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メディアとしてのメタバースのメッセージを(ニコラス・カーが底意地悪く)読み解く

2022.09.21

Updated by yomoyomo on September 21, 2022, 13:35 pm JST

ニュースメディアVoxの共同創始者にして、現在はニューヨーク・タイムズでコラムニスト、ポッドキャスト司会者を務めるエズラ・クラインが、少し前に「信じたくはなかったが、確かにメディアはメッセージだ」という文章を書いています。

この文章は、クラインが2020年に、それまで10年シカトしてきたニコラス・カーの『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』を読んだ話から始まります。クラインは、『ネット・バカ』のことを「2011年のピューリッツァー賞最終候補にして、インターネットが嫌いそうな人たちに大うけだった本」と説明していて、原書刊行時にこの本を取り上げているワタシもこれには苦笑い。

この本が出た当時、インターネットを愛し、物理世界だけでなくフロンティアとしてのデジタル世界でキャリアやアイデンティティ、つまりは人生そのものを築いてきた「デジタル・ネイティブ」の自負を持つクラインでしたが、それから10年たち、かつてインターネットに抱いていた確信は薄れてしまいました。オンラインの生活様式は、ますます忙しなく、騒々しいものになり、かつて校庭からの逃避先だったインターネットは、今では世界そのものを校庭に変えてしまったかのよう。

その認識にいたりはじめてクラインは、ネットは人間の脳の働きを変えていると論じるニコラス・カーの『ネット・バカ』を読む準備ができたと感じたそうです。そして、この本の中で引き合いに出されるマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉が、インターネットにもあてはまるのを彼は噛みしめているようです。

クラインの文章は、その後ニール・ポストマン、マーク・アンドリーセン(彼にはこの文章の後半でまた登場いただきます)、ジョナサン・ハイト、そしてジェニー・オデルを引き合いに出していてとても面白いのですが、そこには深入りはしません。クラインの文章のおかげで久しぶりにニコラス・カーの名前を見て、そういえばカー先生は、昨年Facebookが社名をMetaに変えたのを受けて、メタバースについて論じる「メタバースの意味」と題した全6回の文章を書いていたのを思い出したので、今回はそれを取り上げようと思います。

Part1
まずパート1「現実の商品化」ですが、「Facebookは今や、世界の災厄だと広く認められている。Facebookの排除が明らかな解決策なのに大半が同意するだろうが、マーク・ザッカーバーグの考えは違う。むしろ彼は世界を排除しようとしている」と、ニコラス・カーの毒舌は健在です。

カーの見立てによれば、Facebookの社名変更は、そのブランドイメージの失墜を糊塗しようといったセコい話ではなく、乱雑で混沌とした、非論理的で予測不可能な人間と世界に対する嫌悪に根差した、肉体の束縛から心を解放し、物理世界のヴァーチャルへの置き換えを夢見るサイバーユートピア願望を完遂せんとする宣言というわけです。

ザッカーバーグがメタバースで目指すのは、ソーシャルメディアやビデオゲーム体験の仮想世界への置き換えにとどまりません。それは、現実そのものを商品化することです。「何かにお金を払ってないのなら、あなたはそこの顧客ではない――あなたの方が売り物の商品なのだ」とは、ユーザー体験やプライバシーを売り物にしているとされるFacebookなどを批判する文脈でよく使われる格言ですが、Facebookの社名変更は、その路線からの軌道修正どころかその徹底であり(現実すべてをマネタイズ!)、ザッカーバーグのサイバー理想主義は、Metaの貪欲な利益追求となんら矛盾はしないとカーは見ています。

ここに至り、バーチャルリアリティ(VR)の路線に関して、Oculusの創業者パルマー・ラッキーが安価なゲーム機をVRとして提供するのに情熱を注いだのに対し、ザッカーバーグがより自社がコントロールしやすい汎用的なデバイスを目指したため、VRの方針をめぐる社内対立が起き(結果としてパルマー・ラッキーが追い出され)たというも、カーの言う「現実の商品化」というコンセプトを踏まえると、飽くまで「ゲームはVRの入り口である」とみなし、「現実とシームレスにつながるメタバース」を目指すザッカーバーグの構想の大きさが見えてきます。

またカーは、Facebookの最大の弱点として、サービスにアクセスしてもらうのに必要なハードウエアやそのOSを競合他社に依存していることを挙げます。実際に昨年、Appleによるユーザーのプライバシー設定の変更により、FacebookはiOSデバイスにおける広告効果の低下という打撃を受けました

さすればザッカーバーグが、メタバース分野でハードウェア(とOS)の覇権を押さえたいと考えるのも自然な話です。それが実現すれば、彼が思い描くメタバースで個人情報の収集を阻止するのは極めて難しくなります。Facebook Connectの基調講演で、ザッカーバーグは普遍的なメタバースには普遍的な相互運用性が必要と強調しています。これだけ聞くと、Facebookの独占志向からの方向転換のようですが、逆に言うと「現実とシームレスにつながるメタバース」を実現するには、それだけ「現実」がデータ化され、そのデータが共有される必要があるとも言えます。

