画像はイメージです original image: / stock.adobe.com
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前編でも参照した日誌の中から、引き続きキブツ生活の様子が分かるいくつかの記録をピックアップする(研修生一人ひとりに確認することは出来ていないため、永森氏以外の日本人研修生の個人名は頭文字にした。また、イスラエル人の名前、都市の名前のカタカナ書きは日誌のママ、括弧は筆者の補足)。
6月24日
ダリヤ・グループと合流、ケサリヤ(Caesarea)へ行き海水浴を楽しむ。夕食を共にキブツ・ダリヤでする。
7月4日
20時よりダンスの講習会。イマヌエルより、エルサレム(Jerusalem)旅行ができることを知る。
7月20日
梨の獲り入れで、12名が朝3時半に起こされる。労働時間が不規則なうえに、食事も不規則。おまけに本日は8時間労働。
7月25日
相変わらずの暑さ。ヘブライ大学に留学している日本人Aさん来訪。4時半より集会室でイスラエル、キブツに於いての体験談と、アラブ、イスラエル間の民族的問題についての話を聞く。
8月1日
草刈先生より、ダリヤ・グループでの人間関係における問題と、ハラシュより提案されたダリヤとラマト・ヨハナンの研修生交換計画の報告あり。
8月5日
シャバット(安息日)だが、最後の追い込みに入った梨の収穫のため、ほぼ全員労働。
8月10日
モシェのレクチャー「キブツの歴史と原理について」。
8月11日
ベンジャミン・セラー氏、駐日イスラエル大使館の勤務を終え、帰国。久しぶりの再会。
8月31日
労働後、本日誕生した新しいキブツ、キブツ・メイアミへ行く。
9月1日
酷暑いまだ冷めず。各様に避暑方法を考え込んでいる。
9月12日
リンゴの収穫もピークとなり、我々も16時から18時まで動員され、サービスワークでリンゴもぎ。
9月16日
コットンの収穫に近づき、日本人もたびたび駆り出される。
9月22日
Kが3日間病気で休み。21時からダンスサークルによるダンスあり。
9月29日
日本の夕べ。吉川大使挨拶。我々の喜劇は好評。
10月1日
草刈先生日本へ帰国。
10月4日
イスラエルの新年。夕食は野外で盛大に。舞台も設けられ、子供たちやハベリーム(友人とか仲間。ここではキブツの仲間たち。)の合唱があり、S、M、K、Tが合唱のメンバーに加わる。
10月22日
イスラエル軍艦が地中海でエジプト軍に撃沈され、イスラエルはシナイ半島からスエズの製油所に報復攻撃を加えた。
11月2日
モシェとのミーティング。今後のキブツ生活に対する希望を出す。
11月19日
Sがおたふくかぜで寝込んでから4日目。
11月22日
待ちに待った荷物到着。日本から送って、なんと7か月目。
12月16日
吉川大使の招待により、7か月ぶりの日本料理にありつける。
1月1日
テルアビブの大使館邸にて新年の祝賀。おせち料理。
1月11日
朝晩の冷えは続いている。そろそろ帰国の支度にとりかかるものもいる。
B5版で9ページに渡る日誌を読むと、まずグループとして非常に良く統率の取れた活動をしていること、頻繁にレクレーションイベントを開催して正規のキブツメンバーとの交流を図って楽しんでいること、様々なレクチャーやセミナーがありキブツの仕組みや歴史を学んでいること、などが強く印象に残る。また、同時期に滞在したキブツ・ダリヤの研修生グループとの連絡・交流もある。
一方で、多くの参加者が慣れない労働と暑さに悩まされた様子も伺えた。保健衛生委員会の記録によれば、キブツではあまり薬は使わなかったようだ。具合の悪いときの治療は、「安静にして熱い紅茶を飲み、バター抜きトーストを食べ、後は本人の回復力に待つ」と書かれている。自然の中の規則正しい生活と労働、贅沢すぎない食事、という条件の揃ったキブツ生活で自分の体力で病気を治す、ということが最高の健康管理であったことを知らされたようだ。
北海道の農家出身者が多かったグループですらこのような感想を持っており、ましてや都会に暮らしてきた日本人研修生であれば、都会生活で失ったものを再認識できたに違いない。これも、キブツ生活から得られる成果の一つだったのではないだろうか。また、日本大使館での日本食に歓喜している様子の記録もあり、若い時に外国に出て外から日本を見ることの重要性も身をもって認識したようだ。
