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ヒトはなぜエンターテインメントを必要とするのか

2021.11.18

Updated by Ryo Shimizu on November 18, 2021, 08:34 am JST

ずっと疑問に思ってることがある。
なぜ人間はエンターテインメントを必要とするのだろう、ということだ。

娯楽がなくても生きていけるだろうか。
娯楽のない世界というものを想像してみる。
きっとそういう世界も世界のどこかにはあるはずだ。

しかし、もしも自分がそんな世界に放り込まれたら・・・やっぱり娯楽を発明してしまうのではないかと思う。
おそらく、娯楽が娯楽である条件というのは、物凄く限られたものである。
つまり最小限の娯楽には金がかからない。

たとえば、娯楽と限りなく切り離された世界、刑務所のようなところに監禁されたとしよう。
おそらくそこでも、その辺に転がっている木の棒や石ころを使えば、娯楽になってしまう。

木の棒で地面に絵や数式を書けるし、石ころを転がしたり、積んだり、並べたりすれば立派なゲームが作れる。

それすらも奪われたとして、最後は自分の頭がある。
どんな牢獄も頭の中だけは縛り付けることはできないから、頭の中で想像力を羽ばたかせ、宇宙へでも地底でも過去へでも未来へでも行ける。

こういうのを現実逃避と言うのかもしれないが、そもそも現実逃避というのは悪いことだろうか。

あらゆるエンターテインメントは、現実逃避である、と言われても否定できない。
現実を見つめるエンターテインメントというのはちょっとない。

むしろ現実を誇張したり、矮小化したり、歪曲したりするのがエンターテインメントである。

では現実逃避の逆の言葉として、現実直視というものを考えてみよう。

現実直視とはどのようなものだろうか。
たとえば鏡で自分を見てみる。

確かに鏡に映っているのは自分の姿だ。
しかしそれは、「自分で見た自分の姿」という現実の一面を見ているに過ぎない。

もしも全く知らない他人が目の前に立っていたらどうだろう。
その人が自分を見た時に感じる印象は、自分が鏡の中の自分を見て感じる印象と同じようになるわけがない。

現実を直視しようとすると、むしろ想像力が要求される。
現実逃避はよく批判めいた文脈で使われるが、現実直視の方が遥かに難しい。

福本伸行の漫画「最強伝説 黒沢」では、第一話の冒頭で、サッカーワールドカップの観戦をしている主人公はみんなと盛り上がりながら、ふと我に返ってしまう。

「他人事じゃないか・・・! どんなに大がかりでも、あれは他人事だ・・・!他人の祭りだ・・・!いったい・・・いつまで続けるつもりなんだ・・・?こんな事を・・・!」

これは現実直視である。

ワールドカップで日本が勝とうが、基本的には自分とは無関係だ。それによって日本の国力が上がるわけでも、自分の収入が上がるわけでもない。もしかすると、日本という幻想を共有した体験を持った人たちが何かを成し遂げてそれが税金のような形で日本国に還元されるかもしれないが、そんなことを期待するのは水道の浄水場で水源に身体に良い漢方薬を入れるくらい期待値が低い。

だったら何をするのも無意味で虚しい事なのだろうか。
それがずっと疑問だった。

こういう疑問は、小学生でも中学生でも高校生でもその後何歳になっても、繰り返し抱くだろう。

ゲームプログラマーは、娯楽のためにプログラミングという実用のための道具を使う。
かつてはゲーム開発というものを生業にしながら、どこか自分でもこの仕事に本当に意味はあるのかと疑問に思ったことは一度や二度ではない。

ただ僕にとっては、ベルトコンベアの制御コードや、銀行のシステムといった、わかりやすく人のお役に立つプログラムよりは、完全なる余計なもの、エンターテインメントとしてのプログラムへの興味が尽きなかった。

ゲームを含むエンターテインメントというのは、簡単に言えば、「面白ければなんでもアリ」の世界なのである。

だからプログラムの自由度は高い。今もそうだ。
でもゲーム、娯楽は、果たして単に現実を忘れさせるためのただの逃げ道なのか。

一見禁欲的な世界に思える教会の修道士や修道女とて、聖書を楽しみ、聖歌に心を躍らせ、耳を傾ける。
これだって一種のエンターテインメントだ。

映画「天使にラブソングを」では、経営難に苦しむ教会にひょんなことから匿われることになったリノのしがない歌手、ドロリスが退屈しのぎに聖歌隊を指導する。聖歌隊は正しい指導者がいなかったために魅力的な聖歌を歌うことができない。ドロリスのプロデュースによって圧倒的な魅力を持った聖歌隊は教会に若者を集め、寄付を集め、修道女たちの意識をも変えていく。

この映画はアメリカで六カ月を越すロングランヒットとなった。
北米的リアリズムの世界では、教会の活動はエンターテインメント的であり、それが肯定され得るという可能性を示している。

実際、日本でも神社やお寺に行くというのは、大抵はお参りかお祭りを意味する。
お祭りがエンターテインメントであることは疑いようもないだろう。

なぜ人はフィクションやエンターテインメントを本能的に求めるのだろうか。
たとえば、虫や鳥や犬や猫がエンターテインメントを楽しんでいるところを見たことはあまりない。

いや、僕が動物に詳しくないだけでもしかしたらあるのかもしれないが、一般的にコンサートに盲導犬以外のペットを連れて行きたいと言ったらよほどの事情がない限り断られるはずだ。

科学的に証明されていないことについて断定的に話をしたくはないが、一旦ここでは「ヒト以外はエンターテインメントを楽しまない」という仮定のもとで話を進めることにする。

人間がエンターテインメントを楽しむとは、一体どういうことだろう。
以前、コンドルズの橋詰さんに勧められてとある劇団の公演を見に行ったことがある。

非常に愉快で、楽しく、仕掛けも沢山あって勉強になった作品なのだが、ある時、冒頭で、ふと主人公が言ったことがまるで自分が責められているようで辛くなった。

人は、フィクションとして見せられた物語の中にも、自分の現実を照らしてしまうのだ。

フィクションはエンターテイメントの一分野だが、フィクションがヒットするときに重要な要素として「共感を呼ぶ」というものがある。
共感できないフィクションは楽しめないのが普通だ。そしてフィクションは、主人公に共感するように作られる。

エンターテインメントの中でも、とりわけフィクションが持つ力は強大だ。
たとえば、クラシックコンサートを聞いて幸せな気分になっても、そこから新しい発想を得る人は少ない。

ところがマーベルの「アイアンマン」を見れば、人は窮地に陥っても自ら道具を作り出し、脱出できるというインスピレーションを得ることができる。

実際、僕はアイアンマンを最初に見た時、ビックリした。これからの世界は、スポーツ選手ではなく発明家が主役なんだと、そして自ら発明し、その発明を自ら活用するものが勝利するのだというメッセージを感じ取ったからだ。これは、1980年の映画「フラッシュ・ゴードン」の主人公がアメフトのクォーターバックだった時代から考えると革命的な出来事である。

もちろんこれはウソ(フィクション)である。
フィクションでありながら、明らかに時代に呼応した現実感(リアリティ)を感じ取ってしまう。
そして「このウソを現実にしたい」という気持ちにさせてくれるのである。まさに共感だ。

19世紀の作家ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書かなければ、ロバート・ゴダードは宇宙ロケットを作ろうとはしなかっただろう。

ゴダードの情熱は涙を誘う。Wikipediaによればゴダードの生前の評価はこのようになされている。

彼の研究は時代を先取りしすぎていたため、同時代人からはマッドサイエンティスト扱いされ、しばしば嘲笑の対象になった。 ゴダードが1920年の論文『高々度に達する方法』で、ロケットは真空の宇宙空間でも推進できると主張したことに対し、ニューヨーク・タイムズ紙は、物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことを「誰でも知っている」とし、ゴダードが「高校で習う知識を持っていないようだ」と酷評した。ゴダードは他の科学者やメディアから受けた不当な評価のため、他人を信用しないようになり、死去するまで研究は単独で行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・ゴダード

笑い物になりながらも、死ぬまで一人でロケットの研究をし続けたゴダード。彼は死後評価され、ニューヨークタイムズは半世紀後に社説を撤回した。彼の名はNASAで最初の宇宙飛行士訓練センター「ゴダード宇宙飛行センター」の名前として今も残っている。

