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メディア 揺籃 イメージ

AIはメディアであり、AIはメッセージである。AI時代の非広告

2019.10.11

Updated by Ryo Shimizu on October 11, 2019, 08:07 am JST

マーシャル・マクルーハンは、それまで当たり前だとみんなが信じ込んでいたものに新しい視点を導入したことで知られている。
特に重要なことのいくつかは、彼のいう「メディア」の定義だ。

彼は「話された言葉」と「書かれた言葉」、「数」、「衣服」など、人が生み出した道具はすべてメディアだと定義し、そこからグーテンベルク以降の世界やテレビの時代を再解釈し、最終的には「グローバルビレッジ」という、全世界の共同体を強く意識させた。

この着想が現在のパーソナルコンピュータやスマートフォン、インターネットの出現に繋がっている。

マクルーハン曰く「誰が水を発見したのかは知らないが、魚でないことは確かだ」

メディアにどっぷり浸かっていると、むしろメディアのなかに自分が在ることに気づくことができない。魚が川に水があったのだと意識できるのは、釣られて自ら飛び出してしまった時だけである。

マクルーハンは、20世紀でもっとも興味深いメディアのひとつだった超大国アメリカ合衆国を把握するために、あえてアメリカに住まずその隣国であるカナダのトロントに住んだ。

マクルーハンはメディアは人間の能力を拡張しつつ同時に分断すると解き、メディアの効果を構成する4要素(Tetrad of media effect)を説いた。

マクルーハンのいう4要素とは、「Enhances(増強する)」「Obsolesces(衰退させる)」「Retrieves(回復する)」「Reverses(反転する)」の四つであり、これらは、増強されたものの裏返しとしての衰退させられたものと回復するものがあり、衰退させられたものと回復されたものが組み合わさった結果生まれるのが反転されたもの、という構造を持っている。

ちなみに矢印は筆者がつけたものなので本来の意味とは変わってしまっている可能性があることを付記しておく。

この基本構造でメディアを整理するとわかりやすくなる。
たとえばマクルーハンが最初に着目したグーテンベルクの活版印刷のテトラッドはこのようになる(参考文献:「マクルーハンはメッセージ」服部桂)。

活版印刷以前の世界では、本といえば写本だけだった。
写本の場合、書き写すことそのものが困難なため、「誰が最初に書いたか」はほとんど重視されず、たとえば師匠の言葉を弟子が書き留める、というような方法によって作られた。とりわけ重要だったのは教会で、教会は聖書の写本の一部を神父が朗読するのを聞きに行く場所だった。

つまり写本の時代は聴覚的世界が主流で、識字率も低かったのである。
ところが活版印刷が実現すると、写本の必要性は急激に低下し、誰が話した言葉を著したのかということよりも、誰が書いたかということが重要になり、作家、著者というものの力が増強された。

その結果、写本は必然的に衰退し、教会の権威が失われようとした。そこで教会の権威を回復するために活版印刷をむしろ活用することで免罪符がうまれ、権威を回復しようとした。

活版印刷によって一度失われた聴覚と、権威の合成されたものが反転してラジオとなっていった。
これはそういう解釈のテトラッドである。

もうひとつ、ポール・レビンソンによる例を挙げよう。

ポール・レビンソンは同じ構造でラジオのテトラッドを描くことを試みた。
レビンソンによれば、ラジオが増強したのは、人の声である。人の声を拡張し、遠く離れた場所まで届くようにした結果、それまで最速のメディアだった活版印刷と電信を組み合わせた新聞という視覚的メディアが衰退した。

同時に、それまで形骸化していた街の触れ役(タウンクライヤー)の地位が復権し、衰退した視覚と組み合わさってテレビへと反転した。

この二つの例が妙にしっくりくるのは、基本的には気のせいだということに留意しなければならない。
どちらも、既に反転した先がわかっていた上で後付けで作られたもので、テトラッドはどのような粒度でも描きうる。
たとえば活版印刷が反転した結果ラジオに行くというのは正しいと思えるが本当にそうだろうか。

活版印刷のテトラッドと、ラジオのテトラッドの間には重大なギャップがあると僕は思う。それは新聞である。
ラジオのテトラッドで唐突に新聞が「衰退されたもの」として登場するが、新聞がなにかの反転した結果だったと考えた場合、それはどのようなテトラッドの結果なのだろうか。

偉大なる先人たちの業績に敢えて挑戦する愚を犯せば、たとえば新聞に反転するテトラッドを僕は次のように考える。

多くの先人が指摘するように、新聞とは、視覚的情報伝達と電信が組み合わさったものだ。
つまり新聞は電信が反転した結果うまれたものだと考えるのが自然である。

電信がメッセージの伝達速度を拡張し、郵便を衰退させたのは明らかで、その結果、復活したのは村社会の権威である。ここではそれを「長老」と表現しているが、郵便的なメッセージによって作られる権威は帝国的で、電信的なメッセージによって回復する権威は村社会的である。

