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村上陽一郎

エリートと教養 4 知識は「教養」か

2020.04.27

Updated by Yoichiro Murakami on April 27, 2020, 09:35 am JST

教養のあるなし、ということのなかに、知識のあるなしが、少なくともある程度含まれていることは、間違いありません。他書からの受け売りですが、ある翻訳書のなかに、「それはあたかも雪の中で聖ベルナルドゥスに出会った想いであった」という一文があったそうです。確かに十二世紀フランス、クレールヴォウに聖ベルナール(フランス語流、ラテン語表現では「聖ベルナルドゥス」)として知られる著名な説教家がおりました。原著が英語だったようなので、原文は<Saint Bernard>とあったのでしょう。訳者は、辞書でこの語を引き、クレールヴォウの聖ベルナールを引き当て、そのラテン語型に戻るべき、と考えて、この訳文が生まれたものと思われます。しかし、「雪の中で」この聖人に出会うことにどのような意味があるのでしょうか。この聖人に、吹雪の中で人助けをした逸話でもあったのでは、という憶測が働いたのでしょうか。この文脈での訳文は、どう考えても、「雪の中でセント・バーナード犬に出会った想いであった」でなければなりますまい。スイス・アルプスの救助犬セント・バーナードは、超大型犬(マスチフ)の一種で、いつも気付け薬の小さな酒瓶を首にぶら下げ、雪の山中で遭難した人々を救助する一翼を担うことで有名です。記録によると、ある犬は生涯に(大型犬の宿命で、寿命は精々十年ほどと長くありません)五〇名近くの遭難者を雪中救助したとのことです。この訳者も、その知識はあって、ただ思いつかなかっただけかもしれませんが、やはり、聖人や犬についての十分な知識があれば、この滑稽な誤訳を犯すことからは免れたはずです。


村上陽一郎

このような例に出会うと、私たちは、「おやおや、この訳者、教養がないな」とつぶやいたりします。この種の「教養」のなさは、欧米の文章の邦語訳のなかでは、特にキリスト教関係で顕著になります。恐らく上記の例でも、なにやら<Saint>が付く言葉が出てきたが、キリスト教関係として置けば無難だろう、というような思惑が訳者にあったのかもしれない(だからこそ、これが犬の話だ、などとは夢想だに出来なかったのかも)と邪推したりもします。例えば、大学者として自他ともに許すT氏(故人)が監訳者となっているかつての大ベストセラー、ガルブレイズの『不確実性の時代』の中に、「それはあたかもセントピーターが教区の司祭のところへ現れたような」などという訳文が見られます。翻訳が、A言語からB言語への単なる語の置き換えで済むのなら、この訳文は「誤訳」ではないと強弁できるかも知れません。原文は確かにそのように書いてありますから。でも、セントピーターとは何ごとでしょうか。言うまでも無く、それは、イエスがお前の上に我が教会を建てるとまで言ったとされる、イエスの直弟子「ペテロ」以外には考えられません。カトリック教会は教皇を信仰における最高権力者としていますが、その初代とされるのが、聖ペテロなのです。そのペテロが、一介の教区の司祭のところに、という意味が、訳文ではまるで伝わらないのは、やはりそうしたキリスト教の初歩的な知識、教養が欠けている結果の無残さとしか言いようがありません。日本のキリスト教世界で、ペテロを英語読みして「ピーター」とすることは、絶対に、と言ってよいほどあり得ません。

あまり趣味のよいことではありませんが、ちょっと気を付けていれば、およそ枚挙に暇が無いほどこの種の「無知」に出会います。無論かく言う私も、似たような「無知」を幾つもご披露してきた自覚がありますから、他人をあげつらうのも恥ずかしい所業に違いありません。

こうした「無知」の反対側に、「教養」の少なくともある部分上の要素があることは慥かでしょう。専門に拘らず、出来るだけ幅広い知識を身につける、現代の教養教育と呼ばれるものの基本が、そう考えられているのも、その証左でしょう。私が卒業した東京大学教養学部のモットーは<later specialization>でした。<late>が比較級になっています。「人より、<より遅く>専門を決めなさい」というわけです。そこでは、三年生になって専門となる学問領域を一応選択した後も、卒業まで、第二、第三外国語や、相当数の専門外の学問の単位取得が義務付けられていました。学生があのモットーを実行するように、制度上もかなり厳しく仕向けられていたわけです。

村上陽一郎

こうした状況を批判するのは簡単です。浅く、広い知識の習得はできても、学士の資格保証に十分な学問上の「深さ」は置き去りだね。結局は軽佻浮薄な、単なる「物識り」を養成しているだけさ、、、。いくらでも、このような批判を続けることができるでしょう。そして、一面では、そうした批判は、真実を衝いてもいます。とりわけ、「教養」の豊かさが、修得した知識の量によって量られる限り、私も、そうした批判を首肯せざるを得ないと考えています。たしかに、豊富な知識は「教養」の必要条件ではありましょう。しかし、それだけで、「教養」本来の理念が十分であるとは、断じて言えない。そうでなければ、「教養」はいつまでも、幾分の恥ずかしさを伴い、その裏返しとしての揶揄の対象であり続けることになりましょう。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。