクラシー」なるものの負の価値を確認する作業にあります。そう言えば、アメリカ、まるでデモクラシーの代名詞のように扱われるアメリカには、建国を支える三つの基本文書があります。第一は、メイフラワー号が東海岸に投錨して、乗客たちが、これから上陸して築こうとしているコミュニティの理念について、語り合った結果を文書として残した「メイフラワー・コンパクト」(一六二〇年十一月十一日付)というものがあります。念のためですが、ここでの<compact>というのは、日常日本語にもなっている使い方とは違って「盟約」あるいは「契約」という意味です。当然、デモクラシーという理念が盛り込まれるべき性格のものですが、言葉遣いとしては「デモクラシー」は避けられています。「市民による政治」という砕けた表現はありますが。
次は言わずと知れた「独立宣言」です。これは、イギリスのジョン・ロック(一六二三-一七〇四)の『統治二論』(Two Treatises of Government, 一六九〇)という、それこそデモクラシーの理念そのものを謳いあげた書物に、決定的な影響を受けて起草されており、特に前半部分は、ロックの理念をそのまま引き写した感さえあるものですが、そこでも、デモクラシーという言葉は現れません。
そして、あのゲティスバーグ演説(一八六三年)。南北戦争のただ中、戦いに殉じた北軍の兵士たちを弔う、北の大統領リンカーンの僅か四分ほどの短い演説が、今もなお不滅の文書として語り継がれています。そこには、私が中学一年のときに、社会科の教師が、民主主義なるものの真髄として、黒板に書いて覚えさせた名文句 <government of the people, by the people, for the people>が、締め括りに置かれています。しかも、もう一つ年代に気を付ければ、トクヴィルの書物が出版された後のことなのですが、それでもデモクラシーという言葉は使われていないのです。トクヴィルの後、を強調した理由は、後に判って戴けると思います。
さて、このように、「デモクラシー」という言葉が忌避されているかのように見える一つの理由は、すでに書きましたように価値理念を表現することばとしては、<democracy>ではなく、<republicanism>を使うのが常道であったからでしょう。因みに、現在のアメリカで共和党、つまり<Republic Party>というと、右派、保守派であり、民主党、つまり<Democratic Party>は、進歩派、やや左派という常識が成り立っていますが、過去においては必ずしもこうしたイメージは定着していませんでした。最も典型的なのは、例のリンカーンです。彼自身共和党員で、奴隷解放に尽力した際、議会であらゆる手段を使って阻止しようとしたのは、民主党でした。少なくともあの時点で奴隷制を即座に廃することへの抵抗勢力、つまり民主党を「保守的」、あるいは「守旧的」と呼ぶことは、正当でありましょう。
話を戻しましょう。しかし、第一の点、つまり<republicanism>という代わるべき言葉があったから、というだけでは、まだ、<democracy>が忌避されがちであったことの説明としては、十分ではありません。何故デモクラシーという言葉が、本来負のイメージを担っていたのか、その点に説明が必要でしょう。
第一には、「大衆支配」という言葉そのものの中に含まれている「愚民政治」というニュアンスが影響していたかもしれません。第二には、古代ギリシャという歴史的記憶です。ギリシャのデモクラシーは、今から見れば極めて不徹底な性格のものですが、とにかくその制度の下で、ソクラテスを殺し、プラトンを絶望させ、そこで決定的な否定を受け取ってしまった、という故事があったからです。
さらに第三には、ロックに代表されるように、十七世紀末から十八世紀のヨーロッパは、ようやく自立した市民層というものが姿を現し始めた時代を迎えていました。やがて、産業革命が始まり、賃労働者なる社会層も形成されようとする、つまり社会構成そのものが激変しようとしている時代でした。言い換えれば、それまでは<demos>なるものの実体が、存在すらしなかった、と言えるかもしれません。したがって、デモクラシーという理念そのものも、まともに論じられる機運が整っていなかった、とも考えられます。逆に言えば、そろそろ、社会のなかに、<demos>に当たるものが見えてきたからこそ、既存の社会層から見れば、デモクラシーなるものの「危険」も、暗々裏に感知されていたのかもしれません。もう一度裏返せば、そうした中でのロックやルソー(Jean-Jacques Rousseau 一七一二-七八)が捉えた論点は、見事というほかはないのでもありました。
