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松田行正

和力表現事典08「マージナル」

2019.10.11

Updated by Yukimasa Matsuda on October 11, 2019, 13:40 pm JST

辺境の国日本

「マージナル」とは、「限界」という意味もあるが、ここではざっくりいって「周辺・境界・辺境」として展開する。

日本はヨーロッパから見て極東、つまり辺境にあたる。だから西洋人にとって謎が多く、マルコ・ポーロは『東方見聞録』(13世紀末)で莫大な金を産出する国として日本を紹介した。これは、マルコ・ポーロの口述筆記なので、秀吉の黄金の茶室ならぬ、家はすべて金でできている、などと愚にも付かない受け狙いの話をしただけ。当時のヨーロッパでは、価値の最高峰に金があったから、金ネタは受けたのだろう。

その極東アジアの中心には中国があった。名前からして中心の国。中国の周りにさまざまな国がある、という図も残っている。世界観をあらわすイメージ図で正方形を使って同心で展開している。

中国には「天円地方」という説がある。「天」は円形で、自分たちが住む「地」は方形としたもの。「天」は、星が季節によって動いて一定していないし、区切りようがないところから「円」であり、「地」は、人為的に区切れる。その一番わかりやすい形が方形だからだ。

▼図1──古代中国の世界観、天円地方説。右図の「王畿」を拡大したのが左図。「王畿」より周辺に行くにしたがって蛮族・夷狄(野蛮人・外国人)の世界となっている。(『中国の青い鳥──シノロワジー雑草譜』中野美代子、平凡社ライブラリー、1994)
図1──古代中国の世界観、天円地方説。右図の「王畿」を拡大したのが左図。「王畿」より周辺に行くにしたがって蛮族・夷狄(野蛮人・外国人)の世界となっている。(『中国の青い鳥──シノロワジー雑草譜』中野美代子、平凡社ライブラリー、1994)

ちなみに、中世ヨーロッパにも、同じようなイメージ図がある。こちらは同心円を使った、いわばキリスト教的世界観を形にしたもの。中国の図は、世界の中心に中国がある、としていたが、ヨーロッパは、宇宙の中心に地球がある。もちろん地球の中心はキリスト教世界であり、発想は中国と同じ。地球の周りを太陽が回っているので、天が動くからと天動説という(地球が動くのは地動説)。

▼図2──プトレマイオスが描いた円形の地球中心説(2世紀ごろ)。(『The Secret Theachings of All Ages』Manly P. Hall、Dover、2010)
図2──プトレマイオスが描いた円形の地球中心説(2世紀ごろ)。(『The Secret Theachings of All Ages』Manly P. Hall、Dover、2010)

天動説を考えた2世紀のプトレマイオスより500年くらい前には地球が太陽の周りを回っている地動説が知られていたが、中世になると、地動説はキリスト教の世界観に合わない異端の説として切り捨てられた。科学的真実よりも理念を優先したのだった。この原理主義的発想は、今でも進化論を認めないインテリジェント・デザイン(この世界は知性ある何か──神によってつくられたとする説)に活きている。

横道に逸れたが、日本の7世紀末、天武天皇が即位したとき、国として独立する必要性を実感し、国号を決めた。当時の日本は、中国から文化や法などほぼすべての統治制度を学んでいた。中国が日本の師匠でありモデル国である。

その日本は、中国から見たら「日出ずる国」、つまり太陽が昇ってくる東の果てにあった。
だから、日の元であることから「日本」とへりくだった。中国は、なにしろ天武天皇にとっての朝貢国である。マージナルとの認識が強いのも当然だ。これは後に述べる漢字と「かな」との関係にもつながってくる。

境界人としての非人・河原者・遊女

「辺境」といっても、遠方とか山奥などの地域的なものばかりではない。階級社会での最下層にいた人びともマージナルな人びと、マージナル・マンである。

作家の梅原猛さんや網野善彦さんは、日本の文化を支えてきたのは、こうした最下層の人びと、マージナル・マンだった、という。

鎌倉時代以降の中世日本で、かれらは非人、河原者、遊女などとよばれた。ここでは(少々乱暴だが)広い意味での非人とひとくくりにして述べる。

かれらはその字のごとく、「人にあらざる者」だが、いわゆる奴隷のような人間以下的な扱いではない。「人がいやがること」を引き受けていたから「非人」とよばれたのだった。

中世の民衆にとって、いちばん避けたかったことは「穢(けが)れ」、つまり、死者がもたらす「穢れ」に触れること。人は死ぬと穢れ、「死」という害毒を撒き散らすと考えられていた。非人たちはその穢れを祓い清めることを仕事としていた。つまり、葬送である(行き倒れ、死んだ牛馬の処理も含まれる)。

