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正体不明な必需品としての「常識」 (1)改めて問う「現実」「常識」とは一体何なのか?

2020.12.12

Updated by Chikahiro Hanamura on December 12, 2020, 08:14 am JST

現実とは何を指すのか?

あり得ない空想をするのは幼い子供の特権だ。タキシードを着たクマが流暢に言葉を話し、スカートをはいた女の子が風を切りながら雲間を飛び回り、ビルより大きな裸の巨人がトラックを持ち上げる。そんな実際には起こるはずもない出来事をあれこれと想像することが子供には許されている。

だが5歳も過ぎれば、頭の中の空想と現実の区別が始まる(注1)。そして歳を重ねるに連れて、社会の常識を身につけていき、いつしか空想を手放してつまらない大人になっていく。成長が止まった頃には、すっかり空想と現実の間に太字のラインを引くことができる「立派な大人」ができ上がっている。

しかし、大人たちが言う「現実」とは一体何を指しているのだろうか。そもそも現実は、この世界のどこにあるのだろうか。現実と呼ばれているものの多くは、モニターが映す「今ここではないどこかの出来事」である。海の向こうで起こった暴動のニュース。地方で拡がった感染症の報道。大統領の愚かな発言。それらは単なる情報であり、報じられたものを見聞きしただけに過ぎない。自分で確かめることはほとんどない出来事だが、それらを「現実」として私たちは受け入れるしかない。

では、今ここで起こっている出来事を現実というべきなのだろうか。そうであれば、現実とは目の前で起こる半径数メートルのほんの狭い範囲にしかない。だが、体験した出来事でも現実が何を指すのかは難しい。たまたま街の目抜き通りの真ん中で二人が激しく口論しているのを目撃する。どちらも相手がぶつかってきたと主張しているようだが、二人の中で「現実」として見ていることはおそらくそれぞれ違っているだろう。それに口論の背景が分からず見ている自分と、ずっと前からそこに居合わせた人も違う現実を見ている。

もし、その口論する二人が、豪華な毛皮をまとった若い女性とよたよたと杖をつく老人なら。あるいは人形を手にした幼い少女と髑髏の刺青の入った男なら。もしくは白人の大男と華奢な黒人女性なら。私たちはその見方を変えるかもしれない。私たちが見る現実は、年齢や性別、容姿や雰囲気に左右されないとは限らない。私たちは、偏見や先入観、根拠のない憶測に満ちた頭の中の想像力を通じて出来事を解釈し、それぞれの現実を見ている。

ならば、誰もが確かな「客観的事実」だと思えることなら現実と呼べるだろうか。あり得ないことを想像するのが空想だとすると、感覚的にはあり得なさそうに思える「現実」は沢山ある。地球が太陽の周りを回転しているのは誰でも知っている科学的事実である。だが、それを実際に確かめたことのある人はどれだけいるだろうか。

地平線に沈んでいく夕陽を眺めるときに、自分を乗せた地球が後ろ向きに回転していることを実感するのは難しい。感覚的には太陽や月は空を横切って動いていて、地球が球体であることも、それが回転することも私たちの頭の中の想像力の結果である。だから、誰もが正直に自分に問いかけてみると、地球が回転しているというあり得なさそうな概念を単に「信じているだけ」に過ぎない。現実や常識と呼ぶものの多くは空想が占めている。現実と空想との境界線は思った以上に曖昧なのだ。

16世紀のヨーロッパでは、宇宙の中心は地球であり、天空の星々は地球を中心に回転していると、人々の間で当たり前に信じられていた。それを吹聴していたのは当時の最高の権威であったカトリック教会である。そんな中でコペルニクスは、司祭であるにも関わらず、動いているのは星々ではなく自分たちが立つ大地であるという「地動説」の研究(注2)に着手していた。もちろん多くの人にとっては現実離れした空想に過ぎず、当時の天文学をすぐに変革することはなかった。