学生時代にこの書を初めて読んだとき、受けたもう一つの大きなショックは「個人主義」という概念に関するものでした。戦後の「民主」教育で育った私の耳に、つねに鳴り響いていたのは、日本社会の「封建」的性格の一つとしての、「個人の自立性」の欠如という点でした。国内の進歩的知識人と言われる人々が皆そう主張し(恰も自分だけは、そこから抜け出している、と言わんばかりでしたが)、また海外からの批判も、日本人の「集団主義」(collectivism)という極め付け、つまり裏返せば個人主義の欠如という形をとってきました。
しかし、トクヴィルは、恰も「個人主義」は、社会の負の財産であるかのように語ります。確かに、個人主義は利己主義とは違う。しかし、個人主義は、人間の眼差しを内向きにし、公共への思慮を妨げ、究極的には利己主義と同じことになってしまう。それが、トクヴィルの個人主義に対する立場です。ゼミで、この個所を読んだ後、私はOED(Oxford English Dictionary)を引いてみました。OEDの利点は、徹底的な調査の上で、当該の単語の、調査した限りでの初出の文章を探し出して、掲載する労を厭わないところにあります。それによれば、<individualism>は十九世紀初頭ころから使い始められ、当初は確かに負の価値を背負わされた語であったことが示されていました。もちろん、OEDによれば、時間が経つに連れて、むしろ我々の常識になっている、社会的に正の価値を伴った語としての用法が増えていくことも伝えてくれていますが。つまり、トクヴィルの時代には、まだ、使い始められたころの意味合いで理解されていたのでしょう。
考えてみれば<individual>の語源であるラテン語の<individuum>は、ギリシャ語の<atom>と全く同じです。ギリシャ語では<a>は否定の接頭語で、<tom>の部分は、「切る」、あるいは「切り分ける」という意味を持ちます。日本でもよく使われるCTは<computer-tomography>の略語ですが、この<tomography>は、日本語では「断層撮影」と言って、生体の組織を正面からではなく、色々な角度から、X線などで「斬る」ように撮影することです。あるいは英語などで<tome>と言えば、大きな書物の「分冊」を意味します。<anatomy>と言えば「解剖」、「腑分け」です。したがって<atom>は、「不可分割」の意になります。それと全く同じ意味をラテン語化したのが<individuum>です。ラテン語で否定の接頭語は<in>、<dividuum>の方は、<divide>という英語からでも判るように、やはり「分ける」です。そうだとすると、「個人主義」と訳される<individualism>は、もともと、社会をアトム化する、つまり「無機質なそれ以上分割できない、平等な単位に分ける」、ということ以上の意味を持たなかったことになりましょう。
トクヴィルの観察によれば、デモクラシーは、こうした「個人主義」に裏付けられた制度であり、そうした社会では、人々は平等かもしれないが、お互いを結びつける絆を失い、公共への関心も失って、結局は利己主義的な内向きの共同体にしかならない、と判断するのです。現代でも「民意」なるものを尊重し過ぎると<NIMBY>という悪弊に陥ることはしばしば指摘されます。<NIMBY>は<not in my backyard>の頭文字を綴ったアクロニムで、ゴミ焼き場などの「迷惑な」施設が、「自分の家の中庭にできるのでなければ」構わないよ、という利己主義的、公共の利益への思慮に欠けた姿勢を示す言葉です。
整理をしましょう。トクヴィルによれば、平等という価値を至上のものとするデモクラシーの基礎には、共同体をばらばらにしてしまう個人主義が座っており、結局、デモクラシーは、公共の利益への関心を人々から奪い、人間どうしを結びつける絆をも破壊してしまう、悪しき制度である、ということになります。
