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なぜアメリカはインドにサイクロトロンを譲渡したのか? 地政学と認識論から科学を考える

2023.05.12

Updated by Masahiko Hara on May 12, 2023, 13:25 pm JST

1936年、アメリカのロチェスター大学にサイクロトロンが建設されたのは、同じくアメリカのカリフォルニア大学バークレー校で、現在のローレンス・バークレー国立研究所の礎となった世界初のサイクロトロンが稼働してから数年後のことだった。その研究所の名前であるアーネスト・ローレンス博士は、サイクロトロンの考案で1939年にノーベル物理学賞を受賞した。

その後、1967年にロチェスター大学のサイクロトロン設備は、インドのチャンディガルにあるパンジャブ大学に譲渡された。地図を見ると分かるが、チャンディガルはインドの北部で、中国とパキスタンに挟まれた場所に位置する。そのサイクロトロン移設と共に、一地方大学であったパンジャブ大学は、一躍、インド国内の原子核物理学の研究と教育の拠点となった。

この50年以上経過したパンジャブ大学の古いサイクロトロンの維持にかかわる研究者のドキュメンタリがある(Cyclotron (2020) Jahnavi Phalkey)。現在は公開されていないが、そのビデオには、物理学の最先端の研究と同時に、この古いサイクロトロンの存在そのものにどのような意味があるのかを問うかのような、ある意味、ドキュメンタリ映画の「コヤニスカッツィ」(Koyaanisqatsi (1982) Godfrey Reggio)を思い出させる、科学と人間と社会の関係を説明するかのような黙示的な表現があった。

アメリカ以外で世界で初めてサイクロトロンを建造したのは、理研の仁科芳雄博士で、それは1937年のことであった。そこから原子核物理学を基礎として、世界に先駆けて核化学や放射線生物学へと最先端の科学が展開されていった。仁科博士は、1945年8月8日に新型爆弾が落とされた広島を訪れ、戦争をやめるよう呼びかけた。同年11月、アメリカは、日本の原子核物理学の研究をストップすべく、理研、京大、阪大の日本国内のサイクロトロンを解体し、東京湾に捨てた。

仁科博士は、理研から留学を進められ、1921年から1928年まで、ドイツ、イギリス、デンマーク、そして最後にはアメリカで、当時の量子力学、原子核物理学の黎明期を経験して帰国し、サイクロトロンの設計を始めた。その間、仁科博士が京都大学で行った量子力学の講義には、後の日本の基礎科学を先導する湯川秀樹博士や朝永振一郎博士が聴講していた。そして、理研のサイクロトロンの歴史は、アメリカによる解体廃棄を経験し、80年の歳月を経て、113番の元素である「ニホニウム」の発見につながる。

1938年、ドイツの科学者が、ウランの原子核に中性子を衝突させ「核分裂」反応を引き起こすことを発見した。「核分裂」を起こすウラン235を生成濃縮する基礎反応をとらえたのである。当時、ドイツは、アメリカと同じく、またはそれ以上に、原子核物理学が進んでいたと言えるだろう。

当時の最先端の基礎科学は、第二次世界大戦を機に、ウラン濃縮をキーワードの一つとして、使う人間の意思で、社会に貢献するか、社会を破壊するかの分岐点に立たされたと言って良いだろう。

そして戦後、ドイツもまた日本と同様に、アメリカから原子核物理学のあり方を問われたことは言うまでもない。現在、私がいるアーヘンから北東に20キロほど行った人里離れたところにユーリッヒ研究所がある。しかし、かつて何が研究されていたのかは、憶測の域を脱しない。

そんなドイツが、現在の世界の最先端を行く工科大学の一つであるインド工科大学(IIT)の設立に大きく貢献していたことは、あまり知られていない。戦後、1947年に英国から独立したインドは、1950年代に入り、インド工科大学の設立に尽力する。その時、1956年頃からドイツが後方支援に入り、IITマドラス校が設立される。

またその後、冷戦の中、東西ドイツからインドへの技術と教育の支援は、科学技術の共有という一言では済まされない背景があり、それが、新しい人材育成と社会情勢への影響につながることは、当時はあまり注目されなかった。しかし現在では、インドから世界のトップ企業のCEO/CTOを多数輩出するに至っている。

当時、ドイツの支援などをアメリカがどのように見ていたかは定かではないが、サイクロトロンという一つの科学技術の象徴を、1960年代にインドのパンジャブ大学に譲渡したということには、どういう意味があるのだろうか。

科学技術の進展を、戦後の地政学と認識論から研究する人達がいる。現在の核保有国は、核拡散防止条約(NPT)の下では、アメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシアの5カ国(いずれも国際連合安全保障理事会の常任理事国)で、NPT以外では、インド・パキスタン・北朝鮮、となっている。

研究者をやっていると、科学技術の発展は、研究者の現場で起きていると信じている。ところが、例えばナノテクでは、2000年に当時のアメリカ大統領であったビル・クリントンにカルフォルニア工科大学で「ナノテク・イニシアティブ」を言わせた人がいる。2003年には、ジョージ・ブッシュ大統領に「ナノテクノロジー法」にサインをさせた人がいる。

戦後およびポストコロニアル時代を経て、科学技術の国際交流には新しいダイナミクスが生まれた。そしてそこには、地政学と認識論をベースにした議論から、科学技術に対する新しい役割と新しい視点が生まれ、新しい社会的価値と科学技術社会論へと展開している。

アメリカが、そしてドイツが、発展途上国と言われていたインドに対して、知識や技術を譲渡することが、どのような意味を持っていたのか、科学技術から新しい意味を見出し、新しい国際情勢を作り、最先端の研究へとつなげるストーリーをどう考えていたのか。地政学と認識論の研究者達は議論を重ね、そしてこれからの最先端科学の方向性と国際社会のバランスを模索している。

要は、現場ではなく、会議室で起きている科学技術の方策とは、どういうものなのか、どう考えたら良いものなのか、ということなのだ。日本の「総合科学技術・イノベーション会議」に頑張ってもらいたいところは、ここにもある。

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原 正彦(はら・まさひこ)

ドイツ・アーヘン工科大学 シニア・フェロー。1980年東京工業大学・有機材料工学科卒業、83年修士修了、88年工学博士。81年から82年まで英国・マンチェスター大学・物理学科に留学。85年4月から理化学研究所の高分子化学研究室研究員。分子素子、エキゾチックナノ材料、局所時空間機能、創発機能、揺律機能などの研究チームを主管、さらに理研-HYU連携研究センター長(韓国ソウル)、連携研究部門長を歴任。2003年4月から東京工業大学教授。現在はアーヘン工科大学シニア・フェロー、東京工業大学特別研究員、熊本大学大学院先導機構客員教授、ロンドン芸術大学客員研究員を務める。