Reality Labsのチーフ・サイエンティストであるマイケル・アブラッシュの、家の中の「あらゆる物」の「インデックス」がデジタルマッピングにより作成できるようになるという説明もそれを裏付けており(同時に彼は、次世代のメタバースに到達するには、数多くの技術的ブレイクスルーが必要であることも強調していますが)、そうなれば広告の可能性は無限大です。

Part2
パート2「二次的な身体性」は、Facebook Connectのオープニングで、ザッカーバーグが喋る背後に映る自転車やサーフボードを見て、これは単なるスポーツ用品ではなく「身体性」のシンボルであり、この「身体性」こそザッカーバーグにとって「コミュニティ」にとって代わる言葉ではないかとカーが思い当たる話から始まります。

ザッカーバーグは複数のインタビューで、メタバースこそモバイルインターネットの後継であり、メタバースはただコンテンツを眺めるのではなく、その中に没入する「身体性のあるインターネット」と考えていることを語っています。カーは、この視座をザッカーバーグらしいと認めながらも、高尚な美辞麗句はマーケティング用語としては通用しても、仮想世界でどうやって「身体化」するのか、矛盾しているだろうと一蹴しています。

そしてカーは、コンピュータに関して最も面白いのは、コンピュータが我々に鏡を突きつけてくることだと続けます。例えば、人工知能を創造しようとすれば、自然知能とは何であり、それがどこで生まれ、その限界は何かという問題と取り組まざるを得ません。同じように仮想世界のメタバースを創造しようとすれば、そもそも「世界」とは何なのか、ある世界の中にいるというどういうことか、心と身体にはどんな関係があるのか、といった我々の存在についての深い問いに直面するわけです。

続けてカーは、人間の身体と心の関係を論じた上で、バーチャルな身体性という考え方も、案外バカバカしいものではないかもしれず、ザッカーバーグは何か掴んでいるのかもしれないと認めつつも、ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』やマイケル・ハイム『仮想現実のメタフィジックス』を引き合いにしながら、仮想的な身体表現と現実の身体表現を同じと考えるのは間違いだと論じ、Metaが実現しようとする「二次的な身体性」は自己中心的で、孤独で疎外されたものになるのが避けられない、とその危険性を指摘します。

ワタシなどはこれを読んで、「身体性」が「コミュニティ」にとってかわるという話とあわせ、Facebookのソーシャルグラフの「つながり」よりもアルゴリズムによって抽出される動画を優先する「ソーシャルネットワークの黄昏」を連想してしまいました。

Part3
パート3「アンドリーセンの解決策」は、a16zのマーク・アンドリーセンをメタバースの自由の女神(!)になぞらえるところから始まります。マーク・アンドリーセンは、Web3ばかりでなくメタバースの強力な擁護者でもあります。彼はMetaの取締役会のメンバーなのだから不思議ではありませんが、アンドリーセンのメタバースについてのビジョンは(ザッカーバーグのよりも遥かに)暗く、過激で、終末論的ですらあるとカーは指摘します。ザッカーバーグが一般向けに提示するメタバースがオープンワールドのビデオゲームだとすれば、アンドリーセンのメタバースはまるで遊園地と強制収容所を掛け合わせたかのようだ、と。

アンドリーセンはインタビューで、自分たちは「現実世界の特権」を持つ側の人間だが、(現実世界のディストピアぶりの改善はさておき)オンラインではすべての人の人生や仕事を素晴らしいものにできる、と主張しています。

カーは、アンドリーセンの思想を、ビッグテックのすさまじい思春期精神からくる悪しき狂気そのものと片付けたくなるが、それは間違いだとぶった切ります。

アンドリーセンにとっての現実世界は急激な不平等が避けられず、そこで社会は豊かな生活を送る少数のエリートとそれ以外の貧しい生活を送る大衆に二分されます。極端な不平等を克服しようとしても、恐ろしく時間がかかるので端的に無駄であり、それに対する「アンドリーセンの解決策」は、その自然法則を覆すこと、つまりは「現実世界」からのオンラインへの逃避になります。メタバースによって、文明はようやく自然とその制約から解放され、持たざる者もバーチャルで豊かな新世界を享受できるというわけです。

そこでカーは、メタバースは持てる者と持たざる者の経済格差を解消することはなく、メタバースを構築するのが「現実世界の特権」を持つビッグテックの人間なのだから、メタバースを所有してそこから利益を得るのも彼らであり、メタバースが成長し、そこでのデジタル商取引が大きくなるにつれ、経済格差は拡大するだけだろうとツッコミを入れます。ザッカーバーグがFacebook Connectの基調講演をしている間にも、ナイキはそのロゴマークがついたスニーカーや衣類などのデジタル版の商標を登録していました。メタバースでも、クールなスニーカーを手に入れるのは、やはり金持ちの子供なのです。