したがって彼らは、「清める」ことの頂点にいた天皇とも直でつながるなど、特別な存在だった。民衆は、「穢れ」に立ち向かうという非人たちの特異な能力に畏れ、特別視した。非人は「聖」と「俗」をつなぐ境界人だったのだ。

「現代のわれわれが、職人の見事な腕前に「神技」を感ずるのと同様、このころの人々はそれ以上に、職能民の駆使する技術、その演ずる芸能、さらには呪術に、人ならぬものの力を見出し、職能民自身、自らの「芸能」の背後に神仏の力を感じとっていたに相違ない。それはまさしく、「聖」と「俗」との境界に働く力であり、自然の底知れぬ力を人間社会に導き入れる懸け橋であった」(網野善彦『中世の非人と遊女』)。

彼らは日本全国を遍歴し、各地でその職能・遊芸を披露した。それも河原・中州、道路、国境など誰の所有物でもないところで活動した。

しかもかれらは、ファッション・リーダーでもあった。非人であるゆえに、「禁忌」を犯しても、人間外という認識が強く、とがめ立てされなかったからだ。

たとえばかれらは、当時は一般的でなかった口ひげ、あごひげ、子どもがするようなポニー・テール、高貴な女性にしか許されていなかった「摺衣(すりごろも)」などの衣装を着て京を闊歩した。覆面をしはじめたのもかれらだ。

▼図3──『融通念仏縁起絵巻』(15世紀)に描かれた異類異形の輩。右下の覆面姿は乞食か非人。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)
図3──『融通念仏縁起絵巻』(15世紀)に描かれた異類異形の輩。右下の覆面姿は乞食か非人。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)

▼図4-1〜-3──『慕婦絵詞』(14世紀ごろ)に描かれた蓑がさ、覆面姿。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)
図4-1〜-3──『慕婦絵詞』(14世紀ごろ)に描かれた蓑がさ、覆面姿。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)

図4-1〜-3──『慕婦絵詞』(14世紀ごろ)に描かれた蓑がさ、覆面姿。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)

図4-1〜-3──『慕婦絵詞』(14世紀ごろ)に描かれた蓑がさ、覆面姿。(『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993)

そのカッコよさから、度重なる禁制にもかかわらず民衆の間でも非人風が流行した(網野『異形の王権』)。身分制社会を揺るがしかねない振る舞いだが、「失うものは何もない」がもたらしたパワーである。その末裔が歌舞伎のモデルとなった「かぶき者」。

ただし、室町時代以降、聖なるものとの結びつきが弱まり、かれらは賤民として差別されるようになった。江戸時代に入ると、遊女が遊郭に閉じ込められるように、彼らは特定の場所に住まわせられるようになり(網野『中世の非人と遊女』)、マージナル・パワーは減退してしまった。

利休のマージナル・パワー

本書でおなじみの利休たち茶人にもマージナル・パワーがあった。彼らはほかのところで述べているように「破調」を基本理念としていた。つまり、決まり切ったこと(定型)にたいする忌避である。定型が中心理念とすれば破調は主流ではない、マージナルな考え方となる。

その破調の現れのひとつが縦ストライプ。縦ストライプ流行の話はすでに触れたが、利休も含めた当時の茶人は、縦ストライプはカッコいい、といった。つまり、それまで関心の薄かったストライプ模様に光を当てたのだった。単純にいえば、たまたま海外からやってきた縦ストライプの目新しさがハイカラに見えたのだろう。中国文化などを輸入したとき以来続いている外国コンプレックスの表出である。

それまで見向きもされなかったボロ布でさえ、縦ストライプが入っている、というだけで珍重したというから、まさにマージナルな負のパワーである。

もうひとつの破調例は、唐物の陶磁器隆盛の時代に、もう時代は唐物じゃなく、李朝ものだ、といったのだ。しかも朝鮮ではよくある雑器である。本音は唐物に飽きた、ということだが、雑器に光を与えたということではマージナル・パワー全開だったといえる。この選択も縦ストライプの入ったボロ布の発想と似ている。

マージナルな女性

本書で何度も登場している「ひらがな」にもそうしたマージナル・パワーが溢れている。

「ひらがな」が誕生した平安時代の支配階級はもちろん男性貴族。彼ら貴族のアイデンティティは、漢語・漢文をどれだけ上手に使いこなせるか、にあった。

一方、宮中の女官や女房という女性たちは、その支配階級の枠から完全にはずされ、出世とも無縁。いわばマージナルな民だった。

しかも彼女たちには、漢字を書くことも読むことも禁じられていた。イスラム原理主義に似た男尊女卑社会である。紫式部や清少納言はかなりの漢語・漢文の使い手だったが、それを表現する手段は閉じられていた。

