前稿(「音楽 その光と塩」 7. 音楽とは)では、自分が幼い頃に浸っていた音楽の環境を、特に歌に焦点を合わせて振り返ってみました。小学唱歌から、日本歌曲、ドイツ・リート、戦時歌謡から流行歌まで、自分が何を歌っていたかの記憶を辿ってみた次第です。番外のようにして、日本の芸能の一つ能楽の音楽的要素である謡曲に僅かに触れました。しかし、私の学校における音楽環境の中に謡曲を登場させることは、自分で意図的に拒んでいたことも書きました。
もともと、私が小学生の頃は、男児が音楽に秀でているということは、一般的には周囲から激しい揶揄の対象になる傾向がありました。美しい声で歌うのは、ヒバリ(空高く囀る小鳥のことです)か女の子。男の子は蛮声を張り上げて、怒鳴れば良い、という常識がまかり通ってもいました。疎開した先の小学校では、私は自分が多少とも歌が歌えることをひた隠しにしました。
母校の小学校は、そうした世間一般の「常識」から見れば、よほど「開明的」といえたかも知れませんが、それでも歌の得意な男の子、というのは、やはり幾分かは「奇異な」存在と見られがちでした。子供ですから、訓練されたものではないものの、ヴィブラートは自然にかかるのでした。しかしそれを、喉を故意に震わせて誇張し、真似してからかってくる級友も確かにいました。ドイツ語でリートを歌い始めてからは、級友のからかいは、影を潜めたように思いますが。
前回、一つ書き忘れましたが、ドイツ・リートは、父親が唱わせたい歌を選び、口移しに、ちょうど、もっと小さい頃に謡曲の小謡を師匠から学んだのと全く同じやり方で、歌詞を教えてくれたものでした。例えば、<Roeslein>のウムラウトも、<オー>の口をしながら<エー>といえ、などと何度も自分でやって見せてくれました。だから、レコードから学ぶことは、原則として全くありませんでした。
唯一の例外に近いのが『魔王』(Erlkoenig)です。比較的長いこのバラードは、周知のように、語り手、父親、少年、そして魔王という四人のキャラクターが登場し、それぞれを歌い分けなければならない、大変ドラマティックなものです。しかも魔王は、<Du liebes Kind, Komm, geh mit mir>と歌い出すときの、如何にも優しげな猫なで声と、最後の<Und bist Du nicht willig, so brauch ich Gewalt>という、正体を現したときの凄まじい迫力という、極端に離れた二面性を要求されます。つまり五つの声のペルソナが必要になります。
当時のリート歌いといえば、特に日本では、ゲルハルト・ヒュッシュ(Gerhard Huesch, 1901-84)と相場が決まっていた時代ですが、戦後間もなくマリアン・アンダーソン(Marian Anderson, 1897-1993)が歌った『魔王』がラジオで放送されて、私は激しいショックを受けました。確か小学校五年生の時のことでした。アメリカ人、黒人、本来はニグロ・スピリチュアルの歌い手という、当時のクラシックの歌の世界では、特にドイツ・リートではハンディを背負っていたといえるコントラルト歌手です。トスカニーニが「世紀の声」と絶賛したことは、日本でも既に知られていましたが、その彼女が『魔王』を実に見事に歌ったのを聴いて、私は自発的にどうしてもこの歌が歌いたくなったのです。
マリアンは、一応、コントラルトということになっていて、しかもお得意の『深い川』(Deep River)のような曲を歌う時には、魂に沁みるような低い声も操りますが、同時に高音域も易々と発声します。『魔王』の「少年」と「父親」、あるいは「魔王」との声質の使い分けの素晴らしさが、私を魅了したのだと思います。ドイツ語の発音を云々する人もいたでしょうが、それは小学生の私には、論の外にありました。
父親は、曲が長いし、あまり乗り気ではなかったのですが、この時の私は、自発的に譜面を探し、メロディの部分は自分でピアノを叩き、父親から口移しに教わるドイツ語の歌詞との相互作用のおかげで、とうとう最後まで歌えるようになりました。父にせがんで、何とかマリアンの『魔王』のレコードを手に入れようとしたのですが、ヴィクター赤盤で彼女が歌った『鱒』(Die Forelle)が辛うじてレコード・リストに加わっただけに終わりました。
