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和力発想事典02「奥」

和力表現事典02「奥」

2019.03.01

Updated by Yukimasa Matsuda on March 1, 2019, 18:26 pm UTC

日本語の「奥」

日本語で「奥(おう、おく)」がつくことばを探してみると、「奥地・奥処・奥所」に代表される「深い・最果て・行く末」という意味で使っている場合が多く見つかる。たとえば、日本列島の「奥深い」ところとして「奥州・奥羽」という具合。

「奥座敷・奥書院・奥帳場」も家(店)のなかの一番遠いところにある部屋のこと。そこには、そのなかで一番えらい人、主人や支配人などがたいていいる。また「奥付」も、本の最終ページのことだ。

「奥義(おうぎ、おくぎ)をきわめる」は、学芸・武術の究極の理論。同義で「奥旨・奥秘・奥意」。たどりつくことが困難、という意味で奥深いからだ。その奥義が書かれている本は正統性がある、ということで由緒正しい文書「奥書」となる。

江戸時代、将軍や主君のいるところは「奥」とよばれ、そこに勤めることを「奥勤め」という。将軍やその取り巻きを診察するのは、「奥医師」、将軍付きの御用絵師は「奥絵師」、将軍付きの家老は「奥家老」。主君付きの小姓・坊主は「奥小姓・奥坊主」。女中は「奥女中」。将軍や主君の生活の場は「奥御殿」。将軍付きの女官たちがいるところは「大奥」。

「奥方・奥様・奥御前」というのもある。もともとは尊敬語だったが、ポルノ映画のタイトルにもひんぱんに使われて、なにやら妖しい印象がついた。

また、厳格なイスラム教徒は、女性にたいして、夫以外の男性には肌を見せてはいけない、夫以外の男性と外を歩いてはいけない、と規則があるが、この奥様の「奥」にも、それと似た女性蔑視のニュアンスも感じる。「奥に閉じ込めておく」、である。

「奥知恵」となると、「おそぢえ」のことでネガティブな意味となる。「奥手」もそうだ。「奥の手」となると、秘匿している技。謀略にも使われるとネガティブ感が浮上する。「奥目」も、くぼんだ目で、あまりほめてはいない。「奥底(おくそこ)」は、心に隠している秘密だ。

一方、「奥ゆかしい」となると、一転して心の奥深さが魅力的だ、というポジティブな意味になる。「奥行き」は、物理的な距離にも使うが、心の深さとしてポジティブな意味でも使われる。

このように、「奥」には、物理的に遠いことを示すこともないわけではないが、それ以上に「アンタッチャブル(触れてはいけない、触れられない)」、なにやら妖しい、あるいは普通ではないイメージの強さを感じる。このあたりの事情を西洋と東洋の宗教観の違いからみてみたい。

キリスト教会建築と宗教観

313年に西ローマ皇帝コンスタンチヌス帝がキリスト教を公認したことで、同時に、キリスト教会の建立も許されることとなった。

そこで、それまでローマ帝国が、集会や市場として使っていた横長の建物を教会として使うところからはじまった。ただし、横長ではなく、縦長として使った。入り口を横につくり、正面奥が祭壇である。

天に伸びる垂直線を平面に投影したとき、手前が現世で、奥が天国になる、という想定だ。この奥に伸びる教会建築という発想には、いずれ生まれる遠近法の要素も含まれていた。

▼図1──縦長のキリスト教会。奥が祭壇。右がローマのサン・ピエトロ教会の平面図、330。(『世界建築全集7 西洋II 中世』平凡社、1961)
図1──縦長のキリスト教会。奥が祭壇。右がローマのサン・ピエトロ教会の平面図、330。(『世界建築全集7 西洋II 中世』平凡社、1961)

