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正体不明な必需品としての「常識」 (2)常識の成り立ちと多数決の罠

正体不明な必需品としての「常識」 (2)多数決で成立する常識は危うい

2020.12.24

Updated by Chikahiro Hanamura on December 24, 2020, 17:07 pm JST

常識はどのように生まれるのか

「常識とは何か」ではなく、「常識はどのようにして生まれるのか」、あるいは「常識はどこにあるのか」という問題として考えてみる。そもそも、私たちが何かを常識として受け入れる時に辿る道筋はそれほど多くない。主に考えられるのは、二つのアプローチである。一つは「自分で確かめる」ことを通じて、何かを常識として受け入れること。もう一つは、これが常識であると「誰かから教わる」こと。この二つの経路で、私たちの中での常識が生み出されていく。

自分で確かめながら何かを学習することは、生まれたばかりの赤ちゃんから大きくなっていく過程で、誰もが通る道である。赤ちゃんを観察していると、どんなものでも手で握ってみたり、口に入れてみることで、自分と世界との関係を確かめている。そうやって体験を通じて何度も感覚にインプットされたことが、記憶として頭の中に刻まれる。その中でいつも生じる感覚や、毎回繰り返されるパターン、起こる出来事の順番や因果関係などを発見する。

そのパターンを記憶しながら、私たちは自分の中に常識を自らで生み出していく。痛みや空腹のようなものから、自らの存在やアイデンティティのような実感まで、「感覚から得る常識」とでもいえるものを、私たちは自らの中に生み出す。しかも、そうやって身体で学習したものは、簡単には変わらない常識として私たちの中に刻まれる。

それに対して、ある程度の年齢に達して周囲のことが理解できるようになると、誰かが言っていることを常識として受け入れ始めるようになる。それは、自分の外部から与えられる常識であるが、自分の内に少しずつ加わってくることで、だんだんと自分の常識になっていく。

何が常識であるのかを教える人はたくさんいるが、おそらく最初に出会うのは親である。小さい頃に教わったこと、仕付けられたこと、言い付けけられたことが、その後の私たちの常識の下敷きになることが多い。もちろん親だけでなく、親の親や、もっと前の先祖の時代からずっと伝えられてきたことなども、気付かない間に自分の中の常識の基準を作っている。これは「家族から得る常識」といえるかもしれない。

親の次に常識を教えてくれる人として出会うのは、おそらく学校の先生ではないだろうか。学校教育では、教師と生徒という「教える・教わる」という関係を通じて、知識や認識が一方的に伝えられることが多い。私たちは、教科書に取り上げられたある一定のトピックについて、教師から何が正しい知識かを教わるのである。教師自身も、教科書に書かれていることを直接見聞きしたわけではないこともある。だが、そういうものであるとして教え、教わる側もそういうものであるとして受け入れがちである。

そんなあやふやなものではあるが、それが私たちの常識の基盤になっていく。しかも、この常識は正解と不正解が分けられてしまうので、教わった知識や認識は正しいものである、として私たちは受け入れてしまう。こうして「教育から得る常識」によって作られた歴史認識や科学的な知識は、その後の私たちの物の見方に大きな影響を及ぼす。その後、新たな発見などによって教科書とは違うことが明らかになっても、それを受け入れるのが難しい場合も良くある。

もちろん、親や先生以外の周囲にいる他者も、私たちの常識に大きな影響を与える。例えば、友人や親戚、地域の人などである。周囲の人々が考えていることの中には、親や先生が言っていることと同じこともあれば違うこともある。そんな中から何を受け入れるのかを自分で選ぶこともあれば、知らない間に影響を受けていることもある。学校を卒業しても、職場の人や知り合った人とのコミュニケーションを通じて、徐々に自分の常識に周囲の人々の常識が塗り足されたり書き変わったりする。だから、友達や職場やコミュニティといった「環境から得る常識」は自分の常識の中に少なからず入り込んでいる。

しかし、私たちの常識にとって最も大きな影響を持っているのは、メディアが流す「情報から得る常識」である。大手報道機関からSNSに至るまで、情報を介して私たちは、社会の大勢の人々が何を考えているのかにアクセスしている。

しかも、かつてのように、大人への成長の中で親や先生、友人たちとの関係性を築きながら常識を徐々に身につけていくような状況ではもはやなくなりつつある。新しい情報技術に早く慣れ親しむ子供の方が、社会の情報をいきなり手にすることができるのだ。子供たちの方が、親も先生も知らない情報を見聞きし、顔も名前も知らない人の考えを常識として受け入れてしまう可能性は高い。

このように、常識とは最初からあるものではなく、自分の中に徐々に生まれていくものであるといえる。もちろん、小さい頃に身につけた感覚的な常識は、心の深い部分に刻まれ自らのアイデンティティとなっているので、なかなか変わりにくいものである。だがそれも、成長の過程において人々との関係性によって変わっていき、家族や教育、環境や情報の中で常識とされることを受け入れながら、徐々に自分の中で常識となっていく。

したがって、冒頭の問いの二つ目の「常識はどこにあるのか」についてまずいえるのは、常識とは「自分の内」にあるということである。だが、それは同時に「自分の外」にある常識から影響を受けている。自分の外にある常識とは、他人の内にある常識でもある。結局は、常識は人の中に生まれる認識であると考えて良いのだが、一方で自分の内と外をはっきりと区別することは難しい。私たちは、成長の過程の中でも、そして接する社会の中でも、自分の外の常識に大きく影響されている。だから、どこからが自分の考えで、どこからが外から影響されたものなのかは曖昧なのである。

多数決の罠

自分の内にある常識と、他の多くの人の中にある常識が一致しているとき、私たちはその社会に上手く馴染んでいるといえる。しかし、そこに大きなズレがあると、非常識な人と見做されてしまう。常識が問題になるのは、自分の見方と他の人の見方が異なるときなのである。つまり、私たちの常識とは、非常識を見付けた時に初めて見えるようになる、のである。その時に、普段私たちの内部に潜んでいる常識は表に引きずり出されて、その確認を迫られる。もし、内と外の常識が完全に一致しているならば、それは意識することすらできないだろう。

だが、内と外にズレがある時に、何を常識とし何を非常識とすれば良いのだろうか。そしてそれは、誰がどうやって判断するのだろうか。例えば、二人の見方に何かの食い違いが生まれたという場合、そこでの常識の判断の基準は、当事者たちの外にある。つまり、その周囲にいる人たちの頭の中にある知識、認識、価値観、感覚などと照らし合わされて、常識と非常識の判定が行われる。多くの場合は、多数決に基づいたものとなり、どの考えが最も「多い」のかで、その場の常識が判断される。

しかし、多数決は常識を判断する上でいつでも有効とは限らない。なぜならば、そこに出された考えが本当に「多数派」なのかどうかを知ることが難しいからだ。その場にいる全員が、それぞれの頭の中にある常識のカードを包み隠さずに見せ合うことができる状況はそう多くはない。

例えば、上司と部下のような上下関係や、権威ある有識者とそうでない人のような権力関係がある場合、あるいは発注者と受注者のような利害関係がある場合である。そんな状況では、弱い立場にある者は、自分の頭の中の考えを完全に自由に見せることは難しい。たとえ自分の考えと違った考えが常識としてそこに出されたたとしても、力関係の中で相手に同意したり、沈黙してしまうこともあるだろう。

また、他の人に影響されることで自分の考えが分からなくなってしまうこともある。たくさん並べられた常識のカードが、どれも妥当な考えに思えてしまうような場合だ。それ以前に、自分の考えを自由に表現するような言葉や方法、そしてその能力を持たない場合も多い。言葉として説明しにくい「暗黙知」(注1)のような感覚や勘などについては、表現されないことが多い。そもそもカードとしてそこに並べられないのである。

そうであるにも関わらず、その場に出された常識のカードを材料にして、非常識の判定を迫られることが多い。だから、表に並べられた考えの中で一番「多い」ものが選択されるか、あるいは勢いを帯びた「強い」ものがその場の空気を制してしまうことになる。たとえ、その判定結果が多くの人が思っていることと異なっていたとしても、強い立場の同調圧力に飲まれてしまう可能性がある。ここに多数決の難しさがある。

そもそも、それぞれの人の中にある知識や認識とは平等ではない。様々な知識をたくさん持ち合わせている人もいれば、ある知識が全く欠けている人もいる。ある物事を非常に深く理解している人もいれば、あまり深く考えずに表面的な理解に留まっている人もいる。そんな中で、たとえそれぞれの内部で当たり前だと思っている考えを出したとしても、科学技術のように専門的なものほど、そして詳細になるほど、常識が成り立たなくなっていく可能性が高い。

ましてや現代のように、高度に専門化してしまった社会においてはなおさらである。あらゆる分野に精通する人など居らず、専門化同士の間でも少し専門領域が異なると、当たり前とすることや前提とすることが大きく異なるものである。だから、全ての分野に渡って共通した常識というもの自体が成り立たない上、たとえそれが共有されていてたとしても、必ずしも常に正解であるとは限らないのである。常識とは正誤の問題ではないので、多くの人が当たり前だと思うことが正しいという前提は成り立たないからである。

だが、その正誤の判断は、この民主主義システムの中では多くの人が正しいとしたことで決められる。そこに多数決の罠、そして常識の罠が潜んでいる。大勢の人が常識としているのであれば、自分がおかしいと感じていることであっても、ほとんどの人は自らの口を噤んでしまう。「非常識」という烙印を押されて社会から排除されてしまうことを恐れるのである。

注1)
暗黙知とはハンガリーの社会科学者であるマイケル・ポランニーが唱えた用語で、身体的で主観的な経験、勘のように言語化することができないような知識のことを指す。1966年の「暗黙知の次元」で議論された。

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。