序でに書いておきますが、高校二年生になって、ようやく歌を歌えるだけの声が少しづつ戻ってきました。そのとき最初に試みたのはシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を全曲歌えるようにしよう、という歌手志望でもない人間にとっては、ある意味で大それた野望でした。確か、ドイツ・グラモフォン盤で、バリトンのディースカウが歌うレコードが発売されたところで、お手本にしました。流石に今、全部を暗譜で歌えるか、といわれれば、全く不可能です。
まあ、「さすらひ」(Das Wandern)、「いづこへ?」(Wohin?)、「萎める花」(Trockne Blumen)、「小川の子守歌」(Des Baches Wiegenlied)など、特に好きだった歌は、一応覚えているかもしれませんが。中学生の頃までに覚えたものは、今でもどれもほぼ完璧に思い出せるのに、高校生で覚えたものではもうだめなのですから、人間の記憶力の不思議さに改めて驚かされます。
書くまでもないことかもしれませんが、敢えて付け加えれば、最近はどうしてこうした音楽に関する題名などから、文語表現が切り捨てられてしまうのでしょうか。上記の曲名でも、「美しい水車小屋の娘」になり、「どこへ」になり、「萎んだ花」になってしまい、詩的感覚など消し飛んでしまいます。『美しい青いドナウ』なんて、なんとも間が抜けていませんか。
さて、健康状態も含むいくつかの事情から、歌うことから身を退いた後、私は楽器で歌うことを目指して、チェロの勉強を始めます。けれども、チェロを始めてから私は、アンコール・ピースに類する小曲を楽しみで遊ぶ以外、リートやオペラのアリアなどで、歌い手が堂々の主役を演じるような形でチェロで「歌う」ことは、全く無くなったといって良いと思います。公の場で演奏するときは、ソロ(無伴奏)ないしピアノとの共演でも、ましてやピアノ・トリオ、ピアノ・クヮルテット、あるいは弦楽四重奏など、いわゆる室内楽ではなおさら、主役を張って朗々と歌い上げるなどということは、チェロではあり得ないからです。
なお、例えばチェロ・ソナタの場合、ピアノの「伴奏」という言葉は、使いたくありません。もともと、モーツアルトの初期のヴァイオリン・ソナタなどは、「ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」と呼んだ方が実態に即しているような趣です。ピアニストの音楽に対する貢献を「伴奏」という言葉で表現するのは間違っていると思いますし、それは、五曲あるベートーヴェンのチェロ・ソナタでも、あるいはブラームス、ショパン、ラフマニノフ、プロコフィエフなど、数あるチェロ・ソナタの名曲たちでも、事情はあまり変わらないように思っています。
さて、幼い時に始めた謡曲は、その後どうなっていたのでしょうか。声変わりが終わった後、師匠の下でお稽古する機会は、ほとんどなくなりました。正月に親戚が寄ったときに恒例となっていた謡会(うたひかい)も、私が大学に入る頃にはなくなってしまいました。ただ、謡の決まり事は大体マスターし終わっていましたので、謡本を相手に、新しい曲を自発的に仕上げることはできました。
お稽古で仕上げたものは、『竹生島』、『船弁慶』、『紅葉狩』、『羽衣』、『鞍馬天狗』、『土蜘蛛』、『橋弁慶』、『猩々』、『鶴亀』などでしたが、自分で勉強したものには『烏帽子折』、『経政』、『天鼓』、『八島』、『夜討曽我』などがありました。ここでも、幼い頃に仕上げたものは、今でもほぼきちんと謡えますが、その後に勉強したものは、今ではすっかりあやふやになっています。もっとも、謡曲にもレコード(当然始めた頃はSPレコードでした)があって、古くはニットーレコード、あるいはポリドールの黒盤などが、我が家に多数残されています。また、今では、家元などが勉強用に謡ってくれるCD(大抵は「独吟」の形式です)が、数多く入手できます。
