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タジキスタン ドゥシャンベ 景観 イメージ

中央アジアの最貧国、タジキスタン

2019.12.05

Updated by Shoko Ohkawa on December 5, 2019, 15:26 pm UTC

中国・新疆ウイグル自治区の西、キルギスの南、アフガニスタンの北、ウズベキスタンの東にタジキスタンはある。2カ国をまたぐか、横に長い中国を横断しなければ海に辿り着くことができないところだ。「○○人の国」という意味を表す「スタン」がつく国のなかで最も小国であるタジキスタンは、どこにあるのかまったく思い浮かばないという人が多い。

タジキスタンの国土の多くは山や荒野で、日本の40%ほどの面積の上に930万人が暮らしている。構成する民族はタジク系、ウズベク系、キルギス系など多様だが、多くの人がイスラム教を信仰する。

2019年6月、私は縁あってタジキスタンを訪れた。知人が青年海外協力隊として現地に派遣され「ぜひ一度、遊びに来てほしい」と声を掛けてくれたのだ。彼女は、理学療法士のスーパーバイザーとして障害者のリハビリ施設に勤務し、現地のスタッフに最新のリハビリを教えている。

内戦終結から20年。発展はスローペースだが豊かな国となりつつある

シルクロードの一部であったタジキスタンは、古くからテュルク系、アラブ勢力、イラン系、モンゴル帝国など、数多くの大国の支配下に置かれてきた。1860年代から1890年代にかけてはロシア帝国に併合され、1924年にはウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内のタジク自治ソヴィエト社会主義共和国に、1929年にはタジク・ソヴィエト社会主義共和国となった。

ソ連崩壊後の1991年にはタジキスタン共和国が成立したが、さまざまな覇権争いから内戦が勃発し、1997年6月まで混乱が続いた。1999年からはラフモン大統領による独裁状態が続いている。

内戦が長引いたため、旧ソ連国家の中でも特に発展の遅れた国となったタジキスタンだが、現在は安定した情勢の下、ゆっくりだが着実な発展を遂げている。豊かな水資源を活用した水力発電で支えられている首都ドゥシャンベでは、滞在期間中一度も停電は起こらなかった。スマホを使う人も増えてきており、日本ではあまり普及していないアプリでよくコミュニケーションを図っているようだった。Wi-Fiを使える公共スペースは見かけなかったが、これから増えていくのかもしれない。

▼首都・ドゥシャンベの町並み。高層ビルは驚くほど少ない。(写真:Tomo Odagiri)
首都・ドゥシャンベの町並み。高層ビルは驚くほど少ない。(写真:Tomo Odagiri)

先進国とは異なる豊かさ

最貧国であるだに、日本から訪れると物価は安く感じる。きれいなレストランでのビールが1杯10ソモニ(1ソモニは約11.3円)、「オシュ」と呼ばれるそばの実のピラフ定食が20ソモニ。果物はキロ単位で売られることが多く、数十ソモニでたんまりとネクタリン(桃のような果物)を買える。国民の平均年収はドル換算で350ドル程度だ。

しかし、タジキスタンでの暮らしを一概に貧しいと言うことはできないだろう。

まず、食生活が豊かだ。特に農村部においては、貨幣経済への依存度が大きく下がるため半自給自足のような生活が成り立ち、甘く新鮮な果物をたっぷり食べることができる。

村に暮らす人々は、自分の敷地内にたくさんの果樹を植え、牛を飼い、それらをふんだんに食べながら暮らしている。私が訪れた6月はアンズやネクタリンやクランベリーが旬を迎えており、いつでもどこでも美味しい果物を手に入れることができた。一度に大量に実る果物は、到底食べきることはできず、乾燥させたりコンポートにしたりして貯蔵しているため季節外れの時期でも味わうことができる。チーズやヨーグルトも自家製造する人が多く、どれもが味が深く美味しい。乳製品を発酵させる菌の種は豊富なようで、日本では見られないようなキャンディのようなチーズなどもあった。ちなみに同行した友人の一人は現地の濃厚なヨーグルトを大変気に入り、自宅で増殖させるべくタッパーにつめて持ち帰ったが、上手に増やすことはできなかった。日本の環境ではタジキスタンのヨーグルト菌を増殖させることは難しいのかもしれない。