しかし、権力構造からはずれている、相手にされていないことによって逆に、彼女たちの行動の自由度は高かった。当時の男性貴族は女性(といっても貴族の周辺にいた女官たち。一般民衆ではない)を、恋の相手ぐらいにしか思っていなかったので、なにをやっても文句をいわれなかったからだ。

そして、彼女たちの手すさびのなかから「ひらがな」が生まれた。そこには、現代の女性たちの感性につながる発想の転換があったからこそ「ひらがな」は誕生したのだった。

ひらがな誕生

当時の正式文書は漢文。それ以外の文書は漢字と、日本語由来の発音を漢字に置き換えた万葉仮名を使った。万葉仮名は『万葉集』ではじめて使われたが、日本語の発音を漢字で書くことによって漢詩に見えることをめざしたのだった。漢字こそ当時のステイタスのトップである。

手紙を書くとき漢字はくずして書く。万葉仮名も同様くずされ、「草仮名」となった。漢字は、正式であることから真の文字「真名」、「草仮名」は、漢字もどきということで仮りの文字「仮名」とよばれた。文書を扱う官僚たちが、「草仮名」と漢字を同列に語ることは漢字の格を落とすと感じたからだ。

しかし、これが功を奏した。ちゃんとした文字として認められないかったからこそもっと自由にデザインできる。

そして女性たちは、草仮名を丸めはじめた。曲線で表現しようとしたのだ。これこそ女性ならではのセレンデュピィティ。漢字には曲線の部分もあるが基本的に丸っぽさとは縁遠い。だからこそ丸を積極的に使おう、というわけだ。

こうして女性たちの試行錯誤の末にひらがなが誕生した。各自の試みが相乗的に発展していく、ちょうどブレイン・ストーミング(相手の意見を否定しない)でどんどん盛り上がっていくみたいなものだろう。

彼女たちはひらがなを自分たちの文字として手紙などで積極的に使い、どんどん洗練されていった。だから、漢字の「男手」にたいしてひらがなは「女手」とよばれた。

加えて、貴族たちも、女官の歓心を買うためにひらがなの手紙を書くようになる。女官たちは自分たちの文字を使った男性からの手紙にぐっときたのだろう。同時に手紙に添えられた和歌にもひらがなが使われるようになった。

紀貫之は、通常の日記は漢文で書いていた。しかし、日本語が持つ細やかな感情の機微は漢文ではうまく表現できないと考えたのかどうか、土佐から京に帰る帰途を日記風にひらがな中心で綴った。「漢文で書く日記というものを和文で書いてみよう」(石川九楊『ひらがなの美学』)である。それが『土左日記』(934年ごろ)。

『土左日記』の登場によって、漢字支配からの脱却、日本の独自性へのめざめとともに、ひらがなの市民権が確立したのだった。

「ひらがな」の誕生は、マージナルな文化が中心に躍りでた出来事といえる。本書で何度も言及しているように、日本文化が持つ優しさ、可塑性はひらがなあってこそ生まれた感性である。

変体がなの誕生

ちなみに、「ひらがな」というよび名は戦国時代末期の16世紀にできたことばだそうだ(石川、前掲書)。

このとき「ひらがな」のベースとなった漢字は各々数種あり、それを用途によって使い分けていた。たとえば「い」には、「以、伊、移、意」の漢字がベースとしてあり、「ろ」は「呂、路、露、婁、樓」、「は」は、「波、者、八、半、盤、破、葉、頗」。

ところが、1900(明治33)年、「小学校令施行規則」がだされ、「かな」は1音1字に決められてしまった。「い」は「以」をベースとしたもの。「ろ」は「呂」、「は」は「波」。それ以外の漢字を元にした文字は「変体がな」とひとくくりにされ、書道などでたまに使われる文字となってしまった。

身近では、そばやののれんによくある「おそば」の「そば」には、「楚者」を元にした変体がなが使われているのをときどき目にする。

▼図5──日本橋人形町の、変体がなを使ったそば屋の看板。
図5──日本橋人形町の、変体がなを使ったそば屋の看板。

石川九楊さんは、この「ひらがな」の字句統一は、明治になって近代活字が登場したことで起きた、と語る(『九楊先生の文字学入門』)。

「近代の活字印刷によって書物が普及しました。その過程で、日本語を国家・国民語として統一していく役割を、近代活字が果たしました。規模はむろん違いますが、秦の始皇帝の文字統一,つまり焚書坑儒の日本版です」(石川、前掲書)。

レイアウトの仕方

次は、このマージナル・パワーをそのままグラフィック・デザインに応用した例について。

グラフィック・デザインにおいてレイアウトをするとき、とりあえずスペースに必要な情報を適当に置き、どのようにレイアウトするか考える。ちょっとでも方向性があれば、ことは割合スムースに運ぶ。ノーアイデアのときは……、時間に余裕があれば、別の関係ないことで気分を変える。散歩したり、書店に行くなど。