永森氏自身は、ほぼ1年間ずっとニワトリ小屋での仕事に従事したそうだ。労働委員会が仕事の割り振りを決め、折衝すれば変更もできたようだが、ほとんどの日本人は決められたとおりに従ったという。グループの大半が同じ大学からの参加者であり、様々な委員会も組織してチームの運営がなされていたこともあって、研修生だけで一つの秩序ある社会ができていたのかと思う。「ともかく楽しかった記憶しかない」とのことで、合唱団に参加したり、積極的にキブツの生活に入り込み、キブツの人々と交流したそうだ。
元々、共同体を研究したり、僻地教育を研究しているメンバーによる研修ではあったが、(1)慣れない労働、(2)難しいヘブライ語の授業、(3)暑い気候、の三つに対応することで精一杯であり、当初頭の中にあったかもしれない「研究課題」どころではなかったようだ。しかし、体を使って自然と向き合う「労働」、賃金という対価のない共同体のための「労働」は、高度経済成長過程にあった資本主義社会の日本では経験することが殆どない貴重な体験であったことは間違いない。
永森氏によれば、ラマト・ヨハナンには国会議員や医者など、キブツで生活はしているが、キブツ外での仕事をしている人々もいた。これらの人々は、自分が外の世界で得た「収入」をキブツ全体の収入として拠出していたそうだ。また、国会議員も医者も分け隔てなく、当番になればエプロンをして食堂の給仕を務めていたという。このようなこと一つひとつが、新鮮な驚きとして研修生の記憶に残っている。
報告書の中には、世話人であったモシェの感想もある。それによれば、日本人グループを受け入れるということ自体、当初は非常に躊躇したそうだ。なぜなら、これまでの外部からの受け入れは、主にシオニズム運動に関わり、新しいキブツを建設するための訓練・経験として滞在するユダヤ人が殆どであったからである。シオニズムとは縁のない日本人が、何を期待し、何を成果として持って帰れるのか、モシェ自身も分からなかったようだ。
しかし、イスラエルを知り、キブツの生活を知ろうとする「未知のことに挑戦しよう」としている若者達を受け入れるということは、彼にとっても新たな挑戦であり、挑戦することを尊ぶイスラエル人らしい。日本人の学ぼうとする姿勢や、労働に対する責任感を大きく評価してくれている。
この1年間で研修生それぞれがどのような研修成果を得たか、ということを具体的に評価することは困難である。しかし各々が経験したことが、永森氏をはじめとして研修生それぞれのその後の人生には確実に大きな影響を与えているだろう。
当初、筆者はキブツそのものへの興味、一体どんな日本人が研修に行ったのか、何か現在の日本社会に参考となる仕組みがないか、というような興味から取材を始めたが、調べるほどに新たな疑問が湧いてくる。例えば、現在でもなお、イスラエルには280ほどのキブツが存在する、という事実である。
イスラエル・イノベーション特集でこれまで紹介してきたように、中東のシリコンバレーと呼ばれるイスラエルでは次々に新たなスタートアップが生まれ、ユニコーンといわれる10億ドル以上の企業価値を持つ企業も多い。中東では珍しい、民主主義、資本主義の国であり、人々は成功することに貪欲である。その中に、今でもなお、私有財産をもたず、労働することそのものを価値と考えるキブツという共同体が存在するのである。
しかも、多くのキブツは工場を持ち、アラブ人などの労働者を雇用して経済基盤を支えている。例えば、筆者の専門であるサイバーセキュリティの分野でも、SasaSoftwareというCDR(Content Disarm & Reconstruction)ソリューションを提供するスタートアップ企業がある。彼らはSasaというキブツの企業なのである。「スタートアップ」と「キブツ」という、いわば資本主義と社会主義が共存すること自体が、筆者の頭の中ではいまだに十分に咀嚼できていない。イスラエルという国の不思議なところでもあり、もう少しキブツの調査を継続したい。
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登録はこちらNTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu