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スーパー書評「ダーウィンが提起した生物の生存経過」
『種の起原』(八杉龍一訳、岩波文庫上下)
2025.05.13
Updated by Yoichiro Murakami on May 13, 2025, 18:21 pm JST
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2025.05.13
Updated by Yoichiro Murakami on May 13, 2025, 18:21 pm JST
大学の入学試験などの問題に、人名と著書名とを結び付けなさい、という形式がよく登場します。採点が楽ということもあって、頻用されますが、ダーウィンと『種の起源』となら、恐らく小学生でもなんなく正解できるのではないでしょうか。なお、最初にお断りしますが、「起原」と言う書き方は、岩波文庫の訳者八杉氏のこだわりから生まれた表記で、「きげん」の書き取りであれば、「起源」の方が正解となるでしょう。例えば現代でも、光文社古典新訳文庫での訳者渡辺政隆氏は、普通の「起源」を採用されています。なお、本書は、明治以降様々な翻訳が試みられてきましたが、ここでは、代表訳として八杉訳を採用し、題名の表記も、それに倣うことにいたします。
いずれにせよ、誰もが知っている書物ですが、さてしかし、読み通すのは邦訳でもかなり大変です。私事ですが、大学の卒業論文と修士論文のテーマが、この書物に絡んでいましたので、原文、和文とも一応読んだのですが、正直なところかなりの難事であったことは確かです。その上、この著作の初版は1859年刊行ですが、その後、著者存命のうちに六版まで刊行され、この最終版までの間に、初版へのかなり大幅な改訂が施されました。
一例を挙げれば、ダーウィンの残した言葉として最も有名なものの一つ「適者生存」あるいは「最適者生存」(survival of the fittest)という術語は、第五版に初めて現れるので、例えば上に掲げた八杉訳(初版訳)の本文には影も形もありません。また、八杉訳では「付録」として下巻の最後に載せられている30ページを越す長大な文章は、最終版(第六版)の第七章として出版されているものです。つまり初版は14章立ての書物でしたが、最終版では15章立てになっています。
こんなわけで、『種の起原』を読んだ、と言っても、どの版を読んだのか、によって、結構話は違ってくるのです。結局、読者としての礼節と良心に従えば、初版から六版まで、すべて(と言っても初版と第二版との間には、殆ど異同はありませんが)を比較しながら読み通さなければならないことになりましょう(因みに、八杉訳では、注記の形で八杉氏が、各版の異同を具に検討されており、そのことが、本稿で八杉訳を代表訳として取り上げた主な理由になっています)。
その面倒もさることながら、この書物ほど、生物学の領域における専門書の一つでありながら、社会的に、ということは、宗教的、思想的、文化的、あるいは政治的、教育的、更には法的などに、言い代えれば、書物の本来の姿とは無縁とも言える「外野」において、激しい論争を巻き起こした、あるいは未だ「巻き起こしている」書物も珍しいのです。その辺の詳細まで筆を伸ばせば、一冊の大著に匹敵する分量が必要でしょう。本稿では、出来る限り、必要最小限の記述に留めたいと思います。
チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809~82)は、1859年11月24日に『On the Origin of Species, by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle of Life』という長い題名の大部の書物(岩波文庫の八杉訳は、最初三分冊で、現在は上下二分冊で刊行されていますが、訳者注記も多いとはいえ、昔風に言えば二巻とも星三つか四つくらいの分厚さです)を刊行しました。通常<Origin of Species>と略称されます。初版刊行直後の1860年1月7日には、幾つかの誤植を訂正した第二版が刊行されています。なお表題では「自然選択によって、生存闘争に都合の良い種が保存されること」それが生物の「種」が生まれる源(origin)である、ということが、直截に述べられていますが、「進化」(evolution)という言葉は一切使われていません。
チャールズ・ダーウィンはイギリスの典型的な中流家庭の出身です。父ロバートは医師、父方の祖父に当たるエラスマス(Erasmus D. 1731~1802)も医師、また生物学の分野では、進化論の前駆とも言うべき仕事に携わっていました。また母は、現代までイギリスの陶器の世界で名家と謳われるウェジウッド家の出身という恵まれた環境のなかで、やはり医学を学ぶべくエジンバラ大学に進みましたが、医学の勉強が性に合わず、ケンブリッジ大学に転校して、博物学の世界に関心を開かれます。卒業後、海軍の測量・調査船(スパイ船だったという説もある)ビーグル号の世界周航に博物学者として乗り組んだことが、かれの生涯を決定します。
