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イスラエル 荒地 来訪 イメージ

1964年、日本人が初めて「キブツ」を体験した(2)

2019.07.17

Updated by Hitoshi Arai on July 17, 2019, 13:24 pm JST

キブツダリアでの研修

シナイ半島で第二次中東戦争が勃発したのが1956年、六日戦争と言われる第三次中東戦争は1967年である。したがって、14名がキブツ研修に出かけた1964年は、ちょうどその戦争の合間の比較的政情の安定した時期であったようだ。

当時は、戦争とは国と国との戦いであり、「始まり」と「終り」があった。何時、何処で、何があるかわからない、現在のテロのようなことはなかったため、研修参加者には安全上の不安はさほどなかったという。

14名が研修で1年間暮らしたのが、イスラエル北東部(ハイファの東約30キロ)にあるキブツダリアである。

・キブツダリアのホームページ

内山氏によれば、ダリアの人口は約500名、果樹園や酪農以外に二つの工場も持っていた。工場で生産していたのは、せっけんと水量計だという。この工場の収入が大きく貢献し、ダリアは比較的裕福なキブツであった。

キブツの始まりは前回説明した通り農業共同体であったが、農業だけでは次第に共同体の経営が難しくなり、多くのキブツが工場を始めている。キブツが工場を始める際にも、「ユダヤ機関」から資金が貸し付けられたという。ユダヤ機関とは、イスラエルが建国される前に、ユダヤ人を代表した国際的機関である。

農業共同体として始まったキブツ自体が、やがて事業を経営する会社のようになり、新規事業開拓を進めたようなものである。ここにもイスラエルらしさ、を見ることができる。

工場を運営するようになると労働者も必要であり、キブツのメンバーだけで働くのではなく、周辺のアラブ系住民を雇うようになっていった。キブツが開拓したような場所は決して豊かな土地ではなかったため、近隣に住んでいたアラブ系の住民にとっても良い仕事の機会となったのである。

イスラエル全体で見ても、建国後まだ15年しか経っていない時期であり、まだまだ国として貧しい段階だったので、キブツダリアでの生活は相対的に水準の高いものであったようだ。

内山氏ご自身には、果樹園での労働が割り当てられた。朝6時頃から労働を開始し、1-2時間の労働の後、大食堂で朝食、昼まで再び働いたあと、昼食を経て15時まで午後の就労、というのが一般的なパターンだったようだが、この研修生達は、労働は午前中だけで、午後はヘブライ語、歴史、キブツの理論、などの学習プログラムに当てられたという。

イスラエルの各地も見て回ったそうだ。 やはり研修生を受け入れたイスラエル側にとっては、イスラエルの理解者を一人でも増やす、という目的が有ったものと考える。滞在した部屋も大学の寮の相部屋のような雰囲気で、内山氏には全く違和感はなかったとのことである。

キブツの正規メンバー同様に、衣類もすべて支給、小遣いも支給されたそうで、小遣いが出るとハイファの町まで遊びに行ったという。また、ダリアには日本からの研修生だけではなく、アメリカやブラジルからの短期滞在者もおり、彼らとの交流も有ったという。研修生にとっては、イスラエルを知るだけではなく、世界の人々と交流する機会ともなった。

1964年、昭和39年といえば、まだ1ドル360円であり、日本人には海外旅行も一般的ではなかった時代である。実際に参加した14名の研修生が、このコミュニティを理想的な平等の社会と考えたかどうかは人によって異なるとは思うが、少なくともこのような国際交流の機会は大変大きな刺激となったであろうことは想像に難くない。

研修の影響

このセミナー以降、1966年にイスラエル外務省国際協力局主催で二つのグループが派遣された。また、1967年には、日本キブツ協会として研修生23名を派遣し、制度化されたという。

日本キブツ協会は、手塚信吉という人が日本の農村の将来を考える中でキブツを知ったことをきっかけに設立したと伝えられる。当時の若者はキブツに大きな関心を持ったようで、共同体に関心がある人、平和運動をしている人、ヨガを実践している人、現状に疑問を抱いている人、など様々な人々が協会に集まったという。

ただ、それも1970年頃がピークだったようだ。1973年には変動相場制に移行したことで一気に円高となり、海外旅行が徐々に身近になってきた時代でもある。どこでも良いから外国へ行ってみたいという若者には、少なくとも食と住が保証されているキブツ研修プログラムは魅力だったようだ。

しかし、このような参加者は残念ながら現地農場での労働に耐えられずに、すぐにヨーロッパへ出ていった例もあったという。受け入れ側に迷惑を掛けたのではないかと危惧する。1976年からはイスラエル大使館系の日本コムナー協会が派遣プログラムの主体となっていたようだが、2000年には派遣プログラムは終了したそうである。

