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ソーシャルメディアは死なない。ただゾンビとして残るだろう

ソーシャルメディアは死なない。ただゾンビとして残るだろう

May 13, 2026

yomoyomo yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

先日、2026年のピューリッツァー賞が発表され、ロイターが国内報道と専門報道の2部門で受賞しました。専門報道部門で受賞したのは、Metaが子どもを含むユーザーを有害なAIチャットボットや詐欺広告に故意に晒していたのを明らかにした調査報道でした。具体的には、FacebookやInstagramで1日あたり150億件もの詐欺広告が表示されており、それはMetaの2024年の売り上げのおよそ一割(!)を占めていた実態を暴くものでした。

今年の3月にも、MetaとYouTubeを相手取ったソーシャルメディアの依存性、有害性を巡る訴訟において、ロサンゼルスの州裁判所で原告に600万ドルもの損害賠償を命じる評決が下っています。この訴訟の注目すべき点は、これまでテック企業の「盾」となってきた、「ユーザーの投稿内容の責任をプラットフォームは負わない」という米国通信品位法230条による免責を回避し、ソーシャルプラットフォームの「意図的に依存させる設計」がユーザーに及ぼす加害責任について陪審が評価を下している点です。

先週ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された、『ドラグネット 監視網社会』の邦訳もあるジャーナリスト、起業家のジュリア・アングウィンの「Metaは死にかけている。遅すぎたくらいだ」というオピニオン記事は、「インターネット企業には死臭が漂い始める瞬間がある」という不穏な文章から始まります。

Metaは現在も世界最大のソーシャルメディア企業ですが、経済や社会に余波をもたらす長く緩やかな衰退の「ゾンビ時代」に突入しつつあるとアングウィンは断じます。

そして彼女は、Metaの最大の資産であるFacebookからの若年層の離脱(前四半期、Metaの全プラットフォームでのアクティブユーザー数も、初めて減少に転じたとのこと)、メタバース事業への800億ドルもの実らなかった投資、そしてそれに続くAIやデータセンターへの野放図な巨額の支出、広告表示数の増加や広告単価の引き上げによるユーザー離れや広告主離れの悪循環の懸念、そして冒頭に書いた訴訟(並びにMetaの社会的な悪影響)と次々と問題を挙げた上で、憤懣をぶちまけます。

この組織が自業自得の末に自滅していくのを見るのは、一種の冷笑的な満足感を覚える。この会社は、虚偽の情報を流布して利益を得、アルゴリズムを操作して憎悪と分断を煽り、私たちのデータを盗んではそれを私たちに対して利用し、今や堕落した公共の議論の中心となってしまった有害なミーム文化を生み出したのだ。Facebookの没落は、むしろ私たちの国民的な対話に関する心強い転換の兆しでさえあるかもしれない。

しかし、ネット企業を縛るしかるべき規制が欠如した状況では、衰退期にこそ多大な損害をもたらし得ることもアングウィンは指摘します。ましてや既に詐欺や不正行為が横行しているMetaのサービスにおいて、AIの安全性や違法コンテンツの特定に関してMetaが人員削減を進めていることも安全面の懸念を高めます。

記事の締めも極めて辛辣です。

Metaは死にかけているかもしれないが、それは穏やかな退場にはならないだろう。むしろ、それは良いことなのかもしれない。ユーザーが離れるほど、そしてMetaのアプリがますます腐食するほど、私たちは早くにログオフし、ソーシャルメディア革命の時代を永遠に終わらせることができるのだから。

実を言うと、ワタシ自身はアングウィンの書くようにMetaが死ぬとは思っていません。それは昔、ポール・グレアムが「マイクロソフトは死んだ」と書きましたが、それから20年近く経った現在までマイクロソフトが死んでいないどころか「マグニフィセント・セブン」の一員である事例を知っているのもあります。

Metaに関して言えば、Facebookの公共政策ディレクターだったサラ・ウィン=ウィリアムズが、マーク・ザッカーバーグをはじめとするMetaの幹部たちがいかに腐敗しているかを告発した『Careless People』刊行後も、マーク・ザッカーバーグにかすり傷も与えてない印象があるからかもしれません。

『Careless People』については、エミコヤマ渡辺由佳里、そしてコリイ・ドクトロウによる評を読んでいただくとして、Metaがこの本を潰すことを画策し、著者のサラ・ウィン=ウィリアムズは訴訟で追い込みをかけられ、5万ドルの罰金で破産の危機にある話を聞くと、この本の邦訳が出ることはないかと思います……と書きかけたところで、念のために調べたところ、『ケアレス・ピープル 権力と欲望、失われた理想の物語』の邦題で7月に邦訳が出ることを知って驚きました。えらいぞ、すばる舎!

