August 27, 2026
清水 亮 ryo_shimizu
新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

AIの進歩が止まらない。いろいろな識者が「ちょっと止めよう」「休もう」と呼びかけてもそれは虚しく虚空に響くだけで、特に最近は中国のAIが怒涛の勢いで進歩している。
欧米のAIは新しいものが発表されてもすぐさま蒸留され、オープンウェイトのモデルとして配布されてしまう。この狂騒はもうちょっとやそっとでは終わらなそうだ。
Appleは最新のM5 Ultraを発表し、512GBメモリを活かしたLLMが怒涛のように出るだろうし、中国勢はQwen3.8 27Bという、コンシューマレベルのPCでもかろうじて動いてしまう上にクラウドモデル並に賢いモデルをリリースする。動画生成もMiniMaxH3で、想像しうるものはほぼ全て作れてしまいそうだ。
このような時代になにが大切かというと、まず第一に冷静さを取り戻すことだ。楽観するのでも悲観するのでもなく、斜に構えるのでもない。ただ冷静に、今起きている現象としてのAIを見つめるのである。
これから先、AIによってどう生活が変わるのか。
一つ確かなことがある。
単体のAIとしての性能はほぼ行き着くところまで行っている。普通の人にはGPT-5.2 Solと、Claude Fable-5の違いはわからない。彼らが何らかのベンチマークで何かを上回ったとか下回ったとか言っていたとしても、それは「ベンチマーク」の点数の話であって、その人自体の創造性が高いことと何の関係もない。
20年ほど前、筆者は東京大学の大学院の試験を受けるように言われた。
といっても、大学院に入学するのではない。大学院で実施される新たな教育プログラムの履修生となるよう勧められたのだった。
その時、筆者は28歳で、今更大学院に行ってどうするのかと半ばどうでもいいという気持ちもあった一方、東京大学大学院情報学環で実施されていたその内容には興味を惹かれた。
「コンテンツ創造科学産学連携教育プログラム」と銘打たれたそのプログラムは、スターウォーズの特殊効果を担当したリチャード・エドラントや角川歴彦が教壇に立ち、コンテンツの作り方を教えるという野心的なものだった。
この時、なぜ東大がコンテンツに目覚めたのかと言えば、当時、2004年とか2005年とかという時代が、コンテンツが日本の唯一の勝ち筋であるとぼんやりと認識され始めた頃だったからだ。
そのとき誰かが言っていた「なぜ東大から優秀なコンテツンクリエイターが生まれないのか」
答えは簡単だ。「優秀なコンテンツクリエイターは優秀な受験生ではないから」だ。
このとき、筆者は今となっては当たり前のことに気付かされた。
「受験では面白いコンテンツを作る能力は測れない」ということに。
LLMの「ベンチマーク」は、まさしく受験勉強に近い。出題範囲があり、同じような問題を解いてそのLLMの知能の程度を計る。ところがベンチマークに最適化すると、ベンチマークそのものが間違っていたりして、本当に賢いとは言えなくなってしまう。
結局、ひとつひとつのLLMの能力を客観的に測るには、自分で測るしかない。それは人間を雇う時に学歴だけで判断するのではなく面接してから判断するのと同じだ。
自分がやってもらいたいことを、自分の求めるクオリティでやってくれるか。そこしか判断軸はない。それは人間でもAIでもかわらない。
人間が一人ではほとんど何もできないのと同じように、AIも一体よりは多数のAIが協調した方が仕事の質は上がる。
一方で、AIは過去の情報からしか学習できないという問題を度々指摘される。しかしそれは人間もあまりかわらない。違うのは、日々の人生を生きるということだ。
しかしAIには日々の人生を送ることはできないだろうか?
もはやそうとも言えないのではないかと筆者は考える。
まず第一に、最近のAIはコンテキスト長が長くなっている。ローカルでも動作するQwen3.8 27Bは256Kコンテキスト長を扱える。コンテキスト長とは、言ってみればAIの記憶能力みたいなもので、26万トークンを扱えることになる。トークンとは言葉の区切りのことで、表意文字が多用される日本語の場合はほぼ一文字が1トークンとして使われることもある。
25万字というのは新書約3冊分に相当する。
新書三冊分の情報を踏まえて日々を振り返り、明日何が起きるか考えることは今のAIにも充分可能になってきている。一部のモデルは100万トークンを捌くものもある。プログラミングが急激に得意になってきたのは、コンテキスト長が伸びてきたからだ。しかしコンテキスト長がどんどん伸びてきたとしても、そもそもそれほど長大なコンテキスト自体がプログラミング以外では発生しにくい。
かなり複雑な契約書でも新書三冊分の分量はないだろうし、何か役に立つことをしてもらうといっても十分な能力がすでにAIにはある。
そうなると、AIの能力をさらに高めるための方法は、必然的にチーム作業へ行く。現在でもエージェントスワームと呼ばれる、複数のエージェントに役割分担させながら協調作業をさせるという手法が使われ始めている。
ただし今現在のエージェントスワームは、まだ原始的な作業分担に過ぎない。
複数のエージェントが違いに影響を及ぼしながら未来に向かっていく研究は、マルチエージェントと呼ばれる古典的な研究分野だ。
マルチエージェントの応用範囲は幅広い。ゲームや群衆シミュレーションといった分野によく使われる。