たとえば、郵便的な時代には、絶対王政のような帝国的権威が強かったはずだ。なぜなら郵便にはコストがかかり、郵便網の整備には多大な資産と組織を必要とするため、必然的に郵便の送り主やそれを維持する機構というのはもっぱら帝国的な巨大なものに依存していたはずだからである。

反対に、郵便によってかつて失われた権威は、村社会の長老や、なにかの専門家といったもので、つまり身近にいる物知り爺さんの語ることよりも、遠くの見たこともない王様の権威のほうが強く意識された時代である。

電信も郵便と同様に電信網の整備と維持にはコストがかかるのだが、情報伝達そのものは物質をともなわないので、一回あたりの情報伝達に関わるコストは激減する。激減したからこそたくさんの情報を伝達することができるようになったわけだ。

電信によって復活したのは、すぐ隣にいるかのような高速かつ濃密な村社会のコミュニケーションであり、専門性を持った人々の権威と考えられる。年に一度しかお触れをださない王様よりも、毎週のように新しいことを教えてくれる長老の実用的な知識のほうによりありがたみが出る。

長老的専門知識と、郵便が組み合わさり反転したものが新聞であると考えられる。新聞は郵便物と酷似した流通ルートで毎日頒布される。
そこに書かれたものは、王族的な権威による言葉ではなく、長老的な権威、すなわち平民の専門家や科学者や有識者による言葉で、人々は帝国と人民のギャップをどんどん感じるようになる。もしかすると、新聞が反転した結果うまれたのが民主主義なのかもしれない。

このようにテトラッドはどのようにも描くことができるし、同じメディアについてであっても、複数の解釈があり得る。これは非常に便利なフレームワークであって、大学の学科によっては学生にテトラッドを書かせたりしているらしい。

テトラッドに正解はないというのが僕の解釈なので、「これが正しいテトラッド」というものはないと思うが、僕なりに今起きてることとAIを結びつけて一度考えてみると、このようになった。

ただ、本当を言うと、これはソーシャルメディアの複数の性質とAIの性質をかけあわせたテトラッドであり、完璧とは程遠いと考えている。だけれども、どうしてこのような世界認識になったのか、まずは聞いてほしい。

AIが増強するのはあきらかに認識能力と判断力と想像力である。その結果衰退するのはなにかというと、知的優位だ。先ほどの新聞の例でいえば、まさしく新聞によって強化された長老的権威である。なぜならば、機械によって知的能力が強化されれば、逆説的に人間個人の知的能力による優位性がなくなるということである。なぜ世界の知識人が、AI支持派とAI脅威派(規制派)の真っ二つにわかれるのかといえば、長老的権威を持つ人々にとって知的優位性の衰退は自分たちの権威の失墜を直接意味するからである。

だから誤解を恐れずにいえば、今の世界でAIに対して真剣に取り組んでいるのは、実際的には長老的権威を持たない若い研究者や、それまであまり評価されてこなかった傍流と見なされていた研究者たち、そして僕のように学位を持たずに大学に籍を置く在野の研究者だけである。

最近になって次々とソーシャルメディアを起点として既存の権威が失墜しているのは偶然ではない。むしろAIを推進すればするほど自動的に「賢い人ってそんなに偉くないんじゃね?」という認識が広まって行くはずだ。

それによって回復したものはなにかというと、信頼、熱血、チームワーク、とりわけ倫理である。

特に倫理(Ethics)はここ数年のAI研究者やAI企業たちにとっての中心的な話題のひとつで、なぜならば、人は知性が暴走すれば暴力的なものになることを歴史全体を通じて知っているからで、自分たちでも手に負えないほどの知性を持つ機械が出現したときに(そしてほとんどそれは現実になっている)、自分たちをどう守るかということに興味関心が行くのは当然だからである。

AIそのものと、AIを作る動機を持つヒトの両方に高い倫理観が求められ、いかにして倫理的であるかということの議論に時間が費やされるようになっている。いま、大手のAIベンダーでAIに関する倫理規程を持っていない会社はない。

論語による倫理をベースとして暴走する資本主義に歯止めをかけようとした渋沢栄一が一万円札になる時代というのは、まさしくこの時流に符合しているし、体格で劣る日本人がひたむきに外国人選手に立ち向かって行くさまが日本中の共感を呼ぶラグビー・ワールドカップも、無関係とは思えない。時流というのは、同時多発的に発生するものであり、時代が呼応していることによっておきる。#MeToo運動も同様だろう。

その結果、反転してうまれるものはなにか。
これは全く未知の領域に近いが、僕は非広告であると思う。最近、YouTubeからの直接の収入を目指さない表現者としてのYouTuberが急激に増えているという気がする。僕自身もYouTuberになってみたが、これはこれでブログを始めた時のような新鮮さと効果がある。