しかし、どうして「ソーシャルメディア革命の時代を永遠に終わらせることができる」とまで書かれるほど「ソーシャルメディア」は忌み嫌われる言葉になったのでしょうか。豪州や欧州をはじめとして進むこどものSNS規制(厳密な話はともかく、欧米圏における「ソーシャルメディア(Social Media)」は、日本語圏における「SNS」とほぼ同義と考えてよいでしょう)の話も、この言葉を巡る「空気」が影響しているのは間違いありません。それはMetaという一企業に留まらないものがあるはずです。

昨年9月に公開されたジェームズ・オサリバンの「ソーシャルメディアの終焉の日々」は、かつてソーシャルメディアが約束した、人間同士の交流、公共的な対話、そして友人や知人の近況を知る場が失われていることをまず挙げます。

「人間同士のつながり」よりも世界中の見知らぬ人の好みからアルゴリズム(この言葉も注意して使うべきですが)によって抽出されたコンテンツが優先されることとなった話については、ワタシも4年近く前に取り上げていますが、アテンション・エコノミーにAI生成コンテンツ(AIスロップ)が加わることで、いよいよソーシャルメディアは「人」ではなく「コンテンツで混雑した」状態になっています。

オサリバンが強調するのは、現在のソーシャルメディアの問題は、単に「偽物が増えた」ことではなく、文脈が崩壊し、真実であるかどうか人間に判断できなくなり、というかそれ自体もうどうでもよくなっているのが深刻だということです。

問題は、人間に見せかけたマテリアルの台頭だけではなく、文脈の崩壊、そして派手な色やノイズへの渇望さえ満たされれば、もはや真実は重要ではないという受容にある。現代のソーシャルメディア上のコンテンツは、文化的記憶や対人交流、共有された会話から切り離され、根無し草に近くなっている。コンテンツはいっぱしに整った形で現れ、意味よりも注目を集めることに最適化されており、一種の「意味の泥沼」を生み出している。つまり、言葉のように見えても、ほとんど何も語ってない投稿である。 我々はこの「無」に溺れかけている。

その結果、ソーシャルメディアにコンテンツは増えても、人々の関与(エンゲージメント率)は落ちています。もはやユーザーがスクロールし続けるタイムラインは、情報源でも社交の場でもなく「気分調整装置」になっているとオサリバンは指摘します。彼が考えるソーシャルメディアの死は、アングウィンが書くようなユーザーがログオフしてMetaを捨て去る形ではなく、むしろ疲労や諦めや無関心によって、かつてのソーシャルメディアが内側から空洞化する姿です。

ここにいたって「ソーシャルメディアはつながりを約束したが、もたらしたのは疲労感だった」というこの記事の副題につながるわけですが、オサリバンはその「疲労経済」の先に、ソーシャルメディアが担っていた機能が分解されていき、大規模プラットフォームからグループチャット、招待制コミュニティ、暗号化された対話空間といった私的な空間である「小さな庭」への移行を予想します。

その見立ての背景に、大衆に向かってではなく選ばれた相手の前で話す、拡散のためではなく理解されるために投稿する、アルゴリズムに向けて最適化するのではなく人間を相手にする「文脈のある会話」をオサリバンが肯定的にとらえているのが分かります。

その上でソーシャルメディアを「公共インフラ」として考え、アルゴリズムの選択を「市民的権利」として設計するというオサリバンの提案は面白いですし、デジタルリテラシーを個人の責任としてではなく社会全体の能力として捉え直す必要があるという「公衆衛生としてのデジタルリテラシー」という考え方も、前述の世界的潮流である「こどものSNS規制」を考える上でも重要に思います。またBluesky、Mastodon、Threadsといった分散型・連合型の技術的基盤にも触れながら、分散型プロトコルだけでは不十分というシビアな視点も地に足がついています。