肉は牛肉を食べることが多い。街の中では鶏肉や羊肉も容易に手に入るが、意外なほど牛肉をよく食べる。硬い赤身肉がほとんどだが、噛みごたえがありなかなか美味しい。脂身が少ないという意味ではヘルシーだといえよう。

▼パンやフルーツ、ナッツ、スパイス、乳製品などが売られる屋内市場。雰囲気は明るいが、呼び込みの声などはあまりないため東南アジアなどの市場に比べると静かである。
中央アジアの最貧国、タジキスタン

中央アジアの最貧国、タジキスタン

食に関する問題点は油だ。タジキスタンの人々は料理にコットンオイル(綿実油)を多用するが、これにはオメガ6脂肪酸が多く含まれており血栓ができるリスクを上昇させる。政府は警鐘を鳴らしているが、なかなか改善されないという。

空気が乾燥しているタジキスタンにはオリーブが似合いそうなものだが、オリーブの木をみかけることはあまりなかった。

町の人々が身につけているものも美しい。ドゥシャンベの市内にはあちこちに縫製所があり、布を持ち込めば好きな形に加工してくれる。自分にぴったりの服が簡単に手に入るのだ。とくに女性は目を引く柄のセットアップを着用していることが多く、アトラス柄と呼ばれる伝統的な柄を身につけている人も少なくない。

街を歩く人はほとんどが身ぎれいにしており、メイクやヘアセットへの関心も高そうであった。

▼街なかにある小さな縫製所。数日あればワンピースやセットアップなどを誂えてくれる。(写真:Tomo Odagiri)
街なかにある小さな縫製所。数日あればワンピースやセットアップなどを誂えてくれる。(写真:Tomo Odagiri)

▼後述するが、タジキスタンはムスリムが多いにも係わらずヒジャブを着用していない人が多い。(写真:Tomo Odagiri)
後述するが、タジキスタンはムスリムが多いにも係わらずヒジャブを着用していない人が多い。(写真:Tomo Odagiri)

街で見かける人々も、呼んでくれた友人とともに福祉施設で働く人々も、タジキスタンで見かける人々はみな勤勉な印象であった。朝は通勤のためのバスが混雑し、チャイハネ(ティーハウス)ではパリッとしたシャツを着た店員が頻繁にテーブルを見にきてくれる。ふらふらとさぼっている人などはあまり見られず、みな粛々と労働をこなす。しかし、さすがは元社会主義の国というべきか、競って豊かになろうという姿勢はほとんど見られない。商店の人々は客が近づけばニコニコと試食を勧めるが、それだけだ。呼び込みなどは見られない。

夕方になれば大勢の人が職場や学校から出てきて、家族や友人たちと散歩をしてゆったりと過ごす。夏の日没後の公園は、散歩に繰り出す人々で連日賑わい、毎日が縁日のようだった。

▼大通りの中心に遊歩道があり、夜はたくさんの人がそぞろ歩く。(写真:Tomo Odagiri)
大通りの中心に遊歩道があり、夜はたくさんの人がそぞろ歩く。(写真:Tomo Odagiri)

頑張らなくても生きている。それでも経済発展を目指すべき理由

日常生活を見渡せば、時間と精神にゆとりが見られるタジキスタンだが、経済状況は芳しくない。これといってメインの産業があるわけでないタジキスタンの主な「産業」はロシアへの出稼ぎである。働き盛りの男性の多くがロシアへ行き、仕送りをすることで家族を養っている。JICAの研究所の調査によれば、タジキスタンはGDPの約半分(2012年は52%)が海外送金に依存しているとされている。出稼ぎ労働者の待遇が厳しいことは想像に難くない。低賃金、重労働、そして異なる文化を持つ移民への差別がはびこる。

ドゥシャンベの街なかにはなぜだか「RUSSIA」とプリントされたパーカーを着る若者が多数見られ、国内においてはロシアに対して好意的な感情を持っているのではないかと思われたが、出稼ぎから帰った人の感情は複雑に変化するようだ。

多くの労働力が流出することは、タジキスタンの発展にも影響を与えるだろう。

2016年の合計特殊出生率は3.36人、18歳以下の人口が国民の約半数を占めるタジキスタンでは、若年層が出稼ぎに出ることで国内の働き手が不足するとは考えにくいが、これが内需を生み国内を発展させていくパワーに変えられるのなら、異国で辛い思いをする人を減らせるかもしれない。

