いろいろな機会に、私がヨーロッパのクラシック音楽には一応の素養があり、なかでもチェロを永年弾いてきたことについては、文章を書き散らしてきました。しかし、このシリーズでは、僅かですが日本の古典芸能である能・謡曲に関しても、むしろ西洋音楽よりも早い時期から学ばされたと述べただけで、その詳細には口をつぐんできました。本稿では少しだけ、その背景をお伝えすることから始めたいと思います。
これは、既に触れたことですが、母方の亡伯父、三宅秔一は、関西生まれ、京都育ち、第三高等学校を了えた後、上京して東京帝国大学の法学部に進み、逓信省に奉職しました。それだけの経歴でも、当時としてはエリート、官僚としてもそれなりに優秀だったのでしょうが、幼いころから始めた趣味の能楽に関しては、京都在住時代に、上掛り(京都の意。「下掛り」といえば奈良を指します)の観世流にすっかり惑溺したようです。嵩じて、地謡のメンバーも含めて、役者として舞台も何度か務めたことがあったようです。
仕事の関係で東京へ来てからは、東京の観世の当節の名人たち、二十四世宗家で比較的若くして亡くなった、ほぼ同年の左近(雪号は光雪)、銕之丞(雪号は華雪)、梅若万三郎とその長男の実らと親しく交わり、ときに役者として舞台に立つと同時に、今でも観世専門の能楽関係の書籍を刊行する檜書店という出版社から、多くの研究書を出版してきました。
*観世では、貢献著しい高齢者に「雪」の名を贈る習慣があります。先日亡くなった京都の九世片山九郎右衛門さんは「幽雪」と称されていました。
役所の方は、高等官二等(つまり、当時の呼称で「勅任官」)にまで上っていました。金モールに飾られた大礼服に威儀を正した伯父の姿を覚えています。しかし彼は、その輝かしいキャリアを擲って、中途で退官してしまいます。能楽の研究者として、身を立てる決心をしたからです。
余計なことですが、後に私は、この伯父の原稿の中の、彼が出案した独特の記譜のトレースや、検印を捺す手伝いをしました。そう、この時代は、書物を出版する場合、著者は、奥付の部分に、著者自身が捺印した証紙のようなものを、一冊一冊貼ることで、発行部数のコントロールをしていたのです。
私が初めて書物を出したのは、昭和四十年代(一九六〇年代末)ですが、その頃にはその手続きは廃れ、代わりに「検印省略」と態々記すような習慣が生まれ、その後、いつの間にか、この書き込みもなくなりました。著者と出版社の間の信頼関係が確立された結果ともいえましょう。
私は、四歳からこの伯父に謡曲と仕舞などを仕込まれ、声変わりの中学二年生まで続けました。また、毎年伯父の家で定期的に開かれる謡会では、数曲のプログラムのそれぞれに、役を振られたり、地謡を受け持ったり、独吟を務めたりしておりました。中学二年になって、声変わりで西洋の歌は全く歌えない状態になりましたが、別段に美声という程のことはなくとも、まともに発声できなくとも務まる謡に関しては、無理を忍して続けておりました。しかし、大学に入る前に、呼吸器のトラブルが生じた結果、ほぼ諦めることになって、今日に至っております。
こうして子供時代に覚えた曲は、今でも空で謡うことができます。また、そのような環境でしたので、幼い時からいろいろな舞台(観世の舞台が多かったのは当然として、当時の名だたる役者が多かった喜多流などの舞台にも)に親しむ機会に恵まれました。
能は室町時代に勃興いたしますが、遡れば中国の礼楽(日本で独自の発展を遂げた雅楽)や伎楽からも間接的な影響があり得るのでしょうが、直接には散楽と田楽が源と申せましょう。散楽は、唐の時代に中国に定着した雑芸で、軽業、ジャグリング、物真似(象声)、道化、人形遣いなどの総称です。特に「象声」は、日本の声色や物真似と少し違って、最終的には呪術(例えば長嘯=ちょうしょう)として、霊を呼び出すような術にまで発展しました。
しかし、基本はどれも、庶民のエンターテインメントでした。日本に入ってから、申楽(もしくは猿楽)となり、一旦は朝廷の保護を受け、その後は一般に普及しましたが、少しずつ洗練されていったといえましょう。もう一つの田楽は、平安時代に民間芸能として農民の間に興り、田植えに当たって五穀豊穣を祈る神事(里神楽)とも絡んで、鎌倉時代には寺社に田楽座が設けられたといわれています。
