住み慣れたまちが失われるとき、私たちはどうするべきか―旧東ドイツの衰退都市で行なわれた、まちの「お葬式」
2018.05.10
Updated by Yu Ohtani on May 10, 2018, 12:33 pm JST
2018.05.10
Updated by Yu Ohtani on May 10, 2018, 12:33 pm JST
2014年、日本創成会議の人口減少問題検討分科会が、「若年女性層の流出により、2040年までに日本の896市町村が消滅する」という通称「増田レポート」を発表したことが話題になりました。その後各市町村は、あの手この手で消滅を回避するため、躍起になっているように見えます。
しかし、少子高齢化という状況が変わらない以上、どう頑張っても消滅する市町村は存在します。国土交通省によって発表された調査結果によると、2016年現在、65歳以上の人口が50%を超える限界集落が15568存在します。2006年は7878だったことから、10年間でほぼ倍増しています。
また、「まちが消滅する」要因は少子高齢化だけではありません。基幹産業の衰退、ダムや道路の開発、津波や噴火、原子力発電所の事故など、社会、経済、災害などあらゆる要因によって、じわじわと、あるいは一瞬で、まちは消滅します。
人生のエンディングを受け入れ、そのための準備をすることを「終活」といいます。これと同じように、「いかに消滅せずに生き延びるか」ということを考えるだけではなく、「いかに消滅を受け入れるのか」という、まちの「終活」を考えることも、これから重要になってくるのではないでしょうか。
今回は旧東ドイツの元産炭都市で行なわれた、まちの「終活」について見ていくことで、「消滅するまち」に対してどんなことができるか考えていきます。
ラオジッツ(Lausitz)という地方名を知っている人は少ないでしょう。ドイツの東部、ブランデンブルグ州南部からザクセン州東部にかけて広がる地域で、一部ポーランドを含む旧東ドイツに属していた地域です。深い森と小さな村が点在していた地域でしたが、近代化によって、様相は一変しました。
古くからラオジッツ地方には「燃える石(褐炭)」が埋まっていることで有名でしたが、この燃える石が近代化を急ぐドイツにとって重要なエネルギー源であると認識され、19 世紀末以降、褐炭の露天掘りと発電所などの周辺施設が開発されていきました。
▼ラオジッツ地方の位置
人口は急増し、労働者のための住宅や公共施設、娯楽施設が次々と建設され、ラオジッツ地方はドイツ東部の重要な重工業地帯へと成長しました。第二次世界大戦が終わり東ドイツに組み込まれると、東ドイツの経済成長を支えるため、炭鉱開発はピークを迎えます。
しかし1990 年に東西ドイツが統一すると、基幹産業だった褐炭産業は西側との競争に敗れ一気に衰退し、ラオジッツ地方は瞬く間にドイツで最も衰退の激しい地域となりました。
ラオジッツ地方の多くのまちで、労働者は失業者となり、公共施設は次々と閉鎖され、若者は教育や仕事を求めて故郷を離れ、少子高齢化が進み、現在でも人口の減少に歯止めがかかっていません。空き家の目立つ街を通り過ぎると、褐炭の露天掘りが途中で放棄され、荒涼とした砂漠地帯が延々と続く風景が現れます。これが現在のラオジッツ地方の風景です。
このラオジッツ地方を環境・経済・社会という複数の側面から再生するため、ブランデンブルグ州は2000年から2010年の間、国際建設展覧会(IBA)を行いました。
▼露天掘り跡地
2003 年、スイス人舞台監督のユルグ・モンタルタ氏は、ラオジッツ地方にあるグロースレーシェンという、小さな元炭鉱都市を訪れました。グロースレーシェンには途中で採掘が放棄された広大な露天掘り跡地が残されており、IBAはその露天掘りを見学するウォーキングツアーを企画していました。ツアーに参加したモンタルタ氏は、ベルリンからやってきた好奇心旺盛な若者、元炭鉱夫、地元の人々など様々な人々と出会います。
元炭鉱夫がガイド役をつとめ、「このあたりで、毎日何万トンもの石炭を掘り出していたんだ!」と自慢気に語りながらツアーを進めていったといいます。
そのとき突然、ある女性がはたと立ち止まり、「このあたりに私の学校があったはずよ」と語りだしたそうです。まちでの生活が、採掘による強制移住で一変してしまった、と話す彼女の目には、涙が溜まっていました。
モンタルタ氏は、そこでグロースレーシェンの歴史の一面を知るとともに、露天掘り跡地には「労働者の誇り」と「今はなき故郷」という、相反する視点が存在し、人々の想いが激しく交錯する空間であることを実感します。