さらに、出稼ぎへ出た労働者が買春をすることでHIVに感染し、それをタジキスタンに持ち込むことにより、国内でのHIV罹患者は非常な勢いで拡大していることも大きな問題である。

経済発展の遅れは医療技術の遅れにつながる

国の発展が遅れるということは、すなわち医療の発展が遅れるということにつながりやすい。

タジキスタン滞在中、私は友人の職場を案内してもらった。

首都ドゥシャンベの中心部からバスとミニバスを乗り継いで1時間弱で着く村に、リハビリセンターはあった。

もとはソ連時代に作られた施設だが、現在はさまざまな国や機関の支援の手が入っているらしい。友人も日本国際協力機構から青年海外協力隊として派遣されている。

▼リハビリセンターで働く人々。休憩時間に庭で木の実を摘み、お茶を飲んでいた。(写真:Tomo Odagiri)
リハビリセンターで働く人々。休憩時間に庭で木の実を摘み、お茶を飲んでいた。(写真:Tomo Odagiri)

施設には、身心に障害を持ちケアやリバビリが必要な子どもやその母親が暮らす。大抵は、3カ月間この施設に寝泊まりしリバビリやケアの方法を覚えて「卒業」をしていくのだが、なかには障害が重いためにずっとここを出ることができない子や、親が迎えに来なくなりほとんど置き去り状態にされている子もいる。

経済的に厳しく多産なタジキスタンの家庭では、障害を持つ子を家族がケアできないケースが多々ある。また、障害児を抱えていると母親ごと家族から捨てられてしまうというケースもあるらしく、自分や他の兄弟の生活を守るために置き去りにしてしまうことがあるようだ。

長く病院で暮らす子どもの多くは脳に障害を抱えている。私がリハビリセンターの中で出会った子の多くは脳性まひであったが、水頭症や小頭症の孤児もみられた。重い障害を持つ子どもの割合は日本に比べて高い。というのも、医療が発展した日本であれば障害を負わなかったあるいは、より軽度の障害にとどまった可能性のある子どもが少なくないのである。

例えば、脳性まひは出産時の事故に起因することがある。出生時にへその緒が圧迫されることによって、子どもが低酸素状態に陥り脳に影響が出るのだ。へその緒が絡む事故そのものは珍しいことではないが、これが医療先進国で起きた場合は産前に胎児の状態を確認し、酸素吸入などの処置を行うことで低酸素状態の時間を短縮し、障害が重篤化するのを防ぐことができる。しかし、ソ連崩壊以降あまり医療の発展しなかったタジキスタンではそのような措置はあまり行われておらず、相対的に出産時の事故数が多くなってしまうようだ。

水頭症についても、頭蓋骨の中に入ってしまった水を抜く手術ができれば障害は軽度になることがあるが、不治の病だと思われているのか手術ができる医師や設備がないのか、あるいは保険制度が整っていないためか治療されることはなく、ほとんどベッドに寝たきりになっていた。ちなみに私が会った水頭症の子どもは10歳前後で、施設にきた数年前は意思疎通が難しかったようだがそのときにはわずかに言葉を交わすことができた。

▼ケアワーカーと入院中の子どもたち。寝たきりの子も少なくない。言葉は通じないが、話しかけると答えてくれる。(写真:Tomo Odagiri)
ケアワーカーと入院中の子どもたち。寝たきりの子も少なくない。言葉は通じないが、話しかけると答えてくれる。(写真:Tomo Odagiri)

近年は日本人の働き過ぎが注目され、ライフワークバランスを整える動きが進んできた。それにともない、経済の発展だけが幸福につながるわけではないという声も聞かれる。しかし、高度な医療というものは自給自足の暮らしではなく貨幣経済によって支えられている。

一番弱い立場に置かれる人々のためにも、発展を目指すことは悪ではないということを改めて実感した。

強国がもたらす、混乱と発展

タジキスタンの公用語はタジク語である。これはイランで話されているペルシア語に非常に近い言葉で、タジク語話者とペルシア語話者はほとんど問題なく意思疎通ができるようだ。ただし、ペルシア語がアラビア語に似た文字を使う(ペルシア語はアラビア語よりもアルファベットの数が多い)のに対し、タジク語はロシアなどで使用されるキリル文字を用いる。