足利時代初期には、申楽座が四座生まれていました。京都(上掛り)に結崎(ゆふざき)、外山(とび)、大和(下掛り)に円満井(ゑんまゐ)と坂戸がそれです。それぞれ、後に観世、宝生、金春、金剛となります。足利尊氏は田楽に関心が強かったといいますが、三代の義満に至って、寵童であった観阿弥の息子、美少年の世阿弥とともに観阿弥の舞台を見たことが機縁となって、観阿弥、世阿弥の「能」(一般的にはまだ「申楽」の名が通用していました)に傾倒していくことになります。
義満は当代きっての教養人で、中国の古典から歌道にいたるまで、文芸に極めて明るい人でしたから、能は、急速にそうした古典的な文芸の世界に題材を求めるようになり、引用も頻繫になりました。例えば名作『松風』は、観阿弥の作(世阿弥が輔佐した可能性はあります)と伝えられますが、ほとんどの詞章が源氏物語や古今集からの引用であり、それらに親しんでいなければ、『松風』はそもそも理解に達することが不可能ということになります。
要するに、現在、私たちが古典能と呼ぶものの基本は、観阿弥・世阿弥父子の時代に始まる、といえましょう。なお、戦国の終わり頃、金剛座に喜多七大夫が出ます。七歳にして立派に舞台を務めたというのが、名前の由来とのことです。関ケ原では西軍につきますが、将軍秀忠に愛され、喜多流を名乗り、ここに「五流」の原型が整います。なお、これらは「シテ方」であり、ワキ方は別個に脇宝生(下掛り宝生)、福王、高安などがあって、それぞれのシテ方流派と連携しました。
便宜的なところもありますが、通常五つに分けます。いわゆる「式能」では、この五種類に、一種特別の能として『翁』(おきな)を並べるのが仕来りになります。『翁』は正式の名前を『式三番』と言います(謡曲として扱うときには「神歌」=かみうた、じんか、とも呼ばれます)が、「とうとうたらりたらりら」(観世=この言葉は、流派によって少しずつ違うようです、この点は全体の演出においても当てはまります)という、呪文のような詞章で始まり、詞章の部分は謡本でも三ページほどと短く、また様式としても、通常の能楽とは非常に異なっています。時に「能にして能にあらず」とさえいわれます。
「三番」というのは、本来は神職二人によって演じられる「二番」に、アイ(狂言=「間狂言」<あいきょうげん>の略語)による舞を加えて「三番」なのです。後に神職による二番目は省略されるようになりましたが、千歳(ツレ)による舞は残りましたので、今でも「三番」と呼びます。
そもそも普通の能の場合、役者は楽屋である鏡の間(後の舞台の説明を参照)で面をかけるのですが、この能だけは、最初にツレもしくはアイが面を蔵した面箱を捧げて登場し、時が来ると、シテとアイは、舞台の上で面(シテは白式尉=はくしきじょう、アイは黒式尉=こくしきじょう=「尉」は男性の老人の面の意)をかけるのです。当然外す時も舞台の上です。ツレだけは直面(ひためん)で通します。
また、舞台では判りませんが、「出」の前の鏡の間では、神棚を造り、太刀を奉納し、出の演者には切り火を行い、女性には伝えないなど、いろいろな制限が設けられて来ました。また、囃子方も、鼓が三人、彼らや地謡の面々も、烏帽子を付けるのが通例です。なお、歌舞伎で有名な「三番叟」(さんばそう)は、このアイの舞だけを独立させて、さまざまに変化させたものです。
この能は、国土の安泰、五穀の豊穣を祈り、祝う、という神楽の意味合いを持つ「神事」ということになります。この神事を旨とする特別な能に「付随させて」、その「脇」として演じるという意味で、神事を扱う通常の能として「脇能」があります。例えば『竹生島』、『高砂』、『養老』などがそうです。『翁』は番外ですから、この脇能を「一番目」と呼ぶ習慣があります。
二番目は「修羅能」ともいわれ、男性が主役、修羅=合戦が主題です。勝ち戦となるものを「勝修羅」、そうでないものを「負修羅」と呼びますが、『田村』など「勝修羅」の数は少なく(「勝修羅三番」といって、他には『箙』(えびら)、と『八島』があります)、ほとんどが「負修羅」なのは、『平家物語』を題材にしたものが多いせいでしょう。とりわけ「負修羅三番」として『朝長』、『実盛』、『頼政』の三演目が重視されています。