アンドリーセンもザッカーバーグ同様に「(現実)世界を排除しようとしている」とカーは見ているわけですが、「メタバースに住めば、皆、夢を生きることになる。しかし、それは我々の夢ではない。マーク・アンドリーセンやマーク・ザッカーバーグの夢なのだ」とダメ押しします。

Part4
パート4「リアリティ・サーフィン」では、拡張現実(Augmented Reality:AR)を取り上げています。バリエーション豊かなARが現実にオーバーレイされるであろう近未来に触れた後に、T.S.エリオットの『四つの四重奏曲』から、「人間は、全き現実には耐えられない。(Humankind cannot bear very much reality.)」を引き合いに出しているところが、いかにも意地が悪い。メタバースは、ウェブが情報に対して行ったことを現実に対して行うだろうとカーは予測します。つまり、「情報爆発」ならぬ「現実爆発」が起きるとカーは見ています。

Part5
パート5「メタバースの住人」は、ディープラーニングのアルゴリズムによって、コンピュータは我々の見た目や動き、話し方や使う言葉をシミュレートするようになった、という話から始まります。コンピュータは模倣の専門家になりつつあるが、我々人間も実は、長年にわたってデジタルデータを消費することで、自分に合った、他人に見せたい自分のシミュレーションを組み立て、提示してきたとカーは主張します。

「もはや三つ児の魂百まで(子供は大人の父親)とは言えない。データこそ、その人の父親なのだ」とまで書かれると、ワタシもさすがにそれは言い過ぎだろうと思います。カーはその後、1980年代に撮影されたスナップショットに写し出される人々が、写真やメディアに対して現在の我々とは異質な関係を持っていたこと、当時は人間が「メディア化」しておらず、何が「本物」か議論になることはなかったことに触れ、今我々が何が「本物」かこれほどまでにこだわるのは、本物がもはや手に入らず、せいぜい我々は本物をシミュレートしているだけで、それでインフルエンサーのレベルにまで上り詰められるが、インフルエンサーなんてディープフェイクな自我の完成形以外の何物でもないだろ、と唾棄します。

カーもこの「還元主義的」な視座に反論が多いであろうことは承知していますが、いくらお前らが「私はディープフェイクなんかじゃなくて、本物の人間だ!」と叫ぼうとも、自分自身で作り出したディープフェイクを本物だと信じ込んでいるだけで、そうした意味で(メタバースの普及に関係なく)我々は既に「メタバースの住人」がお似合いなのだと断じます。

Part6
そして最後のパート6「生きているリキッド・デス」ですが、まず「リキッド・デス」自体について説明が必要でしょう。簡単に言えば、「Netflixの元クリエイティブ・ディレクターがしかけた、ドクロをあしらったパッケージがやたらカッコいいただの水」になるわけですが、メタバースをより消費しやすいものにしたければ、この「リキッド・デス」こそその新しい名前にふさわしいとカーは書きます。

実はリキッド・デス自身、TikTokの公式アカウントで「メタバースの公式ウォーター」だと宣言しているのですが、そうカーが書くのは、エッジが効いていて、印象に残りやすいだけでなく、何より消費するものが記号の物理的表現という意味で、メタバースにピッタリだと言いたいわけです。これはカーらしい高尚なイヤミでしょう。

それでも、「十億もの人をメタバースに導き、一人当たり数百ドルのデジタル商取引をさせる」というザッカーバーグが掲げる当面の目標を達成させるには、従来のモノからコトへの長期的な移行を加速させる消費者の心理的な変化が必要、というカーの指摘はおそらく正しい。

アバターは実物の仮想的な表現、「本物」のデジタルシンボルであった時代から、アバターこそその人であり、自己の非代替性トークン(NFT)になる。そこで肉体は記号のアバターであり、派生物の派生物と化す……と書くと、やはりお前イヤミ言ってるだろと思ってしまうのですが、リキッド・デスが運営するバーチャルカントリークラブに参加するには「魂を売る」必要があるという話を引き合いに出し、「そこが私がリキッド・デスを好きなところだ。メタバースの真実を教えてくれる」とカーは締めくくっています。

カーの分析を底意地が悪いとみる向きもあるでしょうが(ワタシ自身そう思います)、Metaが目指すメタバースの特徴として「身体性」を挙げ、ソーシャルメディアがメタバースに発展することで事態はさらに悪化する可能性があるという見方は、例えば先月公開されたランド研究所の分析とも重なります。

次世代VRヘッドセットが発表されるバーチャルイベントMeta Connect 2022は来月に開催されます。いまやテクノロジのハイプ・サイクル(ガートナーはいつまでこれで商売を続けるのでしょうか)で「過度な期待」のピーク期に位置付けられるメタバースですが、Metaがどのように我々をメタバースに導こうとしているかを一歩引いて考えるのに面白いかと思い、ニコラス・カーの論考を紹介させてもらいました。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。