キリル文字は表音文字であり、タジキスタンには英語由来の外来語が少なくないため、少しでもキリル文字を読むことができれば、なかなか楽しく観光することができるようになる。さらに町中にはロシア語を話せる人が非常に多いため、ロシア語話者にとってはとても楽な観光地だ。

一方で、英語はあまり身近な言語ではない。通じる人がみつかればラッキーだと感じるくらいだ。

当然、タジキスタンにとって最も身近な強国はロシアで、娯楽もロシア経由で入ってくる。タジキスタンで流れるテレビ番組といえば、大統領を称えるプロパガンダ映像ばかりで、はっきり言って何も面白くない。そのため、ケーブルテレビが観られる人はロシアの充実したプログラムを楽しんでいるようだった。

タジキスタンの人々は、現在のロシアだけでなくソ連時代から北の強国に親しみを持っていた。

苛烈な粛清が行われたり、最終的には崩壊してしまったりと一般的にソ連への評価は低い。しかし、タジキスタンではどうも様子が異なる。周囲を7000メートル級の山々で囲まれ、資源にも恵まれなかったタジキスタンは、ロシアに併合されやがてソ連に加わることで、発展の恩恵を受けていた。インフラの整備や保険の制度などはソ連時代に急激に進み、「ソ連時代が最も恵まれていた」という人もいるくらいだ。

ドゥシャンベの町を歩いて目につくのは、アジアというよりはヨーロッパを感じるような壮麗なデザインの建物群である。

▼建築物は実はハリボテも多く、壮麗なのは大通りに面した壁面だけで裏側に回ればコンクリートがむき出しになっていることもある。
建築物は実はハリボテも多く、壮麗なのは大通りに面した壁面だけで裏側に回ればコンクリートがむき出しになっていることもある。

タジキスタンの近代的な施設の多くは、ソ連時代に建てられ、ソ連崩壊以降にできた公共施設は極端に少ない。それどころか「ソ連はメンテナンスのお金を残してくれなかった」という不満が出るほど、自分たちの力では設備の維持すら難しいのが現状で、当時の建物がそのまま使われていれば良い方なのである。

友人が勤める施設も、やはりソ連時代に立てられたもの。ゆえに設備は非常に古かった。

そんなタジキスタンに近年、手を差し伸べている国がある。中国だ。一帯一路の思想のもと、中国はその活動範囲を広げている。

私たちは滞在中、ガイドとドライバーを雇い、ドゥシャンベから北西60kmにあるイスカンダルクルという湖の美しい観光地へ向かった。直線距離にすればさして長い距離ではないが、アップダウンは非常に厳しい。山は相当ガレていて、巨大な岩がゴロゴロと転がっている。活火山の多いタジキスタンでは地震が少なくなく、山の形は現在進行系で変化していた。道路の真ん中に岩が転がっており、前を運転していたドライバーが転がして道を空けたこともあった。

ガイド曰く、その道の一部を開拓や補修しているのは中国の人々なのだという。道中、実際に道の補修工事をしている人々をみかけたが、その顔立ちは彫りの浅い東アジアの人のものだった。彼らはワゴン車の中の私たちを見つけると、似た顔立ちの民族に久しぶりに会ったことを喜ぶように手を振ってきた。

▼山間部へと向かう道。道には岩が転がっていることもある。左手奥には氷の塊が見える。(写真:Tomo Odagiri)
山間部へと向かう道。道には岩が転がっていることもある。左手奥には氷の塊が見える。(写真:Tomo Odagiri)

周知のように中国の一帯一路政策は、資金とともに人(労働力)を送り出し、その地に仲間を増やしていく政策である。

現在のタジキスタンでは、あまりこの動きに否定的な意見は多くなさそうである。わずかに獲れる金を掘削しているのも中国人なので、ガイドはそれに関しては多少苦い顔をしているように見えたが、危険な工事を請け負ってくれるのでタジキスタンにもメリットがある。

