
パブリックドメイン
スーパー書評「ダーウィンが提起した生物の生存経過」
『種の起原』番外編
2025.05.22
Updated by Yoichiro Murakami on May 22, 2025, 14:36 pm JST
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2025.05.22
Updated by Yoichiro Murakami on May 22, 2025, 14:36 pm JST
『種の起原』を巡る様々なエピソードの最初は、出版前に遡ります。その主役は、同じイギリスのウォレス(Alfred Russel Wallace, 1823~1913)という人物です。
彼は昆虫類に興味を持ってマレー半島まで赴き、その地に滞在中、当時盛名の高かったマルサス(Thomas Robert Malthus, 1766~1834)の『人口論』(恐らくは1803年の第二版)を読んで、人間の生存のための条件(の過酷さ)から思い付いたと称する一つの論文を仕上げます。原文のタイトルは「On the tendency of varieties to depart indefinitely from the original type」というものでした。「元になる型から無限に離脱しようとする変異の傾向について」とでも訳せばよいでしょうか。この内容は、生存競争に基づく変異の多様化が種の生成に関与している、というものでした。
そしてウォレスは、この論考の送り先を、その分野で多少名を知られるようになっていて、理解して貰えそう、と思えたダーウィンその人に定めたのです。1858年のことでした。因みにダーウィン自身、マルサスの『人口論』には強い影響を受けたことがありました。
そのダーウィンは、もともと引っ込み思案の勝った性格もあって、自分が考え付いた自然選択説の処理に関して、公表することを躊躇していました。誰もが気が付くように、『創世記』には、生物は(人間も含めて)一つひとつ神の手で創造された旨説かれていることに、自説が衝突することも、躊躇の理由の一つだったと思われます。しかし、彼を取り巻く親切な友人たち、例えばフッカー(Joseph Dalton Hooker, 1817~1911)らの慫慂、斡旋もあって、重い腰を上げ、自説を展開する書物の執筆にとりかかっていました。
まさしくその最中、アジアにいる未知のウォレスから、もし価値があるとご判断下されば、何処かに発表の機会を設けて頂けないか、という丁寧な依頼状とともに、論考が送られてきたのでした。
科学の歴史の中には、「同時発見」(SD=simultaneous discoveries, multiple discoveryと呼ばれることもある)という現象があります。同じアイディアや法則、理論が、全く無関係な人々によって、ほとんど同じ時期に着想・公表されることです。この現象に関する説明は、ここではいたしませんが、このウォレスとダーウィンとの間に起こったSDは、その経緯から言っても、非常に珍しい事例となっています。
それはともかく、ダーウィンはウォレスの依頼を受け取って、殆ど絶望的になり、執筆途中の書物も放棄しようとします。再び友人たちが、自分たちとの間に交わされた書簡などからも、ダーウィンの自説着想が、ウォレスよりもはるかに以前から育まれていることを実証できるから、諦める必要は全くない、著作を急いで仕上げると同時に、自説の簡単なサマリーを纏めてウォレスの論考と一緒に発表するように、と助言を行いました。ダーウィンはこの助言に従って、同じ年のリンネ学会で発表を行ったのが、自然選択による種の進化という理論が世に出た初め、ということになります。
因みにSDでは、関係者が自分の有利を醜く争う事例もあります。例えば熱力学の第一法則の発見ではジュール(James Prescott Joule, 1818~89)、マイヤー(Julius Lothar Meyer, 1830~95)、キルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff, 1824~87)らの間に起こった論争はよく知られています。ダーウィンとウォレスとの間は、先に述べたように、難しい経緯があったにも関わらず、特にウォレスの謙譲もあって、理想的に穏やかな結末をみました。ウォレスはダーウィンの行為を徳として受け止め、後には『ダーウィニズム』と題する著作を発表(1889年)して、ダーウィンへの敬意を終生崩しませんでした。またダーウィンは、書きかけていて中断した著作の構想を変更し、出来る限り簡易な内容とした書物を急ぎ1859年に発表することになりました。それが『種の起原』の初版だったのです。彼が存命中、繰り返し版を改めて、大幅な加筆改訂を行ってきた理由の一端は、こういったことで、ダーウィンにとって初版は「粗製」の趣があったところにあると考えられます。
一方、この書物が世界に引き起こした様々な問題の中でも、現代に尾を引く最大のものは、すでに示唆した『創世記』の記事との衝突を巡るものでした。特に一般の生物種もさることながら、ヒトという生物に絡む諸問題が深刻だったからです。
第一にヒトも生物の一種である以上、ダーウィンの理論に従えば、自然選択の結果として、元になる別の生物から「進化」してきたと見做さざるを得ないことになりましょう。最も近縁の種はサルですから、遥かに昔にヒトはサルから自然選択によって分かれて存在するようになったとされます。この点は、当時の人間社会、特に『創世記』の記事によれば、人間は「神に似せて」造られた、と書かれていることを基礎とする、当時のイギリス、ヨーロッパ社会の人間観に鑑みれば、極めて深刻な動揺を生み出す性格のものでした。
その最も目覚ましい実例が、本家イギリス・オクスフォード自然誌館で、『種の起原』初版刊行の翌年、イギリス協会(British Association)主催で開かれた討論会にあります。そこにはダーウィンは例によって出席せず、代弁者として友人のオーウェン(Richard Owen, 1804~92)と、後には「ダーウィンのブルドッグ」と綽名されるようになるハクスリー(Thomas Henry Huxley, 1825~95)が出席し、相手方の一人には、当時のイギリス言論界の大立者ウィルバーフォース(Samuel Wilberforce, 1805~73)がいました。ウィルバーフォースの父親は、イギリスにおける奴隷解放運動に挺身したことで知られる人物ですが、彼自身は、聖公会の中でもハイチャーチ派(カトリシズムと最も強く親和性を持つ立場)の有力者でもあり、<Soapy Sam>(<soapy>には「能弁者」、「おべっか遣い」など正負両面の意味がある)と綽名される論客でしたが、そこで彼はハクスリーに向かって、では君は母方のサルの子孫なのか、父方のサルの子孫なのか、と訊ねたことで、この論争を現代まで記憶させることになりました。
因みに、こうした激しいリアクションが想定される当初は、慎重に口を噤んで、論争をハクスリーらに一任していたダーウィンですが、問題がほぼ一段落した晩年、自身揺るぎない立場に立つことができた上に、この刺激的な話題に関する自説を展開しておく義務があると感じたのでしょう、『人間の由来』(The Descent of Man and Selection in Relation to Sex)と題する書物を1871年に発表しています。ここでは「性淘汰」という概念が主要な役割を果たしています。
さてこれまでは、専ら生物種としてのヒトの起源が問題とされますが、より一般化して、生物種が歴史的な時間の中で「進化」することによって生まれたとする彼の主張そのものも、『創世記』の内容に衝突することになる、という論点は、既に『種の起原』初版で公表しています。「おのおのの種が独立に創造されたとする見解によっては、全生物の分類に見られるこの大きな事実を説明することはできない」(邦訳172ページ)。とすれば、これは神学上も、あるいは聖書の上によって立つキリスト教社会の常識からも、由々しき事態に違いありません。この論点から発生する様々な問題を網羅的に論じれば、分厚い一冊の書物でも足りないでしょう。ここでは極少数の場面に限って触れるにとどめます。
一つはアメリカで起こった「サル裁判」(Monkey Trial)とも言われる「スコープス裁判」です。スコープス(John Scopes, 1901~70)というのは、この裁判の被告となった人物で、当時はテネシー州デイトンで高等学校の教師をしていました。1925年に