フィクションにより刺激された想像力が、人を月にまで到達させてしまう。
どのような発明も、想像力なしに生まれることはない。

つまり、最近、僕はこう思い直しているのだ。

エンターテインメントとは、想像力を拡張するために不可欠な活動であると。

人間にとって適度な運動や食事が大事なように、エンターテインメントもまた生きるのに必要なものだ。

鏡だけを見ていても現実を直視することにならないのは、視点が固定されているからである。
一つの事象であっても、視点を変えれば全く別の事実が浮かび上がる、ということは、たとえば黒澤明の映画「羅生門」で示されている。

逆に言えば、一つの視点からでは事象の真の理解には程遠いということを暗喩させる映画でもある。

せきぐちあいみのVRアート作品群は、単にVR空間に何かが置かれているというだけでなく、その何気ない風景のさまざまな場所に視点を移し、潜り込むことができるというVRでありながら錯視をうまく利用したトリックに溢れている。観客は「そんなところまで描いてあるのか」とビックリするのである。

一見すると何の新しい発見もなさそうなクラシック音楽のコンサートであっても、二度と同じ演奏というものはない。
同じ演奏が同じように聞こえたとしても、繰り返し聞いているうちに聞くべきポイントがわかってきて、コンサートに繰り返し通う人にとっては、やはり同じ演奏が同じように聞こえているわけではない。

名画を鑑賞するときに、同じものを何度も見に行きたくなってしまうのは偶然ではない。
僕は神社やお寺に行った時、行列に並んでまでお参りをするのは面倒だと思ってしまうタチだが、パリに立ち寄った時は必ずルーヴルのサモトラケのニケ像だけは見ておきたくなってしまう。

僕はルーヴルは絵画よりも石膏像が好きで、石膏像の部屋には何時間でもいられる。
石膏像は陽光の変化や観客の有無に機敏に反応し、常にその表情を変えているからだ。

影となっていた部分に光が当たれば、また別の現実が映し出される。

映画「シン・ゴジラ」で最初にワクワクしたシーンは、ゴジラに対抗するために使う道具として、高圧ポンプ車の白黒写真が出てきたところだ。

虚構の象徴としてのゴジラに対し、現実に起きた悲劇で活躍した現実の道具が必殺の武器として示されるのである。
一番盛り上がるシーンは、もちろんクライマックスで無人操縦の新幹線N700系が東京駅のゴジラに対し突入するところ。そして、高層ビルが武器として能動的にゴジラに襲いかかるシーンである。

このシーンの凄さは、ゴジラという映画が半世紀以上続いてきた中で、常に蹂躙され、弄ばれるだけだった電車や高層ビルといったものが、ゴジラに対して敢然と立ち向かうところである。

そして最も弄ばれる率の高かった在来線は、ゴジラ対策の秘策として、ここぞという時に活躍する。

カタルシスのお手本のようなこの作品は、結局のところ理想のリーダーシップとは何か、国防とは何かという問題について大いに想像力を刺激する。

シン・ゴジラを2回目以降に見ると、中間でさりげなくインサートされる平常運転の在来線が実に頼もしく見える。
普通に暮らしていたら、在来線を見て「頼もしい」と思うことはないはずだ。

あくまでも、シン・ゴジラという虚構(フィクション)の中で、後の運命を知っているからこそ在来線の描写を頼もしく感じるのである。
そして、映画を見終わった後に、平和の有難味を噛み締め、「ゴジラが現実にいなくてよかった」と安堵し、同時に「しかし果たしてまた新しい災害が起きた時、日本は立ち向かえるのだろうか」という不安も刺激したのである。

新型コロナ対策における政府のドタバタは、どこか「シン・ゴジラ」が現実になったかのような奇妙な錯誤があった。
中村育二演じる金井防災担当大臣が「想定外」を連発する様はどこか他人事のように聞こえる。

今は一時的に落ち着いているが、いつまた第六波が上陸するかわからない今の状況は、まさに「シン・ゴジラ」のラストシーンとつながる。

エンターテインメントがヒトに与えるのは常に希望であり、伝わるのはこうありたいというヒトの願いだろう。
その意味で、全てのエンターテインメントはあらゆる人々にとっての福音であり、未来を切り開くための道標なのだろう。

エンターテインメントはプログラムとはまた違った意味で、時間と空間を超えて「ヒトとヒトが力を合わせる方法」に違いない。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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