ドゥシャンベの中を歩いていても、タジキスタンの人々が中国に対して関心を持っていることを感じるシーンがあった。大通りを歩いていると毎日たくさんの人々が「ニーハオ」と話しかけてくる。彼らにとって彫りの浅い顔立ちのモンゴロイドといえば中国人なのだ(これはどこの国でもよくあることだが)。間違っているのを訂正するのも面倒くさく、かと言って無視するのも良くないと思っている私はその度に「こんにちは」と返した。大抵の人はきょとんとするか、そのまま無視して通りすぎていってしまうものだが、中には「ちょっと待って、今なんて言ったの?」と食い付いてくる人がいる。中国語を理解した上で話しかけているので、私が中国語でない言葉を使ったことに気が付くのだ。

そのうちの大学生に話を聞いたところ、今のタジキスタンの中には中国語を学ぶ若者が増えてきているそうだ。中国の人がどんどんタジキスタンに渡ってきているところにビジネスチャンスを感じているらしい。

調べてみるとタジキスタンには、16カ国49都市からのフライトがあり、そのうち2都市が中国(北京とウルムチ)だ。27都市の空港で繋がっているロシアには到底及ばないが、それでもそれなりの存在感はありそうだ。

(ちなみに2019年現在、日本からタジキスタンへ渡るには、最低1回のトランジットが必要で、私は韓国、カザフスタンと2回の乗り換えをした)。

さらに宗教的な側面からも、タジキスタンの現政権にとって中国との結びつきを強化することは悪い話ではなさそうだ。

タジキスタンは人口の大半がイスラム教のスンニ派と言われている。しかし、もともとソ連だったこともあり宗教色はそこまで強くない。

現政権は国からさらに宗教色を薄くしていきたいと考えているようで、ヒジャブの使用や販売、モスクからアザーンを流すことなどを禁じている。そもそもタジキスタンにはアラブ諸国などで見られる美しいモスクが極端に少なく、意識してみないとイスラム教徒の多い国だということを忘れてしまう。現在、ドゥシャンベにカタールによって巨大なモスクが建てられているものを除けば、大規模なモスクはほとんどない。

▼ドゥシャンベ市内のモスク。ムスリムの多い国ではいくらでも見られるが、タジキスタンには多くない。(写真:Tomo Odagiri)
ドゥシャンベ市内のモスク。ムスリムの多い国ではいくらでも見られるが、タジキスタンには多くない。(写真:Tomo Odagiri)

今のところ政権による締め付けなどは行われていないようだが、独裁化は進んでいる。街のいたるところに大統領の肖像があり、テレビ放送は政権の記念式典のプロパガンダを永遠に流し続けている。

宗教色を排除したビジネスライクな付き合いに、中国はぴったりなパートナーなのかもしれない。

タジキスタンのサナトリウム

タジキスタンにはサナトリウムがある。日本でサナトリウムといえば結核患者の療養所のことを思い浮かべるが、タジキスタンのサナトリウムはもっとシンプルな療養所、癒やしのための施設である。タジキスタン滞在中、私は知人とともに一泊二日でサナトリウムの宿泊体験をした。

タジキスタンのサナトリウムはソ連時代に建設された。もちろん、労働者を労い、健康を増進するためだ。

そのためサナトリウムは、医療施設としての側面を担っており、ドクターの診察を受けながらプログラムを進めることができる。

しかし残念なことに、言葉が通じないと判断された私たちは、診察なしのごく簡単なプログラムしか受けさせてもらえなかった。それでも場の雰囲気は存分に堪能できたのでその面白さを伝えたい。

活火山の多いタジキスタンには温泉が湧き出ている。訪れたサナトリウムはこの温泉を利用した施設で、温水プールやサウナを備えていた。

数単語のタジク語と英単語、それからアラビア語(ペルシャ語とアラビア語は一部語彙が重なる)を駆使ししてなんとか受付を済ませると、プログラムが提示された。宿泊する部屋に荷物を置いたらまずはプールに入り、別料金のマッサージを受け、それからサウナへ行けということだった。

施設は増改築を繰り返した建物で、複数の階段とエレベータがあり、すぐに道に迷ってしまう。しかも建物が急斜面にあるせいで、ロビーフロアの下にも複数フロアがつくられ、どのフロアが何階を示すのかさっぱりわからない。そのためフロントは1人のスタッフを私たちの案内人にしてくれ、滞在をサポートしてくれた。