このことに心打たれたモンタルタ氏は、IBAとグロースレーシェンの住人に対し「露天掘りのために失われてしまったまちの住人を、改めて谷底に集めてそれぞれの歴史を語ってもらう」という企画を提案し、2003 年10 月に実現させました。
「全てを失った—全てを得た?(Alles verloren – alles gewonnen?)」と題されたこのプロジェクトは、炭鉱夫、工場労働者、教師、主婦、神父など17 人の人々が自らの経験を観客に語るというもので、まるで失われたまちの「お葬式」でした。
▼立っている男性が思い出を語っている。(c) IBA See
特筆すべきは、まちのお葬式が実際の露天掘り跡地の空間を利用して行われたことです。10 分の1 の街の外形が谷底に描かれ、それぞれが住んでいた場所に当時使っていた家具を持って来て円形に座って話をするという設計になっていました。谷底の荒涼とした風景をあえて「舞台」とすることで、産業化・近代化に振り回された人々の体験を効果的に演出したのです。
準備段階で、はじめは過去を振り返ることをためらっていた住民たちですが、モンタルタ氏と発表の内容を組み立てているうちに、おさえていた感情が爆発し、堰を切ったように自分の体験を語りだしたといいます。
モンタルタ氏は、住民たちの体験で一番大切な思い出を制限時間10 分で効果的に話せるように原稿を一緒に考え、アドバイスしていきました。
「露天掘り跡地が湖となり、風景が美しく回復したとしても、故郷を失い、仕事を失い、自尊心を失った人々の心を癒やすのは簡単ではありません。感情や経験を他者に語り共有するところから、アイデンティティや自尊心が回復するのです」とモンタルタ氏が語るように、このプロジェクトの本質は失われたまちを人々が偲(しの)び、弔うことによる「住民の心のケア」だったのです。
▼お葬式は実際にまちがあった場所で行われた。(c) IBA See
この「まちのお葬式」プロジェクトの後、モンタルタ氏は2010年に、ラオジッツ地方の7ヶ所の都市・村で、それぞれの住民がそれぞれの都市空間を用いて様々な催し物を行う「パラダイス2(Paradies 2)」の企画運営をIBAとともに行いました。
ドイツとポーランドの国境沿いに建つ戦争で廃墟になった教会で戦争の記憶を語り合う会が開かれたり、廃墟となったダンスホールでダンスのワークショップが開かれるなど、どれも過去の「失われたもの」と向き合うイベントだったといえます。
ラオジッツから学ぶ、まちの終活のあり方
私達がラオジッツ地方の取り組みから学ぶことのできる、まちの「終活」のあり方は次のようにまとめることができます。
「まちのお葬式」がユニークだったのは、実際に昔まちがあった場所で行なわれたことです。残された空間をうまく使うことで、説得力のあるお葬式になります。
お葬式ですから、喪主が必要です。喪主は故人をよく知る人が、故人との思い出を語ります。まちのお葬式の喪主は、当然まちに住んでいた人たちです。かれら自身の言葉で語ってもらうことが大変重要です。
お葬式は、どうせだから盛大にやりましょう。故人(まち)を知らない人もたくさん呼んでみましょう。思い出話は、そのまちを何も知らない人のほうが聞いていて新鮮でおもしろいものです。
まちづくりや都市の再生というテーマでは、どうしても都合の悪いことや複雑なことにはフタをして、とにかく「新しいもの」を求めがちです。しかしそこに縁のある人々の気持ちをないがしろにしたまま、「次の展開」ばかり追いかけようとしては、変化についていけない人々が取り残され、バラバラになってしまいます。
「お葬式は亡くなった方のためにあるのではなく、残された人々の気持ちの整理のためにある」とは良く言われることです。街の歴史、個人の体験、心の奥にある感情、これらを押し殺すのではなく、開いて共有すること。こうして失われたものと向き合うことではじめて、「次」を落ち着いて考えることができるようになるのです。これが、まちの「終活」の極意なのだといえるでしょう。
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登録はこちらNPOライプツィヒ「日本の家」共同代表。ドイツ・ライプツィヒ在住。東京大学新領域創成科学研究科博士課程所属。1984年生まれ。2010年千葉大学工学研究科建築・都市科学専攻修士課程修了。同年渡独。IBA Lausitzにてラオジッツ炭鉱地帯の地域再生に関わる。2011年ライプツィヒの空き家にて仲間とともに「日本の家」を立ち上げる。ポスト成長の時代に人々が都市で楽しく豊かに暮らす方法を、ドイツと日本で研究・実践している。