時間がないときは、無理矢理いくつかのレイアウト・パターンを試してみる。手っ取り早いのは情報をどこか一ヵ所に固めてしまうこと。

スペースのまんなかに情報を集めるのは常道、というかレイアウトの基本。それでうまくいかないときは、上部、あるいは下部、もしくは全体・周囲に展開する。

上部に情報を固めるのを、ぼくは「天上志向」とよんでいる。本でもなんでも紙面の上部を「天」、下部を「地」というからだ。そういえば、石川九楊さんは、単なる紙に文字なり絵が記され、描かれたとき、そこには天地が発生する、と述べていた(『九楊先生の文字学入門』)。

また、「天をめざす」という意味でキリスト教的価値観を感じる人もいるかもしれない。そのせいかどうか、書籍の本文のレイアウトの場合、本文が上部にあると、全体に「威厳」あるいは「硬さ」を感じる。本文の下側に大きく余白をとれば、かなり攻めているデザインとなる(下段の余白を註・図版スペースに使うときもあるが)。

▼図6─書籍レイアウトにおける「天上志向」例。
図6─書籍レイアウトにおける「天上志向」例。

一方、下のほうに本文をレイアウトした場合、やさしさが醸しだせ、本を読むための敷居が低くなる。ジェンダー的ないい方で申し訳ないが、女性的なやさしさ。いってみれば、天上志向は漢字で、下方志向は「かな」にあたる。

▼図7──書籍レイアウトにおける下方志向例。
図7──書籍レイアウトにおける下方志向例。

こうしたいろいろなレイアウト法のなかに周辺(マージナル)を重視した、(そのままだが)「周辺重視」デザインがある。紙面のまんなかにエアポケットをつくって情報を周囲に配置する、いわば中心重視から反転したレイアウト法だ。

グラフィック・デザイン界の革命児

1980年代後半、エディトリアル・デザインのひとつの手法として、文字や絵柄などの情報をスペースのまんなかを使わず、周囲の端に固めてしまうデザインが流行ったときがあった(といってもごく一部でのはなしだが)。

その方法に先鞭をつけたのは、グラフィック・デザイナーの杉浦康平さん。1970年代後半から80年代にかけて、杉浦さんは書籍や雑誌のデザインに数々の革命的試みをし、多くの信奉者を得た。ぼくもその影響を受けた。

杉浦さんは、本は著者のもの、というそれまでの常識を覆した。もちろん著者のものではあるが、同時にそれに携わったデザイナーのものでもあるとした。デザイナーの作家性に光を当てようとしたのだった。

実際、著者そっちのけのデザインが目立った。それまでの装幀の世界で、善かれ悪しかれ、本の内容以上にデザインがこれほど前面にでたことはなかった。

そのことは、杉浦さんが、著者とともに奥付に装幀者名が載ることにこだわったところにも現れている。奥付に装幀者名も載せるということは、著者と同等とまではいわないにしても、かなりの主張度である。それだけデザインは書籍にとって重要であり、責任がある、ということだろう。ちなみに、よくある装幀者名の入れどころは、目次ウラか奥付の手前ページ、奥付ページながら奥付とは別扱いの制作スタッフ欄だ。

そして、杉浦さんの作家性を前面にだすという方針を受け継いだ杉浦チルドレンも多かった(ぼく自身は、たとえ攻めたデザインをしたとしても、本はやはり著者のものと思っているが……)。

文字を斜めにする

その、たくさんある杉浦デザイン言語のうちで、特に衝撃を持って迎えられた手法が2つあった。1つは、書名などの文字を斜めに組むこと。今では斜めに文字を組むなどそれほど突飛ではないが、70年代後半から80年代にかけてすごく新鮮だった。

当時の印刷は、活字を使った活版印刷と写植を使ったオフセット印刷が混在していた。写植の場合は、印字された印画紙を斜めに貼ればよいだけなので、文字を斜めにすること自体は簡単。ところが、活字を斜めに組むためには、活字の清刷を使って画像扱いにするか、オフセット印刷にするかしかなく、かなり面倒だったので、活版印刷では、「斜め」という発想自体がでにくかった。

しかも、杉浦さんの場合、斜めにする角度はほとんど同じ(45度か23.5度。中途半端な角度はない)。23.5度というのは、地球の公転面にたいする地球の地軸の角度(今は23.4度が一般的)。地軸を持ちだすところなど知性派デザイナーの草分け杉浦さんらしい。

▼図8──杉浦さんの斜めレイアウト例。雑誌『エピステーメー』表紙、1977。
図8──杉浦さんの斜めレイアウト例。雑誌『エピステーメー』表紙、1977。

杉浦さんの斜めレイアウトのルーツは、(ご本人から直接伺ったわけではないが)おそらく未来派、ダダ、バウハウス、ロシア・アヴァンギャルドというモダン・デザインの流れからの影響だろう。