マルチエージェントの一種であるBoidsは、チームラボが多用するモチーフの一つだ。鳥の群れを単純な計算の積み重ねであたかも全体として意思を持っているかのように振る舞う。
複数のエージェントがたがいに影響を及ぼしながら未来へ向かうが、その未来は計算するまで答えがわからない。こういうものを「複雑系」と呼ぶ。
今のAIの内部で行われている計算は、基本的に決定論的なものだ。サンプリングの過程で敢えて乱数を入れるが、乱数ですら主に疑似乱数が使われるので、同一の種(シード)から決定論的に答えが導かれてしまう。
複雑系の計算は、実際に複雑である。
計算するまで未来がわからないので、ごく一部でしか使われてこなかった。
科学の世界では「それが何の役に立つのか」という疑問は御法度だが、それにしても、マルチエージェントは本当に「それが何の役に立つのか」わかりにくいものだった。
ところが今、我々は奇しくも「エージェント」または「エージェンティックAI」と呼ばれるものを複数使い始めている。つまり、世界の方がAIをもって「マルチエージェント」が当たり前の時代に突入しているのだ。
マルチエージェント化された世界では、AI同士が議論を戦わせる必要がある。
その議論の過程は追跡可能で、ひとつひとつ検証できる。おそらく人間が行う会議よりもAI同士の会議のほうがよほど有意義だろう。
NECが全員AIだけの部署を作ったというニュースがあったが、それはこういうことを意味している。
複雑系は昔からあるコンピュータ科学の一分野の呼び名で、エンターテインメントや、ゲーム、アートの世界ではよく使われるが、実用的に使われたことはあまりない。
しかしひょっとすると、AIが進歩したことでこれまでほぼ顧みられてこなかった複雑系に光が当たり始めるのではないかという予感を筆者は感じている。
なぜなら複雑系は、AIが原理的に持つことができない、「創発性」を持っているからだ。
たとえば日々のニュースをAIに取り込むのも一種の複雑性の導入になり得るが、AIエージェント同士が一定のルール下で違いに影響を及ぼし会う場合、十分複雑系を構成する要素になり得る。
そこで実験として筆者は「恋愛リアリティショー」シミュレータを作ってみることにした。

このシステムでは、それぞれの参加者が自動的に生成され、それぞれ独立した「記憶」を持つ。両親の設定から、過去の恋愛のトラウマ、深層心理などを自動的に設定され、それぞれが異なる記憶(コンテキスト)を持つキャラクターとして共同生活を始める。
番組の司会進行をする人格も独立した人格として設計され、彼らがどのようにして交流し、恋愛に発展するのか、それともしないのかといったことを計算によって導く。
彼らの人格は全てQwen3.8 27Bで計算され、彼らは自分の信念に沿って行動する。
この計算は始めたばかりで最終的に何が起きるかはまだわからないが、少なくとも確実にChatGPTのような単体のAIに「恋愛リアリティショーの筋書き書いて」と頼んで出てくるものより精緻でリアルなものになるはずだ。
ゲームの分野では複雑系を採用したものは数多い。
都市経営シミュレーションのSIMCITYは公害や電力、水源の処理にセル・オートマトンを使っているし、人間関係シミュレーションのSIMSも、内部的にはマルチエージェントシステムとして動作している。任天堂の「トモダチコレクション」もマルチエージェントを使ったゲームの好例だ。
これらが作られた時代は、計算能力も低く、エージェント一つ一つの計算はそこまで深いものではなかった。計算が複雑すぎると遊びでかかわる時間内に処理が終わらなくなってしまうからだ。
しかしこれから先、コンピュータはLLMを動作させることが当たり前になり、一つではなく複数のLLMを同時に動作させるように進歩していく。
そうなれば、複雑系を導入することはもはや逃れられない。問題は、どのような系が最も有効かということだ。