三番目は「髷能」(かつらのう)とも呼ばれ、美しい女人が主役になります。『楊貴妃』などが典型でしょうか。四番目は「雑能」といわれ、少し尋常を離れた状態にある人物が扱われます。典型は『隅田川』でしょう。最後の五番目は、最後に置かれるので「切能」、また「鬼物」とも呼ばれて、人間以外の何物かが主役になります。例えば『土蜘蛛』あるいは『紅葉狩』などがこれに当たります。なお『紅葉狩』の主役は山に棲む鬼女です。
因みに豊臣秀吉は、能に耽溺したばかりでなく、自分の事績を能に仕立て、自ら演じたといいます。現在残っているのは五番ほどですが、「豊公能」といわれています。
原型は戦国時代まで遡れるようですが、もともと野外に建てられた舞台は、正面に向かって正方形をなし、下手に向かって橋掛かりがあり、楽屋としての鏡の間に繋がります。橋掛かりには等間隔に小松が三本飾られます。正面舞台の背後の壁には老松が描かれます。正方形の四隅に柱が立ちます。
手前上手が「脇柱」です。所作のないときのワキが、その前に座を占めるので、脇柱と呼びます。手前下手を「目付柱」(もしくは見付柱)、奥上手を「笛柱」、奥下手を「シテ柱」と呼びます。目付柱は、面をかけて視野が極端に狭くなった演者のための、文字通りの目安として大切なものです。囃子方は、笛柱の脇から順に、下手に向かって笛、小鼓、大鼓(「おほつづみ」でもちろんよいのですが、「おほかは」の通り名の方が一般的です)と並びます。この編成を「三つ拍子」と名付けます。ほかに太鼓がある「四つ拍子」の演目ですと、最も橋掛かりに近いところに太鼓が位置を占めます。
その後ろの老松の描かれた壁(鏡板)と囃子方の間に後見が座ります。後見は、しばしばシテを演ずる演者よりも経験の深い人物(複数)が務めます。脇柱と笛柱を結ぶ線の右手に地謡座があります。地頭(ぢがしら)を筆頭に六人から十人ほどが二列に並びます。アイの出番があるときは、概ね橋掛かりの付け根の部分に待機します。通常芝居の舞台には、大道具の転換などの便宜もあって、引幕が設けられていますが、能舞台には、これが欠けています。
舞台は、縦三列と横三列にほぼ九等分されて、各々の領域に名前が付けられています。例えば、正面中央の客席に近い部分を「正先」(しょうさき)、同じく中央奥を「大小前」(だいしょうまえ)と呼びます。
歌舞伎の舞台が整うのは江戸時代になってからですが、最初は能舞台を使った時期もあったにせよ、独自の発展を遂げます。第一に横幅がぐんと広くなり、橋掛りはやむを得ず舞台下手から直角に客席に向かって伸びるようになりました。また引幕や浅黄幕が置かれるようになり、大道具、小道具も、能に比べれば、はるかに豊かになりました。舞台ではありませんが、囃子方もすっかり違ってしまいました。能は、既に挙げたもの以外は全くありませんが(『翁』では、シテが鈴を手に持ち、一所作毎に振る、ということはあります)、歌舞伎では、竹本だけでも太夫も三絃もと数多いですし、御簾内(みすうち)では、大太鼓、鐘、拍子木、撞木など何でもありです。
多くの異型がありますが、典型的な構成に触れておきましょう。先ず囃子方、地方、後見などが所定の位置に付き、作り物(大道具というほど大げさなものはまずありませんが、船、あるいは塚などを象徴的に表現したごく単純な装置です)が必要なときには、作り物が置かれます。囃子方が、人物が登場することを予告するような調べ(「次第」などがそれに当たります)を奏でます。
ワキ(ツレやトモがいる場合もあります)が鏡の間から揚幕を通って橋掛かりへ、そして舞台下手辺りで、自分の身分を名乗ったり、これまでの道行を語ったりした上で、脇柱の前に腰を下ろします。やがて囃子が変わって「一セイ」などの調べとともに、シテ(やはりツレやトモを伴うこともあります)が同じように橋掛かりから現れます。橋掛かりの途中、あるいは舞台シテ柱の辺りで、やはり名乗りなどのあと、簡単な問答がワキとの間に交わされることもあります。
やがてシテは舞台「大小前」へ、ワキや地謡との「ロンギ」(言葉のやりとり)などもあり、またそこで自ら謡い、あるいは地方の謡に乗って舞を舞うのが、よくあるパターンでしょう。後シテを暗示するような言葉を残すこともあります。やがて、シテは橋掛かりを通って鏡の間に消えます。これが中入りです。