無論、本書はそこでは終わりません。トクヴィルはボーモンとともにアメリカの各地を回っている間に、重要な観察結果を得ます。それは上述のような、彼らのデモクラシーという概念に対するそれまでの理解を根本から覆すものでした。だからこそ、トクヴィルは「アメリカでのデモクラシー」をどうしても紹介しなければならない、という責務感に駆られたものと思われます。
そこでの秘密は、僅か一語で済みます。そのマジック・ワードが「結社」です。アメリカの人々は、何か事があると、直ぐに自分の意志で結束してコミュニティを造り、目的を果たそうとする。教会建設、幼稚園建設、自治警察の創設、鉄道を敷く、、、。あろうことか、禁酒を誓う人々まで、結社を造る。そんなことが、我々に考えられるか、凡そ馬鹿馬鹿しいくらいではないか、とトクヴィルはフランスの読者に語りかけます。普通なら、内向き、利己的になりがちな「民主的」社会において、アメリカでは、お互いに直ちに結社を造ることで、公共の利益に繋がる活動を自発的に行う仕組みとなっている。不出来な社会と考えられてきた「デモクラシーの社会」が、意外やアメリカでは、こうした仕組みを利用して、結構うまくやっているようなのだ。
そうならざるを得なかった理由も分からないわけではありません。もともと、イギリスが主体の植民地だったとはいえ、北米は、フランスからも、オランダからも、人々が渡ってきました。あの広大な土地に、彼らは、中央集権的な政府などいう頼るべき権力機構を持たず、あるいは持てず、人々は、何事も自分たちの手で解決しなければならない状況に置かれていました。国家として必須の軍隊でさえ、独立戦争のときはもちろん、南北戦争の時でさえ、「国軍」なる概念は存在しませんでした。
そのような歴史的、地政学的などの様々な事情が、アメリカの特性として働いていたことは想像できます。その状況下では、コミュニティのメンバー一人ひとりが、「市民」として、コミュニティ運営を分担しなければならない必然性があった、ということにもなりましょう。
いずれにせよ、「デモクラシー」という概念が、近代社会で、初めて公的な形で肯定的に扱われた、その例がこのトクヴィルの書物と言うことができるのです。したがって、いささか春秋の筆法になるかもしれませんが、戦後日本での民主主義教育が、主としてアメリカ占領軍の手で行われ、私どもが決定的な影響を受けた歴史的源泉は、ここにあった、ということにもなります。
この議論は、テンニース(Ferdinand Toennies, 一八五五-一九三六)が立てた二つの社会形態、ドイツ語の「ゲゼルシャフト」(と「ゲマインシャフト」)を思い出させます。血縁や地縁など、自然な条件や束縛力によって人々が結ばれている社会(ゲマインシャフト)に対して、自由な一人ひとりのメンバーが自分の意志に基づいて手を結び合う共同体、といった趣きが「ゲゼルシャフト」です。トクヴィルの「結社」をドイツ語に訳せば、まさしく「ゲゼルシャフト」になるでしょう。因みにドイツ語では「会社」もまた<Gesellschaft>と呼ばれます。
確かに、二十世紀後半以降、現代では「デモクラシー」という概念は、単に統治形態の一つ、という境位を越えて、近代社会の理想となる一つのイデオロギーとして君臨するようになります。今は、「デモクラシー」を「民主主義」と訳しても、誤訳にはならないような事態が生まれていることになりましょう。東欧諸国が、ソ連の社会主義専制の体制から離脱する過程は、一般に「民主化」と呼ばれました。また、非近代的な社会が維持されているような国家が、近代化する過程もまた、通常「民主化」と呼ばれています。それはそれで、認めるべき側面があるのでしょう。しかし、またそれだけに、デモクラシーが本源的に持つ負の要素を、どのように克服すべきなのか、現代に即した形で、答えを見出していかなければならない責務を、私どもは負っているのです。デモクラシーを絶対善のように考える知的罠から抜け出したときに、どのような風景が見えてくるか。そこは混迷であり、混沌なのか、新たな秩序を探し当てられるのか。すべては、私たちの知性と感性にかかっているのです。
参照図書:
アレクシ・ドゥ・トクヴィル『アメリカの民主政治』松本礼二訳、岩波文庫上巻(上下)、下巻(上下)
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。