オサリバンの文章の結論は、意外にも明るい感触があります。

私たちが知るソーシャルメディアは死につつあるが、その廃墟に囚われると決まったわけではない。私たちはより良い――より小規模で、よりゆったりとした、より意図的で、より説明責任のある――デジタルの交流の場を築くことができる。そこでは、重要な指標はエンゲージメントやグロースではなく理解やつながりであって、アルゴリズムがコミュニティを搾取するのではなく、コミュニティに奉仕する場である。 ソーシャルメディアの終焉は、より人間らしい何かの始まりになるかもしれない。それは、そもそもなぜ自分たちがネットに接続したのかを思い出させてくれるウェブだ――収奪されるためではなく話を聞いてもらうため、バズるためではなく仲間を見つけるため、ただスクロールするためではなくつながるための場だ。私たちはこれらのシステムを築き上げたのだから、より良いものを築くことは間違いなくできる。問題は、私たちがそれを実行するか、それとも溺れ続けるかだ。

そして最後に、ソーシャルメディアの研究者であるダナ・ボイドの最新論文「ソーシャルメディアは今やパラソーシャルメディアである」を取り上げたいと思います。

ボイドらしく、この論文は「ソーシャルメディア」という言葉の成立史から始まりますが、そこで彼女が強調するのは、初期のインターネットに分散的な性格があったことです。当時、多くが自分のウェブサイトを持ち、RSSやAPIのような標準プロトコルを通じて他者のコンテンツを読んだり共有しました。しかし2000年代半ばになると、Friendster、MySpace、Flickr、Diggといった(後に「プラットフォーム」と呼ばれるようになる)人気サイトに人々の活動が集約され始めます。プロトコルよりプラットフォームのほうが使いやすかったが、その代償としてウェブの中央集権化が進んだ、というのがボイドの見立てです。

当時のソーシャルメディアには、人を集めるだけの社会的な魅力が実際にあったとボイドは書きます。自己表現を助け、世界中の人びとを結び、民主主義を強める可能性を持つと楽観的に信じられていたのです。この時代のソーシャルメディアは、受動的なメディア消費ではなく参加型の文化があり、アイデンティティの形成、人間関係の強化、関心に基づくコミュニティの構築のために多様なソーシャルメディアを利用できました。つまり、ソーシャルメディアという言葉の「ソーシャル」は、当時はそれなりに実態を持っていたのです。

ボイドによれば、「ソーシャルメディア」という言葉が現在の意味で広く定着するのは、2007年のサウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)でTwitterが注目を集めた後で、そのTwitterをはじめ、FacebookやYouTubeなど、人々が自分の生活に関するコンテンツを投稿して他者とつながるために利用する一連のウェブサイトを指す言葉として(「ソーシャルネットワークサイト」、「ソーシャルソフトウェア」、「Web 2.0」など他の語を飲み込み)支配的な呼称になりました。

ここでボイドは、この言葉の定着には問題があったと振り返ります。「ソーシャルメディア」と呼ぶことで、我々はこれらのプラットフォームが「社会的なもの」だと当たり前のように思い込んでしまったが、実際にはプラットフォームの構造も経済的動機も、次第に社会性から離れていったのです。

2010年代に少数の企業が巨大プラットフォームを支配する中央集権化が進み、多様な実践は少数のプラットフォームに収斂されてしまいます。そして、投資家を満足させるために成長を追求することで、企業がプラットフォームを社会性から遠ざける歪みをもたらしました。早い話、友人同士の交流などの「社会性」は、ユーザーをメディアを消費させるほど利益につながらないのです。

ここでボイドが参照するのは、当然ながらというべきかコリイ・ドクトロウの「メタクソ化(enshitification)」論です。ドクトロウの理論によれば、プラットフォームはまず優れたサービスでユーザーを集め、次にユーザーを囲い込んだうえで広告主などのビジネス顧客を優遇し、最後にはユーザーとビジネス顧客の双方を搾取して投資家を満足させようとするわけですが、2026年現在の主要ソーシャルメディアは、この第三段階の真っただ中だとボイドは見ます。