その後に測定されたティコ・ブラーエによる天体の長期観測データ。ケプラーによる惑星の楕円軌道の発見。17世紀後半のニュートンによる万有引力の法則。そうしたいくつかの検証が積み重なり、ようやく人々は動いているのは星々ではなく地球であることを現実として受け入れた。「天動説」から「地動説」へとモノの見方が交代するのには、実に百年以上の時間がかかっている。当初は空想に過ぎなかったものが、今や確固たる現実である。空想は多くの人に共有されると「現実」になる。

私たちは、一度現実として受け入れたことを疑いたくない。特にそれがずっと信じられてきたことや、大勢の人々が同じように信じるものなら、なおさら疑いを立てるのに勇気が必要だ。地球は平らであり、太陽や星々が地球の周りを回転している地球平面説(注3)は 、多くの人が否定する「空想」である。いくら大地が動く実感が持てなくても、今ではすっかり球形の地球が回転するイメージは「現実」であり、「現実」は「常識」になっている。だが、その現実感は単に視点の場を地上に置くのか、地球の外に設定するのかというモノの見方の違いに過ぎないかもしれず、どちらも空想の可能性がある。

常識とは一体何なのか?

私たちは、「常識」(注4)を基に日々様々なことを判断している。常識に基づいて社会の秩序はできていて、適切な常識を備えていなければ、私たちがこの社会の中で生きていくのが難しい。「常識がない人」や「常識に欠けた振る舞い」をすることは、社会人として恥ずかしいことであり、してはならないこととして嫌われる。そして、常識を無視することは「非常識」であり、常識に外れたことをしたり、言葉に出したりすると社会から排除されてしまう。だから私たちは、この社会で生きていく上で何が常識で、何が非常識かを知っていないといけないし、その上で適切な常識に従って行動しなければならないとされる。

では、その常識とは一体どういったものなのだろうか。「常識とは何か?」と改めて考えることは、生活の中でそれほど多くはない。常識を「その社会で多くの人々が当たり前だと思っていること」とした場合に、その中身を説明することはとても難しい。なぜなら、その常識の範囲は広すぎるからである。そして常識と呼ばれるものが、状況に応じて変化するということもある。

もちろん、どの社会なのかによって常識とされることは異なる。場合によっては同じ社会に生きていても、人によって常識は異なる。それが常識というものを非常に曖昧で分かりにくくしている原因の一つである。しかし、そういった理由にも増して常識が何かを知るのが難しいのは、それを「当たり前」だと思っているからだ。当たり前に改めて疑いを立てるのは難しい。

もし、私たちにとって常識というものが、身につけていなければ生きていけないような重要なものだとすれば、それを身につけているかどうかの前に、その内容の方が問題になるはずだ。だが、私たちは常識が大切だといいながら、それが一体何なのかについてはちゃんと分かっていない。中身は正体不明だが、常識というラベルが貼られた容器を必需品として持ち歩くのはおかしな話である。だから今こそ、常識という箱を開けて中身を確かめなければならない。改めて、常識とは一体何を指すのだろうか。それはいくつかの角度から考えられる。

まず第一に、多くの人が当たり前だと思っている「知識」のことである。例えば、鳥は空を飛ぶといった日常的な知識から、日本の首都は東京であるといった社会的な知識、地球は丸いといった科学的な知識まで様々なものがある。

もう一つは、知識とも関係しているが、私たちが共通して持つ理解や「認識」の筋道のことである。例えば、壁のスイッチを押すと電灯が点くといった仕組みや、手に持ったボールを放すと下に落ちるといった原因と結果の関係、銀行に預けたお金は引き出すことができるといった手順についての理解である。

あるいは、多くの人が行う「行為」だったりもする。バングラデシュではカレーを手で食べるのは当たり前だが、日本のカレー屋さんで同じようにすると非常識として白い目で見られるかもしれない。その社会での大多数の人の行動と同じことをすることを常識として捉えることができる。