ここで、前稿から稿を起こした本来のテーマに関わる、恥ずかしいけれども正直な告白をしなければなりません。ここまで述べてきたように、日本の伝統芸能である謡曲に親しんだ一方で私は、歌の世界でも、また楽器演奏の場面でも、いわゆる西欧の音楽を音楽として理解し、実践してきました。しかし、私の中では、両者が「音楽」という一つのジャンルのなかに纏められる、という意識を持ったことがなかったのです。
理由は幾つか考えられます。前稿で書いたように、小学校で最初に接した音楽環境で、五線譜、三大Bなどに象徴される、西欧の音楽が「音楽」である、という一種の刷り込みが発生した、ということが効いているかも知れません。あるいは、父親が大正教養主義の権化のような人で、江戸の町人文化、あるいは日本の伝統的な芸能などには、およそ趣味のない人だったことも、理由の一つかも知れません。
実際、父は私を歌舞伎に連れて行ったことは一回もありませんし、まして寄席通いなどは、あたかも道徳的に問題があるかのように考えていた節があります。能楽の師匠となったのは母方の伯父で、彼は本来はお役所の高官だった人ですが、途中から能楽師に転向し、かつ能楽の研究者として、観世筋の方々には比較的よく知られた存在でした。父と伯父とは、お互いにそれなりの敬意は払っていましたが、趣好上は、あまり交わる点は見い出せなかったようでした。幼い頃から歌舞伎や寄席に連れて行ってくれたのは、常に母方の祖母でした。母は、間に入って多少当惑したこともあったのでは、と今になって思います。
そんなことも反映してか、謡曲と西欧の音楽とは、私の中できれいに分断されて存在していました。その偏頗な「常識」を砕いてくれたのが、高校からの級友でした。今も、数少ない心からの友人である徳丸吉彦氏です。彼は、幼い頃から和洋両様の音楽に親しみ、双方の専門家として国際的に令名を馳せていますが、その彼が、大学生の頃、三大Bの肖像が音楽室に飾ってあって(彼も小学校で、同じ体験をしたのでした)、何故、近松門左衛門の肖像はないのだろう、日本の学校としておかしくないだろうか、と問いかけたのです。
これは衝撃的でした。念のために付け足しますが、彼は偏った国粋主義からは、最も遠い人の一人です。自分たちの先達を自分たちで無視していて、世界の誰が先達たちの仕事を評価してくれるだろうか、という思いから出た疑問でした。同時に、後に彼が国際的な民族音楽の研究者になる下地、つまり、世界のあらゆる場所に音楽がある、という認識の発露でもありました。
こう問いかけられて、私は根底から考えを革めねば、と思いました。私たちは歌劇というと、直ちにヴェルディを、プッチーニを思い浮かべます。『椿姫』を、『リゴレット』を、『ラ・ボエーム』を、『トスカ』を思い浮かべます。でも、どうして『曽根崎心中』は、『国性爺合戦』は、『心中天網島』は、頭の隅にも上らないのでしょうか。私自身、その片隅に首を突っ込んでいながら、観阿弥の名も世阿弥の名も、『松風』も『井筒』も、まるで素通りしていたとは。歌舞伎でも能でも、オペラと同じように、立派に歌があり芝居があり、楽器による伴奏もあるのに。
能の代表例として、『井筒』を引き合いに出しました。ご存じない方のために、一言説明をしておきますが、日常的にも「筒井筒」という言葉が使われますが、『伊勢物語』などに、この表現の原型があり、幼い頃からの男女の深い愛を謳った言葉です。世阿弥の作であるこの能(彼にとっては最高の自信作だったようです)では、亡き夫を偲ぶあまり、妻であるシテが、夫の残した衣装を着て舞う場面があります。
考えてみて下さい。能役者は、基本は男性です。その男性が、舞台では女性を演じる。ところが、この舞では、男性が演じる女性が男装するという、二重の倒錯があります。まるで、シェイクスピアの劇のようではありませんか。ああ、この表現も、まだ囚われから解放されていない。シェイクスピアを引用して、それで理解が届くと安心する、というのでは、世阿弥への礼を失している、といわれても仕方がないですね。シェイクスピアの劇が、まるで世阿弥のようだ、と何の拘りもなくいえなければならないのです。
