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現代日本語考 3

エリートと教養 8 現代日本語考 3

2020.08.10

Updated by Youichirou Murakami on August 10, 2020, 10:38 am JST

「言葉警察」の如き文章を、二回にわたって連ねてきました。他方で、朗読、読み聞かせ、などという業も、結構賑わいを見せているようで、アナウンサーとして一段落したような方も、その分野で数多く活躍しています。美しい日本語についても語っておかなければ、手落ちということになりそうです。

現代日本語考 3

そういう意味で、心地良い日本語を聞かせてくれる人々には、アナウンサー出身の方が多いのは、自然なことかもしれません。昔、NHKのスポーツ番組で圧倒的な力量を誇ったのは志村正順さんです。野球、相撲の実況放送では、彼に比肩し得るアナウンサーは未だに出現していない、と確信を以て言えます。活舌の見事さ、常に新鮮な語彙を開発することへの執心などは、アナウンサーとしての当然の訓練の賜物でしょうが、眼前に展開する情景を即座に最も適切な言葉に移して発する、その反応の速さと的確さにおいて、本当に彼を凌ぐ人を私は知りません。

確かNHKで、志村さんと同期くらいの方に、高橋博さんというアナウンサーがおられました。この方の日本語も見事でした。特に、決して不快な声ではありませんでしたが、志村さんがやや甲高い(それが、相撲や野球の高揚した状況には相応しいのでもありました)声質だったのに比して、高橋さんの声はまことに静穏で、舞台中継などでは脇のアナウンサーの説明の言葉が時に煩わしくなるのを充分認識した上で、余計なことは一切言わず、低い鎮めた声で情景を伝えるのに長けた方でした。その声質が選ばれて、当時の皇室関係の出来事の中継放送などにも、よく登場しておられた方でした。志村さんと高橋さんの日本語は、声として聴くことのできる理想的な言葉であり、子供から成人になりかける頃の私の心に焼き付いています。

その後、美しい日本語を話す方で印象を残したのは、どちらかといえば女性アナウンサーになります。今のように「女子アナ」なるものが、ほとんどタレントと同義になってしまった昨今の状況の中では、好ましい事例に出会うことが少なくなりました。NHKを定年退職後も、朗読などの仕事を重ねておられる山根基代さん、あるいは広瀬久美子さん、加賀美幸子さんなどが頭に浮かびます。

こうした方々は、鼻濁音の美しさ、アクセントの明晰さ、など、これもアナウンサーとしては、当然身に付けておかねばならない特性でしょうが、やはり美しいものは美しい。現役では森田美由紀さんでしょうか。男性では、やはりNHKラジオで、日本語の指導のプログラムを持っておられた、「ことばおじさん」こと梅津正樹さんの話ぶりは、流石に神経が行き届いた見事なものだったと思います。

残念なのは、現在はNHKでさえ、お笑い芸人と称される人々が何にでも出ばっているという、まことに奇妙な時代になっていて、そうした人々の言葉遣いは、一般に乱暴というべきか、とにかくとても模範になるものからほど遠く、日本語を醜くするのに一役買っているような有様です。

美しい話し言葉という観点で、アナウンサーばかりを挙げましたが、例えば落語の世界をとってみましょうか。桂文楽さん(八代目)の江戸弁は、多少下町風ではありましたが、歯切れの良さ、発音の確かさ、声音のすっきりしたところ、などで他の追随を許さないものでした。師匠は、生まれは確か青森県の五所川原ですが、基本は東京育ちです。若い頃「遊び」に耽溺したせいか、例えば幇間のような花柳界の言葉遣いなどにも長じていて、かつての江戸・東京言葉の真髄が伝えられていたように思います。一席三十分以上を演じるのに、一度も淀みなくきちんと続けられるのも、文楽師の目覚ましい特徴でした。それだけに、最後になった高座で、一瞬言葉が出なくなったのは、師にとっては辛い経験であったと推しはかられます。高座を退かれる原因にもなりました。

もう一方の雄、三遊亭圓生さん(六代目)の方は、本来上方育ちですから、むしろ上方の言葉が使える噺、例えば『三井の大黒』や『雁風呂』のようなものが、ぴったりかもしれません。前者は、播磨生まれ飛騨高山の名工である左甚五郎が主人公で、西国から江戸にやってきた大工という触れ込みで、江戸の棟梁のところへ居候する話ですし、後者は、水戸黄門が主人公ではありますが、話の本当の主役は、大坂の名家である淀屋辰五郎(の息子)ということになっているからです。

こういう噺で、関西の言葉遣いという点では、圓生師は抜群の正確さ、的確さを発揮するのでした。しかし、その師匠が江戸・東京弁が主体の江戸落語の第一人者になった裏には、随分厳しい勉強があったに違いありません。だから私たちは、安心して師匠の江戸・東京の言葉の妙に酔うことができたのです。ただ圓生師には、文楽師と違って、時々ですが一瞬言葉が淀んだり、詰まったりする癖がおありでした。別段それが師の芸に響くわけではありませんでしたが。

歌の世界では、歌手の藤山一郎さんの日本語は、本当に惚れ惚れするようなものでしたし、今の歌手が日本語だか外国語だか判らないような発音をわざとしたり、鼻濁音にすべきところを、ぶつけるような汚らしい濁音で平気で歌ったりしているのを聴くにつけ、藤山さんの爪の垢でも、という思いに駆られたりします。歌手ばかりではありませんが、実際、鼻濁音を適切な場所で美しく響かせることのできる人が、本当に少なくなりました。鼻濁音を使わない方が、明晰で正確である、というような誤った考え方が広がったせいでしょうか。