未来派・ダダは、アートという面から文字を水平垂直という角度、いってみれば重力のくびきから解放した。つまり、文字を自由に浮遊させたのだった。その背景には、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックのパピエ・コレ(コラージュ)による、斜めに貼られた印刷物の断片などの試みも見逃せない。

▼図9──未来派フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの自由詩を集めた『ZANG TUMB TUMB』のカバー、1914。(「Zang Tumb Tumb」Wikipedia)
図9──未来派フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの自由詩を集めた『ZANG TUMB TUMB』のカバー、1914。(「Zang Tumb Tumb」Wikipedia)

そして、バウハウス、ロシア・アヴァンギャルドは、その斜めレイアウトをデザインとして展開した。

▼図10──バーゼル産業博物館で開催された「デッサウ・バウハウス」展ポスター、1929。(『バウハウス1919-1933』セゾン美術館(編)、セゾン美術館、1995)
図10──バーゼル産業博物館で開催された「デッサウ・バウハウス」展ポスター、1929。(『バウハウス1919-1933』セゾン美術館(編)、セゾン美術館、1995)

▼図11──ロシア・アヴェンギャルドの「1日保育所をもっと増やそう!」ポスター、デザイナー不明、1931)
図11──ロシア・アヴェンギャルドの「1日保育所をもっと増やそう!」ポスター、デザイナー不明、1931)

しかし、日本では「かな」が誕生して以来、継色紙などでのレイアウトを見る限り、それこそ「かな」が漢字を翻弄するかのように、重力の影響を受けずに、自由にレイアウトされている。

▼図12──小野道風(みちかぜ)による散らし書き、10世紀半ば。(「三色紙」Wikipedia)
図12──小野道風(みちかぜ)による散らし書き、10世紀半ば。(「三色紙」Wikipedia)

江戸時代でも、木活字を使いながらも斜めに組まれたテキストも散見される。杉浦さんの背景に日本文化からの影響があったとしてもおかしくない。

▼図13──「碁盤歌の右半分。同じものが左にも続く。全体が畑のイメージになっていて、「米」の文字が現れるようにレイアウトされている。塙保己一編『群書類従』に再録された「源順集」より、1793-1819。
図13──「碁盤歌の右半分。同じものが左にも続く。全体が畑のイメージになっていて、「米」の文字が現れるようにレイアウトされている。塙保己一編『群書類従』に再録された「源順集」より、1793-1819。

▼図14──文字遊びの、どこから読んでも意味が通じる「八重襷(たすき)」例。(『イメージの冒険3 文字──文字の謎と魅力』カマル社(編)、河出書房新社、1978)
図14──文字遊びの、どこから読んでも意味が通じる「八重襷(たすき)」例。(『イメージの冒険3 文字──文字の謎と魅力』カマル社(編)、河出書房新社、1978)

「周辺重視」のルーツ

もうひとつが、本稿のテーマである「周囲」に比重を置いたレイアウト。まず杉浦さんの「周辺重視」デザインをみてみよう。

▼図15-1〜4──斜め文字と周辺重視デザインの雑誌『銀花』表紙、55号、56号(1983)、59号、60号(1984)。
図15-1〜4──斜め文字と周辺重視デザインの雑誌『銀花』表紙、55号、56号(1983)、59号、60号(1984)。

図15-1〜4──斜め文字と周辺重視デザインの雑誌『銀花』表紙、55号、56号(1983)、59号、60号(1984)。

図15-1〜4──斜め文字と周辺重視デザインの雑誌『銀花』表紙、55号、56号(1983)、59号、60号(1984)。

図15-1〜4──斜め文字と周辺重視デザインの雑誌『銀花』表紙、55号、56号(1983)、59号、60号(1984)。

▼図15-5〜-7──雑誌『エピステーメーII』表紙、0号(1984)、1号(1985)、2号(1986)。
図15-5〜-7──雑誌『エピステーメーII』表紙、0号(1984)、1号(1985)、2号(1986)。

図15-5〜-7──雑誌『エピステーメーII』表紙、0号(1984)、1号(1985)、2号(1986)。

図15-5〜-7──雑誌『エピステーメーII』表紙、0号(1984)、1号(1985)、2号(1986)。

例の斜め文字もあるが、基本的に周囲のどこかに情報を寄せている。斜めには躍動感があり、周辺重視は広がりを感じる。

こうした杉浦さんの発想のルーツを少したどってみよう。

まず、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱(ほういつ)などで知られる〈風神雷神図〉。

下界に風をもたらす風神と雷を起こす雷神を対としたモチーフは仏教美術では定番のひとつだが、それを両端ギリギリにレイアウトをして描いたのは俵屋宗達が最初。それを尾形光琳や酒井抱一が模写してひろがっていった。

