社会医学研究は、いっそう臨床的に意味あるものに向かっており、さらに量的研究だけから質あるいは量と質の混合研究に向かっており、複雑なテキスト分析もいいがシンプルで誰にも分かりやすい分析が好まれ、コミュニティのなかで(CBPR)現実的に(Realistic approach)研究が進むようになってきた。
2025.06.19
宮崎の多くのアニメーション作品は、子どもたちを中心とした冒険譚がほとんどだ。そこで語られる生きることの喜びは個人的・実存的であり、物語は登場人物の自己解放のストーリーとして描かれる。他方、それらを生み出すスタッフたちは製作現場で働く労働者である。そして、もしかすると宮崎は、スタッフを抑圧する側に立っているかもしれない。
2025.06.13
たらい回しはもともと大道芸の一つであったが、さほど歴史は古くない。見世物興行の演目の一つで天保二年(1831年)の辛卯見世物年表の図を見ると、床に寝そべった男子がたらいを縦にして両足に載せて回す芸だと分かる。
2025.06.11
地球全体という視点からみると、ポストモダン的風景は実は各所に姿を変えて存続していると言えなくもない。ハーベイがかつて喝破したのとはやや違う意味で、それは結構しぶといのだ。ただし、そこでは常に革新を求める科学的言説が力を増し、またそれが一つの新たな大きな物語として言説の世界を覆っているという点で、妙に啓蒙思想的な雰囲気をも漂わせている。
2025.06.09
今日、私たちの生活のほぼあらゆる場所・活動が、何らかの消費と切り離せなくなっており、自分が「消費者」たることに何の疑問も持たないことが多いかもしれない。だが、消費者であるとはどういうことなのか、消費の歴史を紐解くことで、消費を通した自分と社会との関係の見方が少し変わるかもしれない。
2025.06.06
宮崎駿は「美少女以外のヒロインは可能か?」という問いに対して、作品を通して「可能だ」と見事に答えてみせた。そのとき、作品は大人の感性に訴える詩情的なアートの志向性を持つことになった。
2025.05.30
選択と集中で大量の資金を一部に投入し、そこだけに膨大な血流が増えても、現場の毛細血管は干上がっているという事態も十分ありえるのだ。実際、こうした交流の場がほとんどない職場を鑑みるに、論文ランキングが落ちるのもやむなしという印象が残る。
2025.05.27
そもそも嘘とは何だろう。この定義の問題からして決して安易に通り過ぎることはできないし、子供の頃から何となくいけない、と聞かされていたのに、意外と定義を意識しないものだ。ただ嘘がいけないこととされている根底には、何かがある。それを考えよう。
2025.05.23
大量生産、大量消費、技術の発達に下支えされた消費資本主義の発展が、全体主義的な管理社会へとつながるという議論は、当時の時代の産物として理解する必要がある。ただこうした議論は、現代の消費社会を考えるための一つの道標として、有用な視座を与えてもくれる。
2025.05.20
21世紀の半ばには高齢者(65歳以上の人)は人口の40%を超え、認知症をもつ人は1,000万人前後と推計されている。そのころ人口は1億人を下回っているのであるから、日本人の10人に1人は認知症をもつ可能性がある。
2025.05.12