「最近、魂について考えている」
そう言うと、大抵の人はギョッとする。
僕はAIの研究者で、開発者だと思われているから、魂なんていう、科学的にあるかどうかもわからないもの、存在するかどうかもわからないものについて語ることは、非常におかしいし、場合によっては危険だ、と思われるのかもしれない。
ここでいう「魂」は、霊的なものでも宗教的なものでもないことを最初にお断りしておく。あくまでも、俗語としての「魂」であり、「魂」の神聖さを損なうつもりはない。むしろ魂というものがクオリアのように科学的な土台に乗らないからこそ、それは一体何なのかということに興味があるのだ。
しかし、AIについて研究しているからこそ、AI化不能なものはなんだろうと言う境界がむしろ気になるのであり、今のところそれを漠然と「魂」と名付けているだけなのだ。
人気マンガ「東京トイボックス」と「大東京トイボックス」では、「魂」と言う言葉が良く出てくる。
しかも、この「魂」は概念的なものではなくて、確かに存在するが説明不可能なもの、として出てくる。単なるマクガフィン(物語を進めるための正体不明なもの)とも違う。
特に「大東京トイボックス」では、主人公の新人ゲームプランナー百田モモは、先輩ゲームプランナー天川太陽から、「企画としては使い物にならないが魂は合ってる」と言う言葉をもらい、ゲーム開発における「魂」とはなんなのかと言う問いがこの作品の全編を貫くテーマとなっている。
僕自身もゲーム開発者出身のため、ゲーム開発の現場において、なんらかの「魂」めいたものの存在を意識したことは数多い。
たとえばゲーム開発では、企画書、仕様書、といった書類が存在する。「こんなゲームが作りたい」と言うことが書かれているものが企画書であるとすれば、「それは具体的にはこんなゲームです」と言うことが書かれているのが仕様書である。まあこの辺りの言葉の定義は現場によって違う。
企画書で面白そうに見えても、仕様書に落とした段階でつまらなくなってしまうものは多々ある。
その時、僕らは「魂が抜けてしまった」と考える。
企画書を読んだときや書いたときには確かにあった「面白そう」と言う感情を呼び起こす要素を「魂」と呼ぶとすれば、仕様書に落とし込むときに魂をどこかに忘れてしまったのだと解釈できる。
そして実際にプログラムが書かれ、同時にシナリオやスクリプトといったゲームの本体の中身(コンテンツ)の部分の作りこみを行うことによって、一回は抜け落ちた魂を取り戻すこともできる。
でも理想的なのは、最初の企画にあった魂が、仕様書でもしっくりきていて、中身を入れた時にしっかりと魂が噛み合うことだ。
小さいゲームの場合、企画者(プランナー)は、大体、企画、仕様、スクリプトの全工程に関わるので、魂が抜けにくい。いつでも魂を取り戻すチャンスがある。これが大規模化すると、全てのスクリプトを一人の人間が作り込むことが不可能になってしまい、魂が入り続けているのか確認するのが大変になる。
ゲーム開発の場合、プランナー、プログラマー、グラフィッカー、ミュージシャンの全員が一つの魂を共有しているのが理想的だが、集団芸術であるゲーム開発の現場において、そんなことは滅多にない。
10代の頃、アマチュアとして何本もゲームを作っていたが、面白くする方法が全くわからなかった。
なぜ自分のゲームはつまらなくて、他の人のゲームは面白いのだろうかと真剣に悩んだ。
ところが面白いゲームを作っている人と出会い、彼を師匠として寝食を共にすると・・・別に一緒に生活していたわけではないが、朝から晩まで一緒に飯を食い、遊び、家に帰って、また翌日飯を食いを繰り返していた・・・ある日突然、僕は面白いゲームが作れるようになっていた。
魂をインストールされたのである。
この現象は非常に不可解なのだが、色々整理してくるとある程度の説明ができるような気がした。
AIには蒸留(distillution)と言う作り方がある。
巨大で高性能なAIを師匠として、より小さくてコンパクトなAIを弟子として、師匠の感じたことを学習させるのである。
この方法で学習させると、弟子が単独で学習するよりも良い性能になることが知られている。
コンパクトなAIは、実行速度が速く使いやすくなるので、大抵の高性能なAIは、蒸留版が作られて使われるようになった。
この何が違うのか。
たとえば通常の学習では、学習データは一枚の写真に対し、「猫」「犬」のように覚えさせるのだが、実際のAIは「猫100%」「犬0%」のような結論は絶対に出さない。必ず「猫90%」「犬5%」「猿3%」のように、曖昧な迷いというか、「感覚」を持っている。弟子AIには師匠AIの持つこの感覚を覚えさせた方が、弟子に単独で「猫100%」「犬0%」のように教えるよりも遥かに効率が良いと言うのは興味深い現象だ。
よく、芸能人の付き人や運転手がそのまま芸人になったりする。志村けんも元々は加藤茶の付き人だった。
料理人も職人は手取り足取り教えず、技は見て盗めと言われる。それは単に意地悪をしているのではなく、魂の蒸留をしているのではないか。
最近のニューラルネットワークのようなAIは人工知能(Artificial Intelligence)ではなくむしろ人工直感(Artificial Intuition)だと言う研究者も増えてきた。
もしも我々が扱っているものが単なる知能ではなく、直感だとしたら、魂と言うのもそうかもしれない。もちろん、人間の持つ「魂」めいたものをAIがそのまま模倣できるかといったら無理だろう。データ化できないからである。
ただ、同じ事象を見て人間がどのように振る舞うか、と言うことだけをひたすら学習し、見た目だけは反応を模倣するようなことが、ひょっとするとAIにもできる日が来るかもしれない。
それは魂をAIに継承できたことになるのかどうか、それは全くわからないが。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。