▼サナトリウムの外観。日本の温泉旅館に似た佇まいだ。
サナトリウムの外観。日本の温泉旅館に似た佇まいだ。

不思議な全裸プール

荷物を置き、さっそくプールへ向かう。脱衣所で係の女性に全部脱ぐように指示をされた。素っ裸でプールに入るのだ。ちょっと驚きながらも指示に従い、裸でプールに向かう。15メートル四方ほどのプールにはすでに数組の女性が入っており、泳ぐでもなく立ち止まるでもなくゆらゆらと水中を移動していた。

係員の女性も先客の女性たちも見慣れない東洋人を興味深げにじろじろ見てくる。しかし、目が合うと笑いながらさっと逃げてしまうので、こちらはなんだか所在がない。さらに強い視線を感じてプールの監視員の方を見ると、思いっきりケータイのカメラがこちらを向いていた。「ノー、ノー」と拒絶をするが笑ってごまかされてしまった。

さっさとこの工程を終わらせてしまおうと水の中に入ると、意外にも深い。水深1.3メートルくらいはありそうだ。水温はやや高く、プールと温泉の間ぐらいの温かさで思ったよりも気持ちがいい。他の利用者と同じように泳ぐでも立ち止まるでもなく、たぷたぷたゆたっていると、髪が水に着いているという注意を受けた。日本の銭湯と同じようなルールがあるようだ。波を立てるような動きも歓迎されなさそうなので、プールは数分で上がることにした。

上から見下ろすと、はしゃぐことも泳ぐこともしない全裸の人々がただゆっくりプールを回遊している不思議な光景が広がっていた。

プールの後は強めのマッサージを受け、少し休憩を挟んでからサウナへ向かう。サウナは別棟にあり、急勾配を10分ほど歩かなければならない。プログラムをきっちり時間通りにこなせばバスでの送迎をしてもらえるそうだが、散策を兼ねて歩いて向かった。

サウナまでの道のりには、飲み物や日用品、チーズやヨーグルト、薬草などが売られていた。地面やテーブルの上にカーペットを敷き、その上に直に商品を並べている。覗き込むと商品の説明をしてくれるが、無理に売り捌こうという姿勢は見えず、のんびりと商売をしているようだった。

▼薬草や日用品を売る人。ゆっくりと時間が過ぎる(写真:Tomo Odagiri)
薬草や日用品を売る人。ゆっくりと時間が過ぎる(写真:Tomo Odagiri)

サウナにはガウンを着てくるように指示をされたが、あいにく程よいアイテムを持っていなかったため私たちは適当に普段着で向かった。しかし、利用客はみな真夏だというのに厚手のコートのようなものを着用していた。サウナに入る前から汗だくになりそうである。そういえば、と思い至る。ドゥシャンベの街なかにも鋭い日差しの下でロングコートを着ている人たちがいたのである。後に知ったことだが、ウズベク系の人は常にロングコートを着用しているようだった。詳しい理由はわからないが、タジキスタンでは暑いときにもロングコートを着ることにあまり抵抗がないようだ。

受付を済ませて、サウナに入る。硫黄の臭いのするシャワーを浴びてから入室するのがマナーだ。温度計がなかったためサウナの室温は不明だが、かなり高温のスチームサウナだ。座っているだけで汗が吹き出す。サウナの中の雰囲気は日本と変わらない。暑さをやり過ごすためにおしゃべりをするが、それほどぺちゃくちゃとは話せない。こちらを見ているご婦人たちは、私と知人が同じ民族かどうかを見極めようとしているように見える。ストイックに熱源に近づく人、出たり入ったりを繰り返す人。ある意味で極限に近い状態であるサウナでは、人間のすることなどあまり差がないのだ。

一汗かいた後は昼寝の時間だ。癒やしの施設では昼寝もプログラムに組み込まれている。

18時からは食堂で夕食が始まる。選択肢はない。全員同じメニューだ。部屋ごとにテーブルに着かされ、鍋が配膳される。各皿には自分たちでよそう。メニューはシチューとつけ合わせ、ぶかぶかのパン、オシュ、それにネクタリンだった。タジキスタンの食事は基本的に塩分が多く、ややしょっぱいと感じる。ここではパンもしょっぱかったが、じっくり煮込まれたシチューは美味しかった。

▼食堂係のスタッフが配膳をしてくれる。療養所とあって、栄養バランスは良さそうだった。(写真:Tomo Odagiri)
中央アジアの最貧国、タジキスタン

中央アジアの最貧国、タジキスタン

食堂係のスタッフが配膳をしてくれる。療養所とあって、栄養バランスは良さそうだった。(写真:Tomo Odagiri)