そういえば、ヒトラーの総統官邸も道路に面した奥行きのない横長の建物だった。ヒトラーは奥行きのなさを解消するために、建物の横を正面入り口にした。いくつもの広い部屋を通過し、ギャラリー仕立ての長い廊下を経て、やっと総統執務室にたどりつく。これによって、神秘性と威厳が高まった。うがった見方をすれば、外国政府関係者に長い距離を歩かせ、疲れさせて、無理難題を通しやすくしようとした、ともいえる。

なかには、あまり奥行きのとれない場所に建てられた教会もあった。ミラノにあるサン・サティロ教会は、祭壇の背後に、もっと奥行きがあるように見せるために、登場したばかりの透視画法を使ってだまし絵(トロンプ・ルイユ)を描いた(ブラマンテ作)。そこまでしても神秘性を高めるために、奥行き感は大事だった。

▼図2・3──ミラノのサン・サティロ教会の祭壇部分の正面と、それを側面から見た写真。正面からだとあまりわからないが、側面では、壁に描かれた絵画であることがわかる。(「Santa Maria presso San Satiro」wikipedia)
図2・3──ミラノのサン・サティロ教会の祭壇部分の正面と、それを側面から見た写真。正面からだとあまりわからないが、側面では、壁に描かれた絵画であることがわかる。(「Santa Maria presso San Satiro」wikipedia)

図2・3──ミラノのサン・サティロ教会の祭壇部分の正面と、それを側面から見た写真。正面からだとあまりわからないが、側面では、壁に描かれた絵画であることがわかる。(「Santa Maria presso San Satiro」wikipedia)

▼図4──サン・サティロ教会の平面図、1482。中央奥の祭壇の後ろにだまし絵がある。だまし絵を描いたドナト・ブラマンテは、この教会も設計している。(『アール・ヴィヴァン叢書 空間の発見I ヴィアトールの透視図法1505』横山正(監修)、リブロポート、1981)
図4──サン・サティロ教会の平面図、1482。中央奥の祭壇の後ろにだまし絵がある。だまし絵を描いたドナト・ブラマンテは、この教会も設計している。(『アール・ヴィヴァン叢書 空間の発見I ヴィアトールの透視図法1505』横山正(監修)、リブロポート、1981)

ちなみに、本の上部のことも「天」と言うが、冊子型の本のはじまりは聖書だったので、聖書にも、教会建築と同じように、現世と天国を見立てたからなのだろう。

余談だが、当時の建築は、石をただ積み上げていくだけなので、横長の窓は技術的につくれない。そこで窓は、縦長ばかりとなった。採光を求めるためには上に建物が伸びていくしかなかった。

のちにヴォールトというアーチの建築法が開発されて、少ない柱でも天井を支えられるようになり、広い窓もつくれるようになったが、窓の形状はさほど変わらなかった。天に伸びる垂直イメージはやはりはずせなかったのだろう。

12世紀後半からはじまったゴシック建築ブームでは、その窓の縦長がより強調された。ゴシック建築は、なかなかキリスト教になじまない民衆を感化するために、森のイメージを借りた建築様式といわれている。かつて、民衆は森にいる精霊など多くの神に帰依していた。彼らがスムースにキリスト教に帰依できるように森らしさが欲しかった、つまり、帰依の環境を整えたのだった。

こうしたキリスト教会の窓は、たとえ縦長でなくアーチ状だったとしても、そこはステンドグラスでおおわれた。もちろん外を見るためのものではない。光がさんさんと注ぐよりは一条の光のほうが神秘的に感じる。したがって窓は、神秘性を保つためのぎりぎりの開口部、といったニュアンスが強い。

▼図5──フランス、ノートルダム寺院のステンドグラス。(「ステンドグラス」wikipedia)
図5──フランス、ノートルダム寺院のステンドグラス。(「ステンドグラス」wikipedia)

もともと中世ヨーロッパは、ほかの稿でも触れているが、五感は神のものであり、風景を楽しむ習慣はなかった。むしろ、窓から外を見る、なんて考えなかった、といったほうが近い。