▼図16-1──俵屋宗達〈風神雷神図〉17世紀前半。(「風神雷神図」Wikipedia)
図16-1──俵屋宗達〈風神雷神図〉17世紀前半。(「風神雷神図」Wikipedia)

▼図16-2──尾形光琳〈風神雷神図〉18世紀前半。(「風神雷神図」Wikipedia)
図16-2──尾形光琳〈風神雷神図〉18世紀前半。(「風神雷神図」Wikipedia)

▼図16-3──酒井抱一〈風神雷神図〉1821ごろ。(「風神雷神図」Wikipedia)
図16-3──酒井抱一〈風神雷神図〉1821ごろ。(「風神雷神図」Wikipedia)

両端にレイアウトされるだけではなく、裁ち落としで使うことで画面の緊張感が増している。この裁ち落としこそ周辺重視を活かすための最重要ポイントだが、俵屋宗達や尾形光琳に比べて酒井抱一はやや画像の裁(き)り方が弱く、緊張感は俵屋、尾形に劣る。

酒井抱一の弟子、鈴木其一(きいつ)も「風神雷神」を描いているが、各々独立した絵のようになっていて、酒井よりも周辺重視の観点からは遠のいている。

▼図16-4〜5──鈴木其一〈風神雷神図襖〉19世紀、の左隻、右隻。(「風神雷神図」Wikipedia)
図16-4〜5──鈴木其一〈風神雷神図襖〉19世紀、の左隻、右隻。(「風神雷神図」Wikipedia)

図16-4〜5──鈴木其一〈風神雷神図襖〉19世紀、の左隻、右隻。(「風神雷神図」Wikipedia)

ともかく、中心をはずして左右を強調したレイアウトがもたらす緊張感はこの絵を嚆矢とするだろう。

ちなみに、アメリカにも中心をはずして左右のみに描いたモーリス・ルイスという画家がいた。ルイスは、ジャクソン・ポロックのドリッピングなどに影響されたので、描いたというよりは、ポロックのように絵の具(アクリス絵の具を薄めたもの)を垂らして作品をつくった。

そのなかに「アンファールド」シリーズというのがある。「アンファール(unfurl)」は、「丸めたものを広げる」という意味。ルイスは、キャンバスを丸めてから広げ、その丸みを帯びたキャンバスの両端に絵の具を垂らして作品を制作したところからその名がある。

▼図17──モーリス・ルイスのアンファールド・シリーズ〈アルファ・タウ〉1960〜61。(『なぜ脳はアートがわかるのか』エリック・R・カンデル、高橋洋(訳)、青土社、2019)
図17──モーリス・ルイスのアンファールド・シリーズ〈アルファ・タウ〉1960〜61。(『なぜ脳はアートがわかるのか』エリック・R・カンデル、高橋洋(訳)、青土社、2019)

そこでは、中心に大きく空白が広がり、左右のみに色の線が三角形のスペースを埋めるように流れている。

「このシリーズの絵は、カンバスの中央上部に大きな空間が広がっているので見分けがつく。キュビストにとってさえもっとも重要なものとして慣例的に扱われていたこの部分が、完全に空白のまま残されているのだ。鑑賞者の注意は、ただちに絵の上部に引きつけられるだろう。なぜなら、ワシリー・カンディンスキーが指摘するように、そこには鑑賞者の魂や心を高揚させる領域だからだ」(エリック・R・カンデル『なぜ脳はアートがわかるのか』)。

鑑賞者は、この大きく広がる空白に目を奪われる。垂らした絵の具で描かれた部分は、結局、中心の空白を目立たせるためにあったのだった。これも周辺重視がもたらす緊張感のひとつである。

モンドリアンの周辺重視

「周囲」に比重を置いたデザインでは、ピエト・モンドリアンの後期の作品も思い浮かぶ。

モンドリアンは、1921年ごろから、黒い水平・垂直線と赤・黄・青の3色を使った色面で構成するコンポジション作品をつくりはじめた。その作品のいくつかは、中心には白いスペースだけでほかになにもなく、周囲に線や色面をレイアウトしている。しかも、最晩年には色面を使わずカラーの線のみとなり、死亡する2年前の1942年のいくつかの作品は、そのカラーの線を絵の具を使わず、カラー・テープで代用している。

▼図18-1〜3──モンドリアンのコンポジション作品、1921、1929。最後の〈New York City III〉(1942ごろ)と題された作品はカラーテープでつくられている。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)
図18-1〜3──モンドリアンのコンポジション作品、1921、1929。最後の〈New York City III〉(1942ごろ)と題された作品はカラーテープでつくられている。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図18-1〜3──モンドリアンのコンポジション作品、1921、1929。最後の〈New York City III〉(1942ごろ)と題された作品はカラーテープでつくられている。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図18-1〜3──モンドリアンのコンポジション作品、1921、1929。最後の〈New York City III〉(1942ごろ)と題された作品はカラーテープでつくられている。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