食後は、演舞場で出し物が見られると聞いていたので、施設内を右往左往、上に下に東に西に長時間迷いながら向かった。

真っ暗な廊下や廊下を歩き、半ば肝試しのような気持ちで施設内を歩いていると、やがてオリエンタルチックな音楽が聞こえてきた。会場に行き着いたらしい。扉を開けると、傾斜のついた客席の向こうでは利用客らが沖縄のカチャーシーのようなダンスを好き好きに踊っていた。ステージの端では、担当者が面倒くさそうにPCをいじって音楽を流している。なんというか、鄙びた温泉宿の演舞場そのものの雰囲気だ。流れる空気はまるで熱海の宿のカラオケ会場である。こんなものを見て面白いのか疑問だったが、客席の人々はまあまあ和やかな顔をしている。決して笑ってはいないが……。そこで知人は言った。

「これ、行くしかないんじゃないですか?」

数秒躊躇したが、心は決まっていた。「外国人のほとんどいない地で、謎のガイジンが突然踊りだしたら絶対にウケる」。勢いのままに、ステージ前に飛び出す。動きなど適当である。とにかくできるだけ大きな手振りで大げさに踊る。途端に爆笑が起きた。客席の人々は手を叩いてウケている。掴んだ。

先に踊っていた人の中で一番踊りが上手だったご婦人がダンスに誘ってくれる。応えるとますますウケる。すっかり調子にのっているが、慣れない動きのためあっという間に息が切れた。ふらふらと客席に戻ろうとすると、腕を引っ張られ再び舞台前に引きずり出された。

汗だくになりながら20分ほど踊ると、ようやく解放された。会場を出て、外気に当たると乾いた空気にすぐ汗は乾いていった。

▼宿泊客が好き好きに踊っていた演舞場。日によってはきちんとした演劇などが観られるらしい。(写真:Tomo Odagiri)
宿泊客が好き好きに踊っていた演舞場。日によってはきちんとした演劇などが観られるらしい。(写真:Tomo Odagiri)

翌朝は、早朝から体操のプログラムがあったため体育館へ向かった。指導教官が来るまで利用者はフラフープやボールを使って遊んでいたが、私たちが入ったとたんに近づいてきた。

「昨日の人だよね!」

どうやらガイジンの適当ダンスはインパクトがあったらしい。

「また踊って」

「一緒にやろう」

取り囲まれ、動画を撮られながらまたもや踊り続けるはめに。本当に適当なので、これが「ヤバーニ(日本人)のダンス」として記憶されないことを願うばかりだが、たくさんの宿泊客に撮影されたのでタジキスタンのSNSではそのような紹介がされているかもしれない。

タジキスタンの人たちの踊りも教えてもらった。腕の動きは沖縄のカチャーシーにそっくりなのだが、どうやら体重のかけかたが違う。足の外側に力を入れてステップを踏むようなのだ。これはなかなか難しくて、数十分では習得にいたらなかった。

▼健康増進のためのフラフープ(写真:Tomo Odagiri)
健康増進のためのフラフープ(写真:Tomo Odagiri)

▼一緒に踊ってくれた女性。彼女とはとても仲良くなり、帰りは別れを惜しんでくれた。(写真:Tomo Odagiri)
一緒に踊ってくれた女性。彼女とはとても仲良くなり、帰りは別れを惜しんでくれた。(写真:Tomo Odagiri)

すっかり仲良くなった彼女たちは、一緒にたくさん写真を撮ってくれ、名前を覚えてくれた。朝食の会場でもたくさんの人が声をかけてくれ、ハグをして別れを惜しんでくれた。特別人懐っこいということはなく、どちらかというと少しシャイな側面を持つタジキスタンの人々とここまで距離を縮められたサナトリウムは、稀有な経験ができる素晴らしい施設であった。

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大川祥子(おおかわ・しょうこ)

1987年生まれ、愛知県出身。日本大学芸術学部文芸学科に入学後、小説を書こうと考えるがネタがないためタクラマカン砂漠やアラブ諸国を彷徨う。結果、アラブへの興味だけを持ち帰りアラビア語を勉強中。社内報ばかりを扱う編集プロダクション勤務を経て、現在フリーライター。