この航海中、ダーウィンは各地で、動植物の観察・収集を行い、携えたライエル(Charles Lyell, 1797~1875)の『地質学原理』(Principles of Geology)を読破したことも刺激になって、地理的条件と生物の諸相との関係について考えるようになります。中でも南米の太平洋側にあるガラパゴス群島に立ち寄った際に得たデータ、ウミガメや小鳥のフィンチが、地域としては狭い群島の中で、それぞれの島で、同じ種でありながら、少しずつ異なった特徴を持つことに注目します。
通常は見過ごされているこうしたデータ、例えばある島に住むフィンチの嘴は、短くて上下の重なりが強いのに、隣の島のそれは長目ですっきりしている、などという異同を見極めたことは、ダーウィンが非常に鋭敏な観察眼を持っていたことを示しています。そして、そうした微妙な違いは、それぞれの個体が成育する島々の環境の違いに、上手く適合しているように思われたのでした。
これより先、18世紀後半になると、生物の「種」に関する考え方を左右する幾つかの注目すべき試みが現れました。一つはスウェーデンのリンネ(Carl von Linne, 1707~78)による分類学の成立です。彼が植物学と動物学の双方において、分類の体系を提案し、その最終単位としての「種」という概念をはっきりさせ、種の命名法(二名法と呼ばれます)をも提示したことは、画期的なことでした。ここに、言わば「不変」の確固とした生物種、明確に独立した概念としての種、という考え方が明確化されたことになります。この点は、当時人々の思考の枠組みを作っていたユダヤ・キリスト教、特にその聖典の出発点とも言える『創世記』が、神の世界創造を説いていることに鑑みて、種は世界創造において、神によって造られたと見做せる点で、認めやすい考え方であったとも言えます。
しかし、一旦種概念がこうして定立されると、同じ種の中でも、当然個体には様々な違いがあって、その中には隣接する種の特徴と一致するように見えるものが見付かったりします。所謂「中間種」的な存在です。そうした個体の違い(「変異」と言う言葉が使われます)は、現在では遺伝子の変異と、その後の生存経過(エピジェネティックス)との相互作用と考えられますが、遺伝現象に関してはっきりした理論が存在しなかった18世紀末から19世紀にかけた時代ですので、この辺のメカニズムは判らないまま、種の「変化」という点をも考えなければならないのでは、という発想が生まれました。
その最も鮮明な例が、フランスのラマルク(J-B de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744~1829)でした。その頃フランスの博物学の世界では、古生物学に業績のあったキュビエ(Georges L. C. F. D. Cuvier, 1769~1832)が大きな力を示していました。ラマルクは半ばキュビエから影響を受けながら、反発・対立する立場に立って、動物学や植物学での研究を進め、1809年に『動物哲学』(Philosophie Zoologique)を出版します。この本は、研究書としての性格ではなく、生物学(因みに「生物学」<biologie>という語を始めて使い始めたのはラマルクだとされています)一般の考え方を、教科書風に述べたものですが、その中で彼は、種の変化の要因は「用・不用説」で説明できる、という趣旨の文章を残しました。これは、種の「進化」という問題についての最初の理論的仮説であり、後にダーウィンも、それなりの評価を与えています。
用・不用説というのは、要するに、ある個体が必要に応じて(一代限りで)獲得した特徴(変異)は、世代を超えて蓄積され、顕著な特質を形成するに至ることが、種の変化(進化)の要因である、という考え方です。この考え方は、その後、遺伝子遺伝学が確立された後では、「獲得形質の遺伝説」として専ら批判の対象となりましたが、さらに後に、ソ連のルイセンコ(Trofim D. Lysenko, 1898~1976)の理論として、一時期の共産圏諸国では「労働者の立場に立った理論」と喧伝され、日本でも一部では大変もて囃された歴史があります。
余談ですが、獲得形質の遺伝説は、正統遺伝子遺伝学からは一旦明確に否定された後、現代では、言わばその補正のような意味もあって、エピジェネティックスという形で、一部が再利用されている、と考えられています。
話を戻しましょう。ダーウィンが「自然選択説」(natural selection)という発想を得た重要なきっかけは「人為選択」だったと考えられます。『種の起原』の第四章は「自然選択」と名付けられていて、この書物の白眉をなす部分ですが、その末尾「総括」と題された箇所で次のように書いています(邦訳170ページ)。「私は、人間にとって有用な変異が多数生じたのと同様にそれぞれの生物自身の為に有用な変異が生じないとしたら、それほどおかしなことはないと考える」。つまり、人間が必要と思われる変異を備えたハトやウマなどの個体を掛け合わせる作業を長い世代重ねることで、目的に適った種(この場合は変種)を作り出してきたのと同じように、自然がその環境のなかで有用(有利)と思われる変異を特に選択し、長い時間をかけてその変異を増幅・定着させ、新しい種を作り出してきたのだ、というのが、まさしくダーウィンの考え方のエッセンスと言うべきものになるのです。
最初に述べたように、歴史の中で、これほど様々な、書物の内容を巡るエピソードに彩られたものも珍しいと思います。それらについては、稿を改めて書いてみることにいたします。
上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。