ここで前シテは衣装替えをする時間が必要になりますので、多くの場合、アイが登場して、これまでの経過をなぞって説明したり、後の場になるための準備的な話をしたりします。
ワキが待謡を謡います。囃子方も「出端」(では)あるいは早笛(はやふえ=急調子で、鬼神など異形の後シテの登場に先立ちます)など、雰囲気が変わります。後シテが登場します。多くは、亡霊の姿となります。ワキは「不思議やな」と、訝しさ、惧れなどを表現する言葉を述べます。シテは「今は何をか包むべき」と、前シテが仮の姿であったことを伝え、本性を明かし、憾み、心残り、を表現します。クライマックスに向かい、「働」(はたらき)と呼ばれる個所になります。そこでシテは(囃子方にも「働」と呼ばれる独特の動きがありますが)激しく自らの感情の由来と現状を表現する舞を舞います。ときには「カケリ」(通常は戦場での争いですが、現実の人物との葛藤を示す場合もあります)といわれる暴発的な所作になることもあります。やがて、曙光とともに、亡霊は力を失い、沈静が訪れ、静かに終局を迎えます。
極めて多くの能が、多少なりとも上に述べたような構成を持っていることに、何か意味があるのでしょうか。歌舞伎と比べるとはっきりするのですが、歌舞伎の初期はともかく、定着した後は、女性も女形が、つまり男性が演じる習慣ができました。能の場合も、ほとんどの場合、女性の役も男性が演じることには変わりがありません。子方は舞台では実際に子供が演じます。
しかし、舞台での姿には大きな違いがあります。歌舞伎の女形が、化粧もさることながら、女性以上に女性らしい仕草や、表情で観客に訴えようとするのに比して、能では、女性の役でも、女性らしさは極端に抑制されています。その意味では、写実から程遠いのが能ということになります。逆に歌舞伎は、誇張された、あるいはデフォルメされた写実とも考えられます。
つまり能は、現実の世界を舞台の上に再現しようとする、というのが「芝居」の原則であるとすれば、その意味では、芝居とはいえないことになりましょう。だからこそ、題材を「今」ではなく、歴史上の過去に好んで採らざるを得なくなります。そして、過去(非現実)を今演じるのですから、ここでもほとんど必然的に、人物は「亡霊」が主役になる他はないのです。実例を挙げれば、『源氏物語』からとられた『浮舟』をはじめ、『平家物語』からは『経政』や『敦盛』などが典型的にその形となっています。
謡は、もちろん能の一部であり、オペラのように歌と演技とが混然となるべきものではありますが、謡だけで独立して認められてもいます。囃子もなしに、もちろん所作も付けず、ただ謡いだけを演じることを「素謡」(すうたひ)と呼びます。また、シテ、ワキ、あるいは地謡の別なく、一曲を一人で通して謡うことを「独吟」といっています。謡本は、詞章の一つひとつを担当するのが誰であるか、ちょうど芝居の台本のように指定していますが(縦書きの詞章の右脇に「シテ」、「ワキ」、「地」などと記されています)、素謡でも、その通り分担して謡う方法もあり、独吟で通す方法もある、ということになります。
謡には、歌謡的な部分と台詞、つまり会話的な部分とがあり、謡本では後者には、いわゆる「ゴマ点」が付きませんし、節回しも、唯一つ定まった言い方があるのを除けば、全くないといえます。つまりゴマ点は、西洋音楽の歌の場合、音符に歌詞が付けられるのに似て、歌詞に付けられた音符の一種と解することができます。その場合、付けられるのはゴマ点ばかりではなく、様々な符牒が付随します。例えば「ウ」、「下」、「ユリ」などのほか、独特の符牒が多数存在します。
また「ツヨ」、あるいは「ヨワ」と示されている個所に出会います。これは歌謡的な方法に二種類あることを示しています。「剛吟」(ツヨ吟)と「柔吟」(ヨワ吟)の区別なのですが、言葉で説明するのは、なかなか厄介です。実例を示しましょう。有名な演目である『羽衣』の冒頭は、
風早の 三保の浦廻を漕ぐ船の 浦人騒ぐ波路かな
と始まりますが、これはツヨ吟です。これに対して『紅葉狩』の冒頭は、
時雨を急ぐ紅葉狩 時雨を急ぐ紅葉狩 深き山路を尋ねん