1964年の14名の研修生の滞在費用はイスラエル側がすべて負担したとはいえ、研修生は多少の労働力の足しになったと考えられる。また、もともと共同体なので、食事係が500名分の食事を用意するのも514名分を用意するのも大きな違いにはならなかったであろうことを考えると、受け入れ側にもそれなりのメリットがあったのではないだろうか。

特に、イスラエルという難しい立場にある国が、少しでもその現実を理解してくれる外国人を増やすという意味では、イスラエル側にとっての意味は大きかったのではないだろうか。少なくとも、偏りのあるニュース報道等に踊らされないイスラエルの理解者は増えたはずだ。

国際的な緊張関係が複雑化するなかで、このような地道な取り組みは、現在の日本にとっても必要だろう。日本にも留学生受け入れ支援制度や外国人技能実習制度があるが、安価な労働力確保の手段のような目的ではなく、より日本を理解してくれる外国の若者を増やす、という目的でそれが結果につながるような制度として戦略的に運用してほしいと思う。

少なくとも各国のメディアのフィルタを通した情報によって外国を理解するのではなく、自分の眼で見て体験する意義は、近年ますます大きくなっているのではないだろうか。

お話しを伺った内山氏は、片道1カ月かけで船でイスラエルを往復したそうで、1年間の研修とはいえ、計14カ月を費やした。このため、1年間の休学を含め大学には2年余分に居た、と笑っておられた。因みに、本人が負担された往復の旅費は、10万円程度だったという。昭和39年の国家公務員初任給が19,100円だったそうなので、かなりの負担であったことは間違いない。

京都大学卒業後、国際的な仕事をしたいと考えた内山氏は日本郵船に入社された。その後国際貨物専門の日本貨物航空(NCA)で国際的な活躍をされ、社長として会社を大きく育てられた。1年間のキブツでの経験は、外国人とのコミュニケーションの実践という意味で大いに役に立ったという。国際ビジネスでのキャリア形成にキブツ経験は十分に活かされたようだ。

1964年に20代で参加された方々の多くは、現在70代後半であり、それぞれの分野で日本の高度成長を牽引されてきたはずである。14名の研修生一人ひとりのその後を追ってお話しを伺うことができれば、もっと新しい発見があるかもしれない。

元祖シェアリングエコノミー

言葉がやたら軽く感じられるが、キブツは元祖シェアリングエコノミーであるともいえる。すべての資産を共有して生活し、共同で仕事をして、子育て・教育も集団として行っている。このシステムをそのまま現在の日本に応用できるという意味ではないが、現在我々が抱える課題の解決に、そのコンセプトを参考にすることはできるかもしれない。

実際、コワーキングスペースの事業で急成長しているWeWorkのCEOアダム・ノイマンは、まさにキブツで育っており、WeWorkのコンセプトにキブツでの生活が影響したといわれている。

日本の多くのコワーキングスペースは、その多くが大手不動産会社が関与しており、まさにシェアオフィスという「不動産的視点」で営業しているが、WeWorkの価値は「スタートアップ・コミュニティへのアクセス」である。WeWorkに契約すれば、そこに入っている他のスタートアップが作っているコミュニティの一員となることができるのである。

つまり、日本のコワーキングビジネスでは、オフィス機能へお金を支払っているのに対し、WeWorkではスタートアップ・コミュニティへのアクセス権にお金を支払っているのである。オフィス機能をシェアするだけではなく、そこにもっと大きな価値を生んでいるのだ。

子育てなどは典型的な例かもしれない。保育園という箱を作る代わりに、コミュニティの機能を醸成し、コミュニティとしてメンバーが労働力をシェアしながら若い両親の育児を支援する、というような仕組みができないだろうか。介護も同様であり、福祉事業をシェアリングエコノミーを基本にしたコミュニティ・サービスとして実現できないものかと思う。

また、キブツダリアが工場からの収益で支えられていながら、農業や酪農を維持していることにもヒントが得られるだろう。従事者が減って維持の難しくなってきた一次産業を、二次、三次産業等と組み合わせることで新たな付加価値を生む方策がないだろうか。

いずれにせよ、生産人口減少に直面している日本の視点から、限られたリソースで生産活動を効率的に実践してきたキブツの活動を振り返ると、鍵は「コミュニティ」と「シェア」にあるように思う。ブームのハイテクイノベーションだけではなく、このような面でもイスラエルに学ぶ所はあるかもしれない。

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新井 均(あらい・ひとし)

NTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu