写真:ssi77 / shutterstock
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学者は、査読つき論文を発表しているか否かで評価をされることがあるが、「査読」は絶対的な評価となり得るものではない。査読論文中心主義の弊害を紐解く。
科学者とは、本を書く人?
かなり前のことだが、大学の少人数授業の際、理系とはあまり縁がなさそうな学生達に対して、科学者というのは一言でいうと何をする人か、という質問をしたことがある。いろいろな回答があったが、唯一覚えているのが、科学者とは「本を書く人」という回答であった。ボイル(R.Boyle)やダーウィン(C.Darwin)の時代ならその定義も全く間違いとはいえないが、これは現在では当てはまらない回答である。
勿論、科学者にも(様々なタイプの)本を書く人はいて、教科書や入門書、あるいはそれ以外の評論等を書いて、ものによってはベストセラーになり、ナントカ賞を獲ってメディアの寵児になる場合もある。しかし正解は、科学者が書くのは、論文、しかも専門誌に掲載されたそれである。
論文とは、ある意味では、科学的実践の最重要インフラの一つとも言える制度である。それゆえ科学技術社会学(STS)では、その役割について突っ込んだ議論をしてきた。実際、ラトゥール(B.Latour)のような論者は、科学の性質を論じる際、仰々しい哲学的認識論よりも、むしろ論文という小さなメディアが持つ重要性を強調している。つまりこの媒体は、いろいろな場所に持ち運び可能である(mobile)と同時に、場所が変わってもその内容が変化しない(immutable)という点に、科学的実践の一つの根拠を見ているのである。
理系、そして近年では人文社会系でも、論文をいかに良いジャーナルに載せるか、という競争が激しくなってきている。勿論ジャーナルが高名であればあるほど、その道は険しい。掲載のためには同業者によるチェックが入り、そこを通過しないと論文は掲載されない。それがいわゆるピア・レビュー、あるいは査読という仕組みである。雑誌の方針によって、査読者の数、名前を公表するかしないか(ダブルブラインドは著者、査読者ともに匿名、シングルブラインドは査読者のみ匿名)等の様々なバリエーションがある。
PCRは論文誌の査読に落ちている
科学研究費の申請書には、査読つき論文か否か、という弁別があるが、これは査読つき論文の方がより高い品質保証があるという意味である。査読つき論文中心主義は、もともと理系の慣習だったが、人文社会系にもその波が押し寄せており、英国では社会科学系も、著作よりも査読つき論文数が業績の基礎になりつつある。だが、こうした波には弊害もある。
査読によって拒否された論文がその後ノーベル賞を獲ったという事例はいくつもあるが、コロナ禍でも活躍したPCRはその典型である。国内の例では、以前、戦後最大のバイオ研究計画である「タンパク3000」プロジェクトについて調べていた時、その立役者の一人の講演会を聞きに行った際の話がある。彼によれば、論文を投稿するということは、4割だか6割だかいるバカな[ママ]査読者との戦いだという。彼は、当時としては極めて先駆的だった高速度ゲノム解析の案を愚弄した覆面査読者に非常に腹を立て、その文言をどこかの国際的アーカイブに永久保存しているらしい。
査読者の先見性の無さという話は、何も理系には限らない。STS周辺でも、インフラ研究で有名なある知り合いは、自分が書いた論文への査読報告に応じて渋々修正したが、後に担当した別の査読者が彼に直接「書き直す前の方がよかった」と言ったという。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の前半部分です。
(「科学のインフラ『査読』には数々の問題が潜んでいる」について続きを読む)
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