2006年のソーシャルメディアは、2026年のそれとはまったく異なります。現在のソーシャルメディアは、それこそアングウィンやオサリバンが書く有様なわけですが、ボイドはユーザーの行動様式の変化も指摘します。今のソーシャルメディアで投稿よりもスクロール(受動的なメディア消費)が主流である背後には、ユーザーの投稿に伴うプライバシーや評判に関する「社会的リスク」を無視できません(たとえ、投稿が親しい人だけに共有されるはずだったとしても)。

ネットから社会的交流が消えたわけではなく、今でも人々はグループチャットやダイレクトメッセージ(DM)で友人とつながっているが、そうした場は通常ソーシャルメディアとは呼ばれません。つまり、実際に社会的な交流が行われている場所と、「ソーシャルメディア」と呼ばれる場所がずれてしまっているのです。

そこで論文のタイトル「ソーシャルメディアは今やパラソーシャルメディアである」にたどり着きます。現在の主要なソーシャルメディアは、パラソーシャル(一方通行)な関係が中心になっているとボイドは論じます。ユーザーは、友人と相互にやりとりするよりも、インフルエンサーやセレブのコンテンツを受動的に消費し、それに感情的に関与します。しかし、その関係は友情や共同体のような相互扶助の基盤にはなりません。

雑誌やテレビやラジオなどのマスメディアを挙げるまでもなく、パラソーシャルな関係自体は新しいものではありません。ソーシャルメディアが既存のマスメディアと違ったのは、セレブやクリエイターがファンと直接交流を行うことができたことです。ところが、ソーシャルメディア企業は、この交流の可能性にもアルゴリズムと収益化の仕組みを組み込みました。

共通のメディア体験が文化的なつながりを生むこともあるわけで、ボイドはパラソーシャルな関係がすべて悪いとは言いません。しかし、パラソーシャルな関係性には、ある種の「トリックスター」的な側面があり、それに没頭することは快楽をもたらすが、それによって集団的な社会的な絆が強まるわけではないし、交流に相互的なものがなければ孤独は解消されない、とボイドは警告します。見る側は他者をコンテンツとして消費し、クリエイターの側もユーザーを引き留めるために擬似的な親密性を演じ続けなければならず、消費者側にもクリエイター側にも歪んだ関係性が生じる、というのがボイドの見立てです。

その上でボイドは、「ソーシャルメディア」という前提で考える限り、プラットフォーム規制やガバナンスの議論もずれてしまうと指摘します。我々は未だ「ソーシャルメディア」という名前で呼んでいるが、主要プラットフォームの実態は、友人同士の社交の場ではなく、アルゴリズム的に編成されたパラソーシャルなメディア消費空間になっているのだから、分析の言葉も、規制の問いも、社会性の理解も更新しなければならないというのが彼女の提言です。

今日のツールが、私たちの多くが期待していたものとは異なることは私も受け入れているが、これらのプラットフォームを分類するために用いている用語については依然として葛藤を抱えている。「ソーシャルメディア」というレッテルを捨て、私たちが直面しているのが「パラソーシャルメディア」の時代であると認め始めるべき時が来ていると思う。私はオンラインでの社交の喪失を嘆いているのではない(とはいえ、年長者ならではのノスタルジーを感じるのは確かだ)。むしろ、ガバナンス、不平等、そして社会性をめぐる私たちの議論が、ソーシャルメディアが全く新しいカテゴリーへと進化してきた現状に対応するために、どのように、そしてなぜ進化しなければならないのかを、この分野で真剣に検討すべきだと考えている。端的に言えば、この種のソーシャルメディアは、そもそもこの名称が生まれた頃のソーシャルメディアとは全く異なるものだ。そして、それに伴い、私たちの分析ツールも進化する必要があるのだ。

結局はMetaは死なないだろうし、「ソーシャルメディア」も各人の理解と議論がずれたままゾンビのように残ってしまうだろう、という結論では怒られてしまうかもしれませんが。

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