モンドリアンの、このような線と面だけの表現や、絵の具の代わりにテープを代用したことなどから、絵画とデザインの境界をとっぱらったとして「産業化された美」といわれた。

モンドリアンはもともと具象で風景画を描いていたが、徐々に抽象画に向かっていった。モンドリアンは樹木の風景をよく描いていたので、この抽象化されていく流れは見事にたどれる。それを見ていくと、モンドリアンの抽象、そして周辺重視は遠近法を抽象化したらこうなった、というような印象がある。

▼図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)
図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

図19-1〜13──モンドリアンの1908〜42年までの作品の変遷。抽象化していく流れが辿れる。(『mondrian』John Milner、Abbeville Press、1992)

ところで、モンドリアンにおける周辺重視の発想はどこからきたのだろうか。これも本書で何度も言及している浮世絵の構図がヒントとなっていたかもしれない。フランスでジャポニスム・ブームが起きたころ、モンドリアンはオランダで美術の学生だった、第一次世界大戦前までの数年間パリで勉強していたからだ。

葛飾北斎の〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉や、歌川広重の〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉などを見ると、これを抽象化していったら周辺重視になりそうな気配がただよっている。抽象により省略していったら近景が残るからだ。

▼図20-1〜4──順に、葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉(1831〜33)、歌川広重〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉いずれも19世紀半ば前後。(「葛飾北斎」Wikipedia、「歌川広重」Wikipedia)
図20-1〜4──順に、葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉(1831〜33)、歌川広重〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉いずれも19世紀半ば前後。(「葛飾北斎」Wikipedia、「歌川広重」Wikipedia)

図20-1〜4──順に、葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉(1831〜33)、歌川広重〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉いずれも19世紀半ば前後。(「葛飾北斎」Wikipedia、「歌川広重」Wikipedia)

図20-1〜4──順に、葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉(1831〜33)、歌川広重〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉いずれも19世紀半ば前後。(「葛飾北斎」Wikipedia、「歌川広重」Wikipedia)

図20-1〜4──順に、葛飾北斎〈冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉(1831〜33)、歌川広重〈東海道五十三次之内 日本橋〉、〈名所江戸百景 びくにはし雪中〉、〈名所江戸百景 亀戸梅屋敷〉いずれも19世紀半ば前後。(「葛飾北斎」Wikipedia、「歌川広重」Wikipedia)

周辺重視の認知心理学

もうひとつ認知心理学的アプローチもある。
脳には、眼という端末を使って、情報を補う能力がある。これは、人類の進化過程で獲得したリスク・マネジメント(危機管理)の発展形である。

そのひとつが、2つの点から敵の存在を認識すること。2つの点とは、「眼」のこと。眼の存在から全体を想像し、敵かどうかの見極めをする。リスク・マネジメントの警報である。

もうひとつは輪郭識別能力。これはエルンスト・マッハが発見したマッハ・バンド(なだらかなはずのグラデーションに帯を認識すること)で証明されたエッジ強調能力である。このことで輪郭が浮かび全体が想像でき、敵かどうかがわかる。ここでの「周辺重視」にはこのエッジ強調能力がかかわっている。つまり、全体像を補完する能力で、心理学では「体制化」とか「補完作用」とよんでいる。

たとえば、文字の冗長度の調査、つまり文字の一部を見てどれだけ全体がわかるかを調べればその「補完作用」の力を知ることができる。

アルファベットは、1文字を水平・垂直で4分割した場合、少なくとも右上が見えていれば判別できるとされている。漢字の場合は、四方の要素が判別できれば、まんなかがある程度隠されていても識別できる。試しに図のように「IMAGINATION」と「想像力」をもとにいくつかつくってみた。

▼図21-1──「IMAGINATION」のアルファベットをいろいろと隠して判別できるか試したもの。
図21-1──「IMAGINATION」のアルファベットをいろいろと隠して判別できるか試したもの。

▼図21-2──アルファベットの隠した部分をグレーにしたもの。判別力がだいぶ上がる。
図21-2──アルファベットの隠した部分をグレーにしたもの。判別力がだいぶ上がる。

▼図21-3──同様に漢字「想像力」をいろいろ隠したもの。
図21-3──同様に漢字「想像力」をいろいろ隠したもの。

▼図21-4──それの隠したトコロヲグレーにしたもの。同様に判別力が上がる。
図21-4──それの隠したトコロヲグレーにしたもの。同様に判別力が上がる。

「IMAGINATION」は半分くらい隠せばなんとかわかる。4分の1がぎりぎりだ、というが、この例ではほとんどわからない。ただし、隠したところをグレーにすると少しはっきりしてくる。

