写真:Melinda Nagy / shutterstock
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1980年代の半ば、現在のような経済成長の勢いがまだあまり見えない時期のインドネシア・ジャワの村落で、2年ほど人類学的な調査をした。その村はジャカルタとスラバヤを結ぶ幹線道路からかなり奥まったところにあり、道路近くなら電線は引かれていたものの、当該農村では電気がなかった。
夜になると、多少裕福な家はペトロマというランタンで明かりを確保していたが、貧しい家では、バロック時代の絵にでも出てきそうな灯油の火で暗闇を照らす、という状態も稀ではなかった。大河ドラマの夜のシーンは、たいてい明るすぎて興ざめなのは、こうした体験の後遺症である。
また当時は、テレビ局が国営のTVRIしかなく、しかもそれを観るには、バッテリーをバイクに積んで、町で充電してこなければならなかった。大半はインドネシア語の放送だが、週末になると、ジャワ語による影絵芝居(ワヤン)の番組などがあり、その際は近隣の村民が集まってきた。
数年後に再訪した時には、既に村に電線が引かれ、多くの家庭がマイ・テレビを持つようになって、そうした古き良き慣習は既に消滅していた。その後、衛星放送が普及し、テレビ局数も爆発的に増え、更にウェブの時代である。近代化の力は恐ろしい。
そんな感じの生活を2年ほど続けた後に日本に帰ってくると、そこは80年代後半、バブル最盛期の日本であった。当時ジャワで普通に着ていたサファリを見て、道化研究で有名な某人類学者が連れてきた出版関係の女性に、(このバブルのご時世に)珍しい格好、と厭味を言われたのをよく覚えている。世情は浮かれまくり、息をするのも不快で家にこもりがちだったが、その後『80年代はスカだった』といった雑誌特集も出て、少なからぬ人々がそう感じていたのか、と多少溜飲を下げた記憶がある。
不思議なもので、バブルが弾けた現在では、それは明らかにただの「泡」だったと分かるのだが、その真っ最中では、必ずしも多くの人がそう理解していたとも思えなかった。実際、この好景気は日本の実力を反映していると主張していた経済評論家もいたが、バブルが弾けたあと、表舞台から消えた。
時を経て多少復活したようだったが、以前のような鼻息の荒さは感じなかった。また後に複雑系経済学についての研究会に参加した時、そこにいたマルクス経済学者たちが、「自分たちは、当時からこれはバブルだと主張していた」と言い張っていたが、『資本論』とバブル経済の関係もよく分からなかった。
「期待」は開発に作用する
私はこの分野の専門家ではないが、こうした熱狂のダイナミズムは、科学技術社会学(STS)、特にテクノロジー開発を考える上で、重要な論点の一つである。それを研究する分野は、「期待」の社会学と呼ばれており、特にテクノロジーの初期開発段階において、期待という現象が開発とどう関係するかを分析するものである。
ただし、必ずしも期待という言葉だけが使われる訳ではなく、アイスランドのゲノム研究計画の歴史を分析した人類学者は、このプロジェクトに頻出する様々な「約束」について分析している。
これから勃興する(かもしれない)テクノロジーに関して、それをあたかも保証するような約束や、その未来への期待というのが、その開発に本質的に係わっているというのがこの分野の主張である。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む)。
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