話は変わるようですが、孔子は、人間の魂の教化は「詩において興り、礼において立ち、楽において成る」といっています。孔子にとっては、音楽は、人間を人間たらしめる仕上げの営みであり、最後に求められる究極の営みとして考えられていました。勿論、ここには、人間を超える存在である天に対する儀礼という観点があることは、忘れるわけにはいかなでしょうが。
音楽の発祥をどこに求めるか、多くの専門家が議論をしてきたところですから、ここに素人が何も付け加えることはないのですが、要するに仕事歌のような、生活に密着したところから生まれてくる歌が先ずはあったことは、想像ができます。あるいは、本来、儀礼において音楽を忌避するイスラム教(イスラム教の中でも、スーフィズムの一派では楽器や踊りなどを認めることがあります)でも、礼拝が始まることを伝える「アザーン」(「神は偉大なり」を四度繰り返すことで始まる「朗誦」です)は、人間の声による「歌」に近いものです。なお、『クルアーン』(コーラン)の朗読にも、一種の節が付きますが、これは「歌」(音楽)とは峻別されるものと考えられているようです。このように、広い意味でのコミュニケーションの手段として、歌もしくはそれに類したものが使われます。
そこまで書けば、動物たちの間でも「歌」は、コミュニケーションの場で重要な役割を演じていることに触れなければなりますまい。最も多いのは、オスの求愛行動としての「歌」ですが、分節化されてもいるのだそうです。そういわれてみれば、ウグイスの「ホーホケキョ」も「ケキョ ケキョ」も、法師蝉の歌い始めの「ツクツク」も、中間部の「ホーシツク」も、終結部の「ツクイヨース」も、みごとに定型化され、分節化されていますね。
動物の「歌」の場合、分節化された幾つかの要素(人間の言語では「単語」あるいは「フレーズ」に相当します)は確かにあるのですが、そして、それらを定型的に組み合わせる例は、いくらもあるのですが、それらを自由に組み合わせて、新しい表現を作り出すことはしないという話です。いずれにせよ、動物学者の中には、動物たちは「敵がくるぞ」あるいは「えさ場があるぞ」というような切迫したコミュニケーション以外に、情動(「あんたが好ましい」とか、「自分は立派なオスだよ」というような)を伝え合うために、「歌」を歌う習慣を身につけていることになります。動物学者の中には、結局(人間の)言葉が生まれる前に「歌」が先行したはずだと考える人もいます。
ある種の宗教では、「歌」(音楽)は、情動を伝え過ぎるから「危険」だと考えています(先に述べたイスラム正統派もそうなのでしょう)が、それも一面では納得が行きます。しかし、宗教的儀礼には、孔子ではありませんが、ほとんどの場合、「歌」(音楽)が伴います。もっとも、ミサや礼拝でオルガン演奏と「歌唱」が必須のキリスト教でさえ、音楽を「聖なるもの」と「邪悪なるもの」とに分けていた時代もあります。また、楽器を忌避するイスラム世界でも、トルコ(トルコはある意味ではスーフィズムの拠点でもありましたが)の軍隊では、見事な音楽が生まれています。モーツアルトも、ハイドンも、ベートーヴェンも、多くのヨーロッパの作曲家たちが、そのリズムとメロディに魅せられ、触発された結果の音楽を書いています。「トルコ風」という西欧の音楽の中での定型的形容詞が使われるほどです。
前稿から私は、自分の歌の履歴のようなことを書いてきましたが、結局のところ、徳丸氏の言葉を聞くまで、このような「歌」(音楽)の普遍性(これは「ヒト」という種を超えて、動物にまで広がる「普遍性」であるかもしれません)に全く気付いていなかったことになります。こうして、自分の貧しい音楽体験の中から、私は友人のおかげで、能楽も西欧の音楽も、あるいは他の文化圏の音楽も、区別することなく、人間の生を豊かにする共通の営みとして、把握することができるようになりました。
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。