「想像力」はアルファベットに比べて白地のままでもかなりなところまで判別できる。グレーを補えばもちろんばっちり。

ここから見えない部分が多くても漢字のほうがアルファベットより認識できる。これは漢字のほうがアルファベットに比べて認識ポイントが多いという違いだ。

杉浦さんは、文字をどこまで小さくしたら読めるか、とか、小さい文字を多色刷りして多少版ずれしてもどこまで読めるか、などの実験をしてきたところから、周辺に寄せたレイアウトの発想は、認知心理学からきていると思える。

周辺重視とエロティシズム

ちなみに、杉浦さんがはじめた「周辺重視」レイアウトをより徹底したデザイナーは戸田ツトムさんだ。画像も全体像がもはや把握できないところまでトリミングし、中心のホワイトスペースを限りなく広くとっている。

▼図22──『INAX叢書1. テクノロジカルなマシーン』(八束はじめ)の表紙。
図22──『INAX叢書1. テクノロジカルなマシーン』(八束はじめ)の表紙。

これは、あたかも日本的エロティシズムのひとつ「チラリズム」を表現しているように感じる。

モンドリアンが日本の浮世絵から受けた(ぼくが勝手に思っているだけだが)影響はその抽象性ばかりではない。エロティシズムも感じ取っていたように思える。

それは、モンドリアンの絵の太い黒の線がいわばグリッドであり、このグリッドのスキマから色を覗かせたところが、限りなくエロティックだからだ。

西洋絵画では、前景に障害物を置くのはタブー。描く対象は隠さず描いてきた。ところが浮世絵は、その常識を軽々と乗り越えた。すでに触れたように手前に太い木の枝がきたり、葛飾北斎のように、竹林の向こうに富士山が見えるという構図などは当たり前である。

▼図23──竹林越しに富士山を望む葛飾北斎〈冨嶽百景 竹林の不二〉(1834)。(『北斎美術館2 風景画』永田生慈(監修・執筆)、集英社、1990)
図23──竹林越しに富士山を望む葛飾北斎〈冨嶽百景 竹林の不二〉(1834)。(『北斎美術館2 風景画』永田生慈(監修・執筆)、集英社、1990)

これは本書でも何度も触れているように、森の木々のすきまからその向こうの風景を見ると、あたかも風景が切り取られているように見え、いくつもの風景が混在しているような錯覚に陥る、例の点景観である。

この構図が刺激的だったのはたしかで、モネも木の間から見える風景を描いている。木の枝によってその先にある風景の全体像がちゃんと把握できないもどかしさが想像力を刺激するのだろう。これは「すだれ効果」というらしい(馬淵明子『ジャポニスム』)。

▼図24──クロード・モネ〈木の間越しの春〉1878、マルモッタン美術館蔵。(http://art.pro.tok2.com/M/Monet/tt036.htm)
図24──クロード・モネ〈木の間越しの春〉1878、マルモッタン美術館蔵。

『源氏物語絵巻』にあるように対象を御簾ごしに見たりするように、「対象の前に簾や草を置くことによって、その向こう側に描かれたものをいっそう引き立てる、「いき」の美学」(馬淵、前掲書)のひとつだという。

江戸の美学は説明的なことを嫌う。「モノわかりの早いことは、「徳」の一つであって、ツウといえばカアというのが「いき」で、うでうでくでくで、一から十まで説明する、あるいは説明されないと嚥み込めないようなのは「やぼ」とされてきた」(安田武『型の日本文化』)。この「すだれ効果」もその延長にある気がする。

その「すだれ効果」のもどかしさは、女性の着物の裾から見える素足にもつながっている。男性がその素足にエロティシズムを感じるのは、素足が全体を想像、あるいは妄想を加速させるからだ。

そして、この「周辺重視」レイアウトにも、中心に置かれた広大なホワイト・スペースと、それでトリミングされ、一部しか見えない図版への興味、これらがあわさってエロティックに感じるのだろう。

参考文献
『中世の非人と遊女』網野善彦、講談社学術文庫、2005
『異形の王権』網野善彦、平凡社ライブラリー、1993
『和的──日本のかたちを読む』松田行正、NTT出版、2013
『ひらがなの美学』石川九楊、新潮社、2007
『九楊先生の文字学入門』石川九楊、左右社、2014
『眼の冒険──デザインの道具箱』松田行正、紀伊國屋書店、2005
『なぜ脳はアートがわかるのか』エリック・R・カンデル、高橋洋(訳)、青土社、2019
『ジャポニスム──幻想の日本』馬淵明子、ブリュッケ、2015

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松田 行正(まつだ・ゆきまさ)

書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。