本連載は IT 系、つまりコンピュータやらインターネットやらに関する話題を基本的に扱っていますが、今回は澁川祐子さんの『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)というそうした意味でまったく畑違いの本を例外的に取り上げさせてもらいます。
本書の著者とは確か5年前、たまたまその週末上京していたおかげで参加できた文化系トークラジオ Life の花見でご一緒する機会があり、当方のことを覚えてくださっていたようで、献本をいただきました。
本書は食の研究所の連載「食の源流探訪」の書籍化で、この連載を毎回楽しみにしていたワタシは、本書の刊行の話を聞いて嬉しく思いましたが、実際に本として読んでちょっと考え込むところがありました。
そうしたところに津田大介のメールマガジン「メディアの現場」vol.91において速水健朗さんが本書について「Google、Wikipedia、Yahoo!知恵袋時代に本を書くということ」という書評を書いているのを読みました。
本書が扱う日本における人気メニューの起源と歴史というテーマは、類書がないわけではないでしょうし、それこそググった結果と Wikipedia をつまみぐいした内容をあわせれば原稿の体裁を整えることはできるのかもしれません。実際、その程度のつまみぐいで書き飛ばされたと思しき記事がウェブでは大手を振っています。
もちろん本書はそうしたレベルと一線も二線も画すのですが、面白いのは「元祖」とされる店から直接話を聞くことはしないというのを方針にしたことです。
本書の「はじめに」を読み、ウェブ連載当時から著者の文章に感じていたストイックさの理由が分かった気がしましたが、実際には「元祖」とされる店から証言を得たほうが遥かに楽だったでしょう。それも取材には違いないし、それにそうしたお店で聞ける話は「いい話」であることが多く、それに素直に乗っかったほうが読者受けがよいかもしれません。
しかし、著者は「元祖」とされる店が喧伝するストーリー、並びにそうした情報が集積されたネットの情報も同等に信用せず、ナポリタンやコロッケの章が顕著なように定説を疑うところから始め、愚直に文献をあたることで定番メニューの起源を探ります。
これは「元祖」とされる店の多くが嘘を吹聴しているということではありません。同時代にまったく別の人たちが別のルートで同じような料理にたどり着く話は本書にもありますし、自分の店の料理の自負と愛着が現実を「いい話」化させてしまうことは往々にしてあります。人間の記憶には常に整理と合理化が働くものです。
今では当たり前のようにスーパーに並ぶ食材がたった数十年前はほとんど手に入らないものだったことからも分かるように(というか「食材」という言葉自体当時はなかった)、食はとても移ろいやすいものです。それを本書は教えてくれますが、例えば「おふくろの味」みたいに言われることの多い和食の定番である肉じゃがにしても、そのネーミングが定着したのは本書の著者(やワタシ)が生まれたのとほぼ同じくらい、つまりまだ40年も経ってないというのにはやはり驚いてしまいます。
本書はそうした驚きがいくつもある本ですが、著者の筆致はストイックで、ウェブ連載で読んでいた頃はあの忌々しいページ分割に惑わされて気付いていませんでしたが、本になったものを読むと、毎回この料理の話をもうちょっと読んでいたいぐらい、食に例えれば腹八分目で終わっています。
愚直に文献にあたるという本書の方針を鑑みると実はこれが難しい。これはワタシ自身よくあることなのですが、折角苦労して調べて得た知識は、その苦労に対する報酬のごとくあれもこれもと原稿に盛り込みたくなるものです。
むしろ著者は自身のそうした苦労を隠そうとする気配すらあります。本書を読むと「調べてみるとあっさり謎が解けた」という類の表現が何度か出てきますが、調べる対象は半世紀以上前の新聞記事であったり、古くは明治時代の文献なわけで、それにあたっている時点で、ネットに頼り切った人の「あっさり」とは比較になりません。
また本になって通して読むと見えてくる文脈もあります。本書を読むと、日本人がいかに外国から伝来した素材を和食化してきたか、あるいはいかにも外国料理のように見えるものがはじめから日本料理だったかが分かりますが、その「和食化」のパターンや、まったく別な定番メニュー間にある共通性が見えやすくなるのも書籍版を読む利点といえます。
そしてそうした「パターン」「共通性」を理解する上で準拠枠となるのが、本書の冒頭に示される黎明期、受容期、普及期、発展期という新しい料理を受け入れる四段階になるわけです。
上で本書を読んでちょっと考え込んだと書きましたが、それは言うなれば、速水健朗さんが書評に書いていた「Google、Wikipedia、Yahoo!知恵袋時代に本を書くということ」の意味です。
本連載は「情報共有の未来」というタイトルですが、ワタシ自身性格が悪いのでニコラス・G・カーやジャロン・ラニアーなど Wikipedia に批判的な人の言説も好んで取り上げるものの、今や死語に近いですが Web 2.0 以降の集合知(本来なら「群衆の知恵」と「集団的知性」の区別をもう少し厳密にやるべきですが)を前提とするウェブサービスは、問題はあれども肯定的にとらえています。
しかし、それが大手を振る時代に書籍を書くとはどういうことなのだろう、自分の原稿はそれに見合う付加価値を与えているだろうかと考えてしまうところもあります。
安易なブログやウェブ連載の書籍化も現状少なからずあり、そうした著者にとって書籍はキャリアにおける箔付け程度の意味合いしかないのかもしれませんが、そうした新刊が横行する中で光るのは本書のような面倒くささを引き受け、しかるべき「文脈」を提示する本だったりします。飛躍的に能力を拡大するコンピュータに人間は負け始め、雇用を失うという問題を扱った『機械との競争』ではありませんが、我々物書きは「集合知との競争」に晒されているのかもしれません。
以下は余談ですが、書評を取り上げた速水健朗さんも『ラーメンと愛国』と日本人と食の関わりを扱った本を書いていますが、これを読んで感心したことがあり、それはラーメンにまつわる個人的なエピソードが一切出てこないところです。
この本にも書かれるようにラーメンは日本人にとって国民食であり、誰しもいろんな場面でラーメンにまつわる記憶があり、ワタシ自身この本を読みながら「そうそう、ラーメンは昔は貧乏と結びついていたよね。そういえばオラが大学受験のとき――」などいろいろ思い当たることがあり、そうした話を入れたほうが絶対読者をひきこみやすいはずですが、速水さんはそれを一切しませんでした。
これは速水さんなりのダンディズムなんだろうと解釈したのですが、後にどこかで(表現は正確ではありませんが)『ラーメンと愛国』で書きたかったのは日本人論であり、ラーメン自体は好きでもないし愛着もないと語っていて拍子抜けした覚えがあります。ただ速水健朗という人は色悪な書き手なので(これは誉めてます)、今でも意識的だったのではないかという説をワタシは捨ててないわけですが......。
そうした意味で『ニッポン定番メニュー事始め』では、著者の定番メニューに対するエピソードが素直に盛り込まれており、織田作之助が愛したカレーを初めての大阪一人旅の際に相席のテーブルで縮こまりながらかきこんだ話や、著者がかつて純粋に料理が好きで通っていた店が実は焼き餃子を普及させた「元祖」の店で、それを謳うこともなく粛々と営業し、ひっそりと閉店していた話など、語られるエピソードは切なさを感じさせるものもあります。
織田作のカレーは、ワタシも大学時代安吾や太宰を愛読した関係で知り、当時大阪に住んでいたので行こうと思いながら一人で行くのが億劫で結局行きそびれたんだよな、あと著者は大学時代にタイを初めて旅行したとき、お茶のことをタイでも「チャ」と呼ぶことに驚いていますが、ワタシは二年前イタリアはミラノ(!)の中華料理屋でお茶のことを「ジャスミンティー」とか説明してもうまく伝わらなくて、同行者が「チャ」とつぶやいたらすぐに伝ったので、思わず「ここでもチャでええんかい!」と日本語で中国人の店員に突っ込んでしまった――というように、読んでいていろんな記憶を喚起する本でもあります。
そして本書を読んでワタシが思い出すのは、「食べ物に対する愛ほど真摯な愛はない(There is no love sincerer than the love of food.)」というバーナード・ショーの言葉です。本書はそのもっとも真摯な愛に相応しい本であり、本文でいろいろ書きましたが、最終的にはそこに行き着きます。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。