Heelmeester|1695 (写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam)
Heelmeester|1695 (写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam)
物事を検討するためにデータを参照することは、今や当たり前のアプローチである。しかし「テキスト」が最も重要であった時代にはそうではなかった。そして、データを無視することは人類に多大な損失をもたらしてきた。
北里柴三郎と森鴎外の対立はデータ対テキストの闘いだった
日本近代医学の礎を築いた北里柴三郎はコッホの下で病原菌の研究をしていたが、同時期にベルリン留学中の軍医である森林太郎(後の鴎外)と学術論争を繰り返していた。他でもない、脚気の原因をめぐる論争だ。
当時の帝国陸軍は脚気に苦しむ軍人が多く、鴎外にとっては喫緊の課題。脚気に関して、更に前にベルリン大学衛生研究所に留学した緒方正規が「脚気菌?」を発見したという発表をしていて、鴎外もこれを支持し、脚気は脚気菌による感染症だと考えていた。
これに対し北里は緒方が発見した「脚気菌」は雑菌だったとし、何らかの栄養素の欠乏症だと主張して論争は続いた。東京帝大医学部の見解に異を唱えたおかげで、彼は帰国後東京帝大のポストを得ることができなかったが(福沢諭吉の援助を得て伝染病研究所を設立する)、コッホの下で感染症の原因菌を研究していた北里が脚気は感染によるものではない、と主張した点は興味深い。当時勃興しつつあった感染理論は既にテキスト化され、その権威を信じる鴎外と、顕微鏡による観察データを重視する北里の対立はそのまま、データ対テキストの因縁深い闘いの縮図であった。
観察して得られたデータよりもテキストが正しいとされた時代
データ重視の考え方がテキストの伝統に打ち勝つまでは非常に長い年月を必要とした。とくに西欧医学においては、古代ギリシアのヒポクラテス(前5世紀)、ローマ時代のガレノス(2世紀)、イスラム黄金期の哲学者で医師のアヴィケンナ(10-11世紀)。この3人の医聖のテキストは大学医学部の聖典として教育の場に君臨し、医学生たちは自分の目で見て、観察して、そこから学ぶのではなく、テキストにある学説を通して対象を診ることを強いられていた。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の前半部分です。
(「エセ治療を廃止するために必要な『不在データ』」について続きを読む)
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