その日は長崎の民宿で目が覚めた。
さまざまな会社がテレワークに移行してからもう二年近くになる。
長崎の友人も例外に漏れず、テレワーク移行に伴って実家に戻ってきて、そのまま二年近くが経過していたという。
確かに彼女と会うのは二年ぶりだ。
その時は、佐賀で牡蠣とワタリガニとキャーメンチョを食べた。
キャーメンチョとは、耳慣れない言葉だったが、サメのような動物だった。魚類だと思うが、詳しくはわからない。
地元で「キャーメンチョ」と呼ばれていて、それがとても魚の名前のようには思えなかったが、酢味噌で食べると絶品だった。
それからもうあっという間に時間が経ち、彼女はまだ長崎にいる。
東京のマンションは引き払っていないという。
その日は友人みんなで民宿に泊まり、地酒と地元の魚料理に舌鼓を打った後、泥のように寝て、八時前に目が覚めた。
朝食をとってから、民宿の裏手の土手に登ると、すぐに海だった。
海面が風に揺られて静かにさざめいているのをしばらく無心に眺めていると、なんとも贅沢な気分になった。
こういう景色は、都会では滅多に見られない。
今自分に必要だったのは、まさしくこういう、何もない場所での休息の時間だったのではないかとさえ思えてきた。
マクルーハンに端を発するメディア論を本格的に研究し始めてからもうすぐ三年が経つ。
マクルーハンは晩年、世界の中心たるアメリカをアメリカの「外」から観察するために、カナダのトロントに住んでいたという。
メディア論的に言えば、都会はホットであり、ホットとは「押し付けがましく、活動的である」ことを言う。
反対に田舎はクールであり、クールとは、「控えめであり、故に興味をそそる」ものである。
それで気になって調べてみたのだが、たとえば印象派の巨匠として知られるクロード・モネは、パリ郊外に自宅とアトリエを構えていた。
観光地化されており、それで実際に筆者も訪れたことがあるが、パリ郊外の閑静な場所で、モネが繰り返しモチーフにした睡蓮の池がある。個人宅としては非常に広い池で、これならさまざまな角度からさまざまな表情の睡蓮を描くインスピレーションが確かに得られるだろうという説得力があった。
反対に写実派の代表格の一人、フランソワ・ミレーは、人口4万人弱の港町シェルブールで修行し、パリに出るが、また実家のノルマンディー地方に戻ったり、またパリに来たり、地方に疎開したりを繰り返している。ミレーの代表作「落穂拾い」を始め、農民画と呼ばれる作品群は都会では描けないものだ。ミレーはその作風から、しばしば政治的な論争を巻き起こした。
抽象絵画の元祖とされるワシリー・カンディンスキーはモスクワに住んでいた。キュビズムに傾倒し出した頃のパブロ・ピカソも、大都会パリのモンマルトルに居を構えていた。この時代の代表作の一つ「アビニヨンの娘たち」のモチーフとなったのは南フランスのアビニョンではなく、バルセロナのアビニヨ通り(carrer d'Avinyó)と言われる。
猥雑(ホット)な大都会で、猥雑(ホット)な裏通りを描くのに、あえて簡素(クール)なキュビズムという手法を選択したことは、今から振り返ればメディア論的には必然であったとも言える。
筆者も長年都内に在住し、ここ最近は基本的に家から一歩も出ることなく仕事が完結するようになってきた。
いいか悪いかはともかく、そういう時代になったのである。
都会の喧騒の中にいると、猥雑なさまざまな事柄が基本的にどうでも良くなってくる。
おそらく人間は一定以上複雑な情報を処理できるようにできていない。
都会は猥雑な情報に溢れていて、とても処理できない。
都会では、猥雑な情報から目を逸らす方が難しい。
対して、田舎では、むしろシンプルでともすれば見過ごしがちになるさまざまな微妙な情報、海のさざなみや空の青さや足元の草木の逞しさなどに自然と目がいく。
どこにいようと、人間というのは変わらないもので、シンプルなものを見れば相対的に多くの情報を見出そうとし、複雑なものを見れば相対的にシンプルな情報だけを受け取ろうとする。
その傾斜が過剰に作用すると、シンプルなキュビズムやシュルレアリズムに向かったりすると考えられる。
思えば、バーチャルリアリティが題材とするのは、専らシンプルな世界ばかりだ。それはマシンのスペックの限界もあると思うが、それ以上にそれを使う人々が都会にいるからではないかと思う。
日本が世界のなかでもバーチャルリアリティに熱心な国の一つであるのは、決して日本の都市一極集中と無関係ではないのかもしれない。
実際、たとえばバーチャルリアリティ用動画として、「攻殻機動隊」のような大都会を題材としたものもあるにはあるが、圧倒的に多いのは、大自然を題材にしたVR動画である。
グランドキャニオンやモニュメントバレー、どこかのビーチ、砂漠、といった場所のVR動画が圧倒的に多い。
反対に渋谷やニューヨーク、パリを題材にしたVR動画もあるにはあるが、今のところまだ主流とは言い切れない。
しばらく海を眺めながら、まるでVR動画のようだと思っていると、見慣れないものが見えてきた。
不思議な白い煙がもくもくと上がっている。
あまりにも不思議だったので、居合わせた民宿の大将に「あれはなんです?」と聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「あれは産業廃棄物の工場の煙ですよ」
なるほど、こういうものはVR動画の題材には絶対にならない。
VR動画は綺麗なところしか写さない。
東京では、同じような煙を見ても、全く気にもならなかっただろう。
そのくらいの産業廃棄物はあって当たり前だからだ。
しかしもくもくと煙を上げ続けるさまを見ていると、ずっと東京にいる時には思いもしなかった現実をむしろ突きつけられた気がしてくるのだ。
この自然の美しさを守りたいというのもエゴならば、産業廃棄物を処理しなければならないというのも、自分のなんらかのエゴの成れの果てなのだ。それが現実である。
自然とは言っても、その自然を観るために、飛行機に乗り、化石燃料を消費し、ハイブリッド車で電気もガスも水道もある場所までやってきたのだ。
都会で生まれた絵画が享楽的であり、田舎で生まれた絵画が社会風刺的であるという話がどうも腹落ちしたような気がした。
だからと言って、VRの動画に、やっぱり敢えて産業廃棄物の煙を入れる人はまだいないだろう。
最近、映像機材が非常に安価に手軽に手に入るようになって、誰でも手軽に映画のように綺麗な映像が撮れるようになった。
この技術の進歩そのものは歓迎すべきことだが、ただ綺麗な映像を撮ってはしゃぐだけでいいのだろうか。
シネマティックが映画そのものではないのと同じように、VRは現実ではなくあくまでも「本質的(virtual)な現実感(reality)」でしかないのだ。
もしもVR作品で産業廃棄物を燃やす煙を入れるとしたら、そこにはなんらかのメッセージ性が、どうしても入ってしまう。
かといって、それをCG処理で消していいとも、消すべきとも思えない。
多分普通に考えたら、「あの煙がなくなってから撮りましょう」とか「産廃工場が休みの日に撮りましょう」という話になるのではないかと思う。「ここは没にしましょう」というのもあるかもしれない。
田舎を題材とした作品で伝えたいのは、「田舎なりの良さ/美しさ」という現実感(reality)であって、「誰かがやらねばならない産業廃棄物の処理」という現実(real)ではない。
そうした作品の作り方を否定するつもりはない。
でも、観たくないものを観なかったことにする、それだけで本当にいいのだろうか。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。