確かに日本語には<l>と<r>の区別はありませんし、日本語の「ラ行」は、正確には<l>でも<r>でもない音だと思います。ただ、例えば英語に見られるこの二つの子音が日本語にないことから、その二つを発音したり聴き分けたりすることが日本人にはできない、などということは決してありません。この二つの子音の区別は意外に簡単です。勿論フランス語にはフランス語で、またドイツ語ではドイツ語で、それぞれ<l>と<r>に独特の発音の仕方がありますし、イタリア語やスペイン語でも同様です。ここでは英語に限ってみましょう。

<l>に関しては、舌の先を緊張させて上前歯の裏側に触れ、それを滑るように離すときに出る音がそれです。他方<r>は、舌の中ほどから奥のあたりを緊張させて、舌先は上顎の表面辺りに触れたときに出る音になります。これだけのことに注意すれば、二つの子音の区別は何ほどのこともなく可能になります。そして、その発音ができれば、耳はその区別を明瞭に聞き分けるようになるでしょう。

もっとも、米語と英語では特に<r>に関しては、かなり違うともいえます。米語の<r>は、英語の場合より、口唇を「ウ」の形に緊張させて、<wr>という心算になって発音すると、それらしくなります。フランス語やドイツ語では、<r>はさらに喉深いところ、軟口蓋や口蓋垂を振動させる音を要求される場合があります。

発音で思い出す、屈辱の経験談があります。初めてアメリカの地を踏んだのは、ハワイでした。浪人生のころから、経済上の理由でアメリカの家族と家を朋にする(二世帯住宅のような形で)期間が続きました。家族には色々な年齢の子供がいました。日常のコミュニケーションで子供を相手にできるのは、とても良い環境で、米語の日常にはかなり慣れたつもりでした。

初めてのアメリカも、入国、タクシー、ホテル、会議、食事など、特段の支障もなく自信もつき、三日目くらいでしたか、多少高を括って街へ出ました。アイスクリームが食べたくなって、何が欲しいのと訊かれて、「ヴァニラ」と答えました。何と、これが全く通じないのです。衝撃が走りました。アクセントを変えてみたり、工夫はしたのですが通じません。最後に向こうが察してくれて、<Oh, Vanilla !>と言った相手の発音。最大の問題は、第二シラブル目の<ni>でした。我々にとって「イ」に近い音のはずだという先入観は、ここで全く崩されました。むしろ「ア」と「エ」の間くらいの母音です。

ここで、はたと気付きました。自宅で「火鉢」を何というかと尋ねられたときに「ヒバチ」と教え、これをローマ字で綴ると、私の耳にはどうしても「ハバチ」としか聞こえない反応が返ってきたことを。もう一つ付け加えれば、最初の「ヒ」にアクセントを置くことが彼らにはできないのです。私は「ヒバチ」というのですが、復唱して返ってくるのは「ハバチ」なのです。諦めて、以後、私は英語(米語)を使っているときは<habachi>と発音することにしました。英語における<i>という母音の複雑さについて、私は知っているはずだったのに、「ヴァニラ」ではその経験を全く生かせなかったというお粗末でした。

現代日本語考 3

序にもう一つのお粗末。これは子供相手の日常から学んだ結果の失敗談。ある国際会議で、個人的に知り合った相手との会話の中で、何か多少の驚きを示さなければならない事態になりました(随分大袈裟な表現ですが)。子供たち相手にいつもお互いに使っていた間投詞<Je!>が、口から滑り出ました。相手は、少し困った顔をして、次のような意味の注意を、英国人でしたから、とても丁寧・婉曲にしてくれました。要するに、こういうことでした。「曲りなりにも、君はインテリでキリスト教徒の端くれだろう、<Je!>は<Jesus>の短縮形だろうが、君の立場で発するに相応しい言葉ではないよ」。

それはともかく、こうして日本人にとっては、異質と思われる子音や母音にも、心を配らなければ、外国語の習得はできないわけですが、取り敢えず、先ずは日本語を美しく話すことこそが、大切になりましょう。もともと、NHKのアナウンサーは、特にその模範を提供するという自負と責任感とを兼ね備えて放送に臨んでいたはずです。今が駄目というのではありませんが、少なくとも、誤用やあからさまな発音の誤りに、介入しようとするような気概には欠けている、あるいは「心置く」様が感じられます。同僚が誤読をした際には、何らかの形で注意し、読み直させたりはしているようですが。

最後に、もう一つ、苦言を呈します。日本語の素晴らしさの一つは、数詞の多様さです。ものを数える時、「もの」によって、それぞれ数え方がある。ウサギを一羽、二羽と数えるのは有名ですが、それこそ様々な仕来りに基づく数詞があります。ところが、最近それを全部「個」(あるいは「箇」)で済ませてしまうような習慣ができつつあるようです。あるCMで、一緒に歩いている男女二人の歳の差を訊かれた女性に、「さあ、五個くらいじゃない」と言わせているのに出会って、仰天というか、呆然というか、言葉もありませんでした。「歳」というのは、ウサギのような難しさは何もない、要するに年齢を数えるのに「歳」を使うことは、子供でも知っている、それが何故「箇」になるのですか。

皆さん、何とかしませんか、この見苦しい日本語の流行を。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。