ですが、こちらはヨワ吟です。文字だけでは、区別は判りませんが、謡本で同じ符牒が付いていても、両者では謡い方が違ってきます。総じてヨワ吟の方がより歌謡的で、メロディックであり、ツヨ吟では、音域が狭まり、節付も非定型になると申し上げておきます。
さて、和歌が直接引用されることも多々ある、と書きましたが、そうだとすると、当然、謡の詞章の基本は、五・七、もしくは七・五であります。もちろん破格はいくらでもありますが。今ご紹介した『紅葉狩』の冒頭は明確な七・五ですが、『羽衣』の冒頭は、逆に五・七で纏められています。一方で、囃子によって制御されている謡のリズムは、基本が八拍子であります。
八拍子に、七・五にせよ、五・七にせよ、十二の音節を乗せるわけですから、当然工夫が必要になります。上述の例で言えば、『羽衣』の冒頭では、五・七・五までの十七音を、ゆっくりした八拍子に被せる、と表現すれば判っていただけるでしょうか。『紅葉狩』では、七・五、七・五の二十四音を、やはり八拍子に乗せる感じになります。もっとも、この拍子を二分して、全体で十六拍子と考えても良いかも知れません。
いずれにしても、囃子方の基本の拍子に対して、謡が綺麗に乗る場合と、外れる場合とがあるのは奇妙なことですが、謡本には「合拍子」とか「不合拍子」などという表記が出てくるのです。
面は、国宝になっているものもありますが、典型的なのは「小面」でしょう。若い女性一般に最も普通に使われるものです。また「増」(ぞう)と呼ばれるものもよく使われます。中年女性では「深井」(ふかゐ)あるいは「曲見」(しゃくみ)などが使われます。高齢の女性は、文字通りの「姥」(うば)などが、また鬼女としては「般若」(はんにゃ)が典型でしょう。女性の鬼神は、耳があり、角もあるという特徴があります。
一方、男性のものとしては、少年用には「慈童」(じどう)が、青年では「今若」(いまわか)などが、老人では「尉」(じょう)と呼ばれるものが幾つかあります。なお先に触れた「白式尉」と「黒式尉」は、『翁』だけに使われる特別のものです。男性の鬼神の典型は「獅子口」(ししぐち)で、耳がなく、角もないのが「般若」と比べて大きな違いです。
そのほか、「俊寛」とか「敦盛」のように、その役に向けられた面もあります。もちろん、「俊寛」を俊寛以外の役に活用することが禁じられているわけではありません。各流派が秘蔵の面もあり、その中で、相互に融通し合うこともあります。
面をかけてしまえば、人間の通常の顔の表情は、全く隠されてしまいます。「能面のような」という比喩が成り立つように、「無表情」になります。面をかけない(これまでの記述でも明らかなように、通常、面は「着ける」とはいわず「かける」あるいは「掛ける」といいます)とき、つまり「直面」(ひためん)のときでも、演者は、自分の素顔を面として扱うことが求められます。言い換えれば、眼で芝居をしたり、笑い顔などの、顔の表情を造ったりすることは不可とされているのです。しかし、面をかけたときに、僅かに「面伏せ」(おもぶせ)にすることで、悲しみを、かすかに仰向く(「晴らす」)ことで、悦びを、表現することになりますが、こうした技巧が、実に見事な結果を生み出すのでもあります。しかしこれも、能が写実から一歩距離を置くことの一つの表れといえるかもしれません。
能というと、幽玄で、時には退屈な、という印象が強いのですが、例えば『土蜘蛛』では、シテは白糸(特殊な紙を細切りにしたもの)を、鮮やかに投げ広げ、結構派手な立ち回りの様相を呈しますし、『紅葉狩』の終わりも、ワキが鬼女たち(「揃え」という鬼女が何人も登場する演出があります)激しい立ち回りの末に、首尾よく鬼神を退治して、見栄を切るような仕草で終わるのが普通です。歌舞伎の見栄のように一見グロテスクな派手さはありませんが。
こういうわけで、能といっても、決して退屈に見えるものばかりではありませんので、あまり関心を持たれなかった方も、是非、流派は問いませんから、一度能楽堂へ足を運んでみることをお勧めします。
※この文章は、日本アスペン研究所の機関紙『アスペン・フェロー』に載せた記事を改作したものです。
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