イギリスに、ピーピング・トム(覗き見トム)の伝説がある。ある領主の夫人ゴダイヴァは、あるとき夫である領主の圧政をいさめた。領主は、あろうことか、裸で馬に乗って街を走ったら、圧政をやめてやる、という大人げない提案をした。ゴダイヴァは意を決してその提案をのんだ。民衆は夫人の厚誼に答えるため、裸をみないようにした。ところがトムだけは覗き見をした。

11世紀ごろから広まった話だが、窓から外を見ることをいさめるための教訓話のように思える。ちなみに、チョコレートメーカー、ゴディバの裸の女性が馬に乗っているロゴマークは、この話に由来している。

▼図6──チョコレート・メーカー、ゴディバのロゴマーク。
図6──チョコレート・メーカー、ゴディバのロゴマーク。

また、ヨーロッパを襲ったペスト禍のとき、窓から病気がやってくるとおそれられたことも窓を開けなかった理由のひとつ。そのため窓は、外にゴミを捨てるための単なる開口部となった。窓を塞いだあとをタペストリーで飾ることも流行した。

したがって、教会の窓の用途は、神秘性を保つためだけ、といっても過言ではないだろう。神がいる天とつながるイメージを補強するための強力な武器である。

この強力に天を求める発想は、中東の砂漠から発祥した一神教である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に特有である。それは、砂漠という環境があまりにもハードすぎたからだ。砂漠のなかで迷ったとき、行き先を複数で話しあってもすぐにはまとまらない。即断しないと死ぬこともある。そこでリーダーは、ひとりで十分となった。それが神概念につながっていく。

即断即決で行動するところから、こうした一神教は、「動」の宗教といえそうだ。たしかに、坐っているキリストというイメージは、「最後の晩餐」くらいしか思い浮かばない。

アジアの仏教建築と宗教観

キリスト教に比べて、仏教のお釈迦さんは坐っている。坐像も多い。坐れば、視野が限定される。風景は連続したものというよりも点として捉えられる。いわゆる点景であり、距離感が稀薄になる。遠近法はなじまない。「動」のキリスト教と比較したら仏教は「静」だ。

この点景ということでいえば、もともと東洋の神はアニミズムが基本で、あちこちに神は偏在している。だから神のあり方が点景そのもの。神は、木、岩、河、山、風景にちょっとした特徴さえあれば神の存在を感じる。ご来光に神々しさを感じるのは東洋人ぐらいらしい。欧米人はきれいだと思ったとしても、そこに神の存在を感じたりはしないようだ。

そんな東洋人のなかでも、日本以外の仏教建築は、正方形を基本としながらも建立スペースとしては、奥へ奥へと伸びていく、キリスト教建築と同じく、奥が神聖、という考え方で建てられている。中国、韓国、ベトナム、カンボジアの宗教建築も大方縦長のようだ。ところが、日本の仏教寺院は、基本的に正方形か横長が多い。

▼図7──カンボジア、アンコールワットの平面図、12世紀。中央の正方形を長方形が囲んでいる。(『世界建築全集4 インド・東南アジア・中国・朝鮮・中南米』平凡社、1959)
図7──カンボジア、アンコールワットの平面図、12世紀。中央の正方形を長方形が囲んでいる。(『世界建築全集4 インド・東南アジア・中国・朝鮮・中南米』平凡社、1959)

▼図8──法隆寺の平面図、7世紀。中央左の五重塔は正方形だが、それ以外の、右の3:2の金堂もふくめて、すべて横長。(『世界建築全集4 インド・東南アジア・中国・朝鮮・中南米』平凡社、1959)
図8──法隆寺の平面図、7世紀。中央左の五重塔は正方形だが、それ以外の、右の3:2の金堂もふくめて、すべて横長。(『世界建築全集4 インド・東南アジア・中国・朝鮮・中南米』平凡社、1959)