その結果、いまの広告は以前に比べて圧倒的に押し付けがましい(マクルーハン的にはHotな)ものになり、むしろ広告の入ってないYouTube番組の方が見やすいという逆転現象を生んでいる。

そもそも15秒でも長いとは言えなかったのに、4秒くらいでスキップされてしまう広告に従来的な手法がどれだけの意味を持っているのか推し量るのは難しい。

高いお金を払って15秒フルできっちり見せる広告を喜んで見ている視聴者はたぶん一人もいないだろう。
それなのに不思議なのは、YouTubeには昔のコマーシャルをまとめた動画がアップロードされており、それはみんなが懐かしく見ることだ。
もしくは、明らかにコマーシャルなのに長尺の動画を好んで見ることだ。

風向きは非広告に大きく傾いている。その結果登場するのはエンゲージメントという概念だ。
つまり「出会い」である。広告ではなくて「出会い」。企業と消費者という一方通行のコミュニケーションではなく、双方向のコミュニケーションが主流になる。ひとつのあらわれがゴールデン街のブームや、チームラボのブーム、タピオカミルクティーのブーム、ナイトプールだろう。

なぜそういう場所に人々が出かけたいと考えるかといえば、そこに行き、写真を撮り、ソーシャルメディアにアップロードすること全体がひとつの消費・拡散体験であり、AIDMA(Attention→Interest→Desire→Memory→Action)から、AISAS(Attention→Interest→Search→Action→Share)になったよりも過激な変化が今起きている。AISASのモデルではいまのコミュニケーションを定義できない。

強引に考えれば、そもそもAttentionが起点になっていること自体が間違いである。強いて言えば,(Action→Share→Attention→Synchronize)というより短いプロセスであり、Attentionを引くのは誰かがActionした結果に過ぎない。そして今の消費行動は同化(Synchronize)したいという本能からうまれている。

今の広告はどれもAttentionを起点としているから押し付けがましくうまくいかない。反対に、ActionとShareが起点になっているものはうまくいく。それがいわゆる「インスタ映え」などと呼ばれるもので、人はShareする前提でActionをしている。逆に言えば、ShareしないならActionしないし、消費も行動も即物的なものなので、Memoryする必要もない。新しいカメラを買ったのに誰にもそのことをシェアしないなんて有りえない。むしろシェアすることを前提とせずにカメラを買うことがありえない。スマホもカメラもシェアするための道具であって、目的はシェアすること。シェア自体が消費者にとっての報酬になっているという構造である。でなければあんなにおなかが膨れるミルクティーが流行する道理がない。

だれもタピオカミルクティの広告をみた記憶がない。でも、タピオカミルクティの画像は頻繁に目にする。だからタピオカミルクティが売れる。
これは単なる消費行動だけでなく現代人のライフスタイルそのものにも影響している。

たとえば先日遊びに行ったインフォバーンのオフィス。
まるでWeWorkやサードウェーブコーヒーのような雰囲気である。

その意味ではよく考えると自分のところのオフィスも同じような感じだった。

こちらもオフィスを訪れた人が、思わず写真を撮って帰りたくなるような場所、というのをもともと志向している。
本棚に並べた様々なジャンルの本は、我々がAIを多様なものとして捉え、人類が活躍する全ての場所に役立たせていくというメッセージでもある。

そう考えると、電通が掲げていた、トータル・コミュニケーション・サービスという言葉を思い出す。

いまやコミュニケーションの全体がトータルよりも広い範囲、ライフタイム全体に渡った、いわばホール(Whole)・コミュニケーションを想定することが必要で、それは単発のイベント企画やWebデザインやパンフレット、テレビCMやYouTube広告、バナー広告でももはやカバーできない。これからの広告代理店はコミュニケーションについて根本的に考え直す必要があるだろう。

もうひとつ最近ショックだったのは、note.muで落合陽一さんの有料マガジンが始まったことだ。

何がショックかといえば、その価格である。たしかにもっと高い料金のサロンもある。けれども、かつて定価1200円の月刊誌を「高い」と文句を言われながらやっていた身からすると、たった一人の著者による、おそらく1/100くらいの文章量のマガジンが月額4000円近い価格で、しかもそれを買う人が少なからずいるというのは驚き以外のなにものでもない。買う人にとってはそれだけの価値がある内容なのだろう。僕も個人的に彼のファンではあるが、そこまで払えるかと言われるとまだ自信がない。ましてや自分も同じような価格帯で同じようなことができるかと問われれば、そのプレッシャーに耐えられるかどうかも自信がない。しかし。読者にこの価格設定についてこれるかを問いかけるのは、マクルーハン的にクールである。スーパークールである。

これほど時代は大きく動いているのだ。

メディアとしての落合陽一さんのテトラッドを書いてみるのも面白いかもしれない。
その楽しみは読者諸氏に譲るとしよう。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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