私たちが共通して大切にしている「価値観」が常識の中に含まれることもある。例えば、お金には価値がある、愛は大切なものだといった考え方から、図書館で大声を出してはいけないといった具体的なマナー、人を悲しまること傷つけることはしてはならないという道徳まで、その社会で多くの人が当たり前に大切にすべきだと共有することになっている価値である。

さらに、私たちの多くが共通して持つ「感覚」も含まれるだろう。例えば、殴られれば痛いとか、食べないと空腹を感じるとか、時間は過去から未来へと流れる、といった個人の中の感覚。それは経験的に自分の中だけで感じられることであっても、多くの人が同じように感じているのであれば、常識に含めて良いかもしれない。

このように常識には様々なものがあり、やはり一概にこれが常識と指し示すのは難しい。もちろん、自分が身を置く社会が変わると、常識として共有されているものが変わる。日本人にとっての常識は、アフリカ人にとっての常識とは随分異なるだろう。いや、同じ日本人同士であっても、場所によって常識は異なるだろうし、同じ地域であっても職業や年齢や性別などによって常識は異なるだろう。同じ社会の中でも、その時々の状況によって常識の中身は変化する。

その社会の多くの人が当たり前だと思うことが常識だとしても、その社会がどこを指していて、多くの人とは誰を指すのかによって、常識の内容は変わる。これまで常識として挙げてきた共通して持つ知識や認識、価値観や感覚。それは共通している部分もある一方で、個人によってかなりの幅があるものである。しかも、それらは「変わらないこと」と「徐々に変化していくこと」、そして「急速に変化していくこと」など様々である。

実際、自分が思う常識と、多くの人々にとっての常識をはっきりと区別することは難しい。自分の常識は社会の常識から影響を受け、自分と社会との接点に常識は生まれるからである。このような曖昧模糊とした常識というものを、こうであると指し示すことは本来難しいことである。

だから、「常識とは一体何であるのか?」という問いかけそのものを変えてみる。「常識とは一体何であるのか?」ではなく「常識はどのように生まれるのか?」 、そして「常識はどこにあるのか?」という問いかけとする。こうすると常識の中身ではなく、常識が生まれるプロセスや場所に焦点を当てることができる。常識とは、ずっと変わらない確固たるものなのか。それとも変化していくものなのか。常識とは社会にあるのか、人の中にあるのか。そして誰の中にあるのか。私の常識は、他の人の常識とどのように関係しているのか。そんなことを問題にすることができるようになるのだ。

注1)
Taylor, B. J., & Howell, R. J. (1973). The ability of three-, four-, and five-year-old children to distinguish fantasy from reality. Journal of Genetic Psychology, 122, 315-318

注2)
コペルニクスは1529年ころから地動説の論考をまとめ始め、亡くなる少し前の1542年に主著「天球の回転について」を出版した(ウィキペディアへ)。

注3)
ウィキペディアに掲載されている「地球平面説」の2018年の調査の結果が興味深い(ウィキペディアへ)。

地球平面説は2015年頃からSNSや動画共有サービスを通じて一般の人々の関心を集めており、 2018年にアメリカで8215人のアメリカ人を対象に「地球の形をどう考えているか」という調査を行った結果、55歳以上では94%が「地球は丸いと信じている」と回答したが、18-24歳のミレニアル世代は34%が地球が丸いことに疑問を抱いており、4%が「地球は平らだ」と答えていた。

注4)
「一般に学問的知識とは異なり、普通人が社会生活を営むためにもち、またもつべき意見、行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く、時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり、多分に相対的なものである。」(ブリタニカ国際大百科小辞典)。英語では「common sense」に当たるらしいが、日本における common sense の訳語は、1890年に福沢諭吉の『国会の前途』で「人生の常情」という言葉が使われたのが最初。他に「常見」という言葉もあったようだが、「常識」という言葉で主として使われるようになったのは、明治24-25年頃とのことである(百科事典マイペディア)。

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。