日本の横長

イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニアーノ神父は、16世紀後半の安土桃山時代、ローマに遣欧少年使節を送るために尽力するなど数回来日し、日本各地を巡察した。ヴァリニアーノは、適応主義をとり、布教する国の文化・習慣にあわせることを主張していた。フランシスコ会やドミニコ会の、自分たちのやり方を曲げない布教の反省にたったものである。

ところがヴァリニアーノは、日本の仏教寺院がすべて横長なのに驚いた。ヴァリニアーノに言わせれば、横長は「悪魔の形式」(藤森照信『人類と建築の歴史』)である。キリスト教会建立に際して、障子や畳はまだ許せるが、横長だけはがまんならん、といって帰国した。

日本文化を尊重せよ、といっていたはずのヴァリニアーノの横長敵視発言は、後に来日してきた宣教師たちの日本文化軽視、悪魔視、異端視につながり、これがキリシタン弾圧の遠因になったともいわれている。

日本文化には、たしかに横長が多い。中国・韓国では箸を縦に置き、欧米でもスプーン、フォーク、ナイフは縦に置く。ところが日本では箸を横に置く。お膳も木目が横になるように置くのが礼儀らしい。襖や戸は横にスライド式。笛吹童子や牛若丸が吹く笛も横笛。

一番えらい人が座る上座も、座布団を横に並べたところから横座とよばれた。神社や寺院の縁側も進む方向に横に張る、つまり、壁に垂直に板を張った。これを「切目縁(きりめえん)」という。壁と平行に張った廊下は「くれ縁」とよばれているが、切目縁のほうが格上。能舞台も切目縁である。

▼図9──能舞台の平面図。舞台のところの板が横張り。ほかはすべて縦張り。(マツダオフィス作成なのでクレジット表記は不要)
図9──能舞台の平面図。舞台のところの板が横張り。ほかはすべて縦張り。(マツダオフィス作成なのでクレジット表記は不要)

板が手前に伸びているので、一見すると、縦のように感じられるが、板を横に張っていくから、「横」という認識のようである。

一方、縦は、異常事態と捉えられる。たとえば、日本で箸を縦に置く場合は、ご飯に死者を弔うために垂直に箸を立てる枕飯くらい。

かつての日本には、縦ストライプ模様がなかった。いや正確には、切目縁で説明したように、横に並んでいる、という意味で、縦でも横でもすべて横ストライプという認識である。戦国時代に、陣営に張られた幔幕は、どうみても縦ストライプだが、横ストライプと理解していたようだ。

ところが、16世紀の室町時代、ポルトガルや東南アジアから縦ストライプの布が輸入された。海外からやってきたということで、はじめて縦ストライプの存在に気づいた。昔から日本人は舶来に弱かったのだろう。そのカッコよさにしびれた茶人たちは、茶器や茶を入れる袋(仕覆〈しふく〉)に使った。単なるボロ切れを縦ストライプというだけで手に入れようとして身代(財産、しんだい・みのしろ)をつぶした茶人もいたという。

▼図10──源頼朝ゆかりの仕覆といわれている茶入れ袋。(『ミステリアス・ストライプ──縞の由来』住友和子編集室/村松寿満子(編)、INAX出版、2002)
図10──源頼朝ゆかりの仕覆といわれている茶入れ袋。(『ミステリアス・ストライプ──縞の由来』住友和子編集室/村松寿満子(編)、INAX出版、2002)

江戸時代でも、江戸に表敬訪問に来たポルトガル人の召使いが着ていた縦ストライプの衣服に感化され、江戸の町人の間で縦ストライプが流行した。流行は武士にも波及したという。

▼図11──喜多川歌麿〈相合傘〉1798。
図11──喜多川歌麿〈相合傘〉1798。

ともあれ、日本の伝統的な絵画にも、奥行きよりも横長というか、その水平観が認められる。点景の発展形と思われるが、全体をフラットに一望できることをよしとしている。2次元性といってもよいかもしれない。そこから浮世絵などの輪郭を強調した2次元絵画が生まれた。

▼図12──京都市中とその周辺を描いた、岩佐又兵衛〈洛中洛外図〉1615(「洛中洛外図」wikipedia)
図12──京都市中とその周辺を描いた、岩佐又兵衛〈洛中洛外図〉1615(「洛中洛外図」wikipedia)

美術評論家の高階秀爾さんは、このことを、西洋絵画(芸術)はあくまでも画家の視点が主役だが、日本は描かれる対象が主役。それを描くのにふさわしい視点が選ばれる。

「一つの視点による描き方は、一つの中心を絶対的な価値とする西欧の一元的思想に対応し、また同一の画面のなかに複数の視点を共存させる考えは、互いに矛盾するさまざまな価値の共存を認める日本文化の多元性に並行するもの」(高階秀爾『日本人にとって美しさとな何か』)と。

奥と横長

その一元的思考とは、まさに一神教そのものである。

一神教にとって垂直線の彼方の天にいるのは神ただひとり。神と対立する悪魔は地上のあちこちにいる。この発想は明解だ。そして、殉教者が神のような存在として持ち上げられることがあったとしても、悪魔は決して神にはなれない。改心もありえず、あくまでも悪魔のままだ。

ところが、日本の神は少々複雑。神話上の神は不動だが、人が死ぬと神か怨霊になる。「誤解を恐れずにいえば、神も怨霊の仲間だ。中でも不遇を託(かこ)ち、死んだりすると魔になって災いをもたらす。そこで神に祀り上げて怒りを鎮めようとする。これが日本の神の特徴である。祀られれば神であり、祀られなければ怨霊となる」(松田行正『はじまりの物語』)。

菅原道真は、えん罪で左遷され、その地で死んだ。死後、京都で天変地異が続いた。実際は地球温暖化による気候変動だったのだが、朝廷は、道真が怨霊になってうらみを晴らそうとしている、とおびえた。そこで、道真の怨霊を鎮めるために、京都北野に天満宮を建てた。道真という怨霊を神にすることで、これ以上の言及を避けようとしたのだった。

これは、恐いものを奥にしまい、一切触れないようにしたということでもある。一方、恐くないものは、手の届く範囲の水平に置いた。これが「横長」観の背景にある。いいかえれば、キリスト教が考えたような、地上にそのまま投影する垂直線は、日本では、神につながるし、怨霊にもつながる恐い線でもあった。

そこで垂直線上でも水平線上でもない、どこか別のところに神か怨霊を隠した。隠された場所までの距離はさほど関係がない。点景にかんする考え方と同じ。そこは、縄を張って結界をつくり、みだりに近寄らないための目印をつけた。「奥」はその延長上で使われるようになったことばのひとつ。アンタッチャブルな場所である。

このように、日本の「奥」は、もともと異次元の場所として設定され、そこにいたるまでの物理的な距離よりも、「異界」という観念を重視していた。それが、はじめのほうで述べた「奥」がつくことばが持つ「妖しさ・怪しさ」につながっている。

先に触れた日本の伝統的な絵画の、多くの視点が共存しているフラットな画面や、浮世絵のように背景を描かない、背景を省略する平面的な表現方法は、「観る者が画面の奥行きに入って行くことを禁じ」(高階、前掲書)ておきたいからだ。ここにも本稿で言う「奥」が物理的な「奥」ではなく、棚に上げた「奥」であることを示しているように感じる。

ちなみに、全体主義国家ばかりではないが、ニュースででてくる「当局発表」の「当局」や、警察ドラマなどで犯罪捜査を途中で中止するときによく使われる「上の意向」の「上」などは、「奥」の別称かもしれない。

参考文献
『はじまりの物語──デザインの視線』松田行正、紀伊國屋書店、2007
『人類と建築の歴史』藤森照信、ちくまプリマー新書、2005
『日本のかたち縁起──そのデザインに隠された意味』小野瀬順一、彰国社、1998
『日本人にとって美しさとな何か』高階秀爾、筑摩書房、2015

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松田 行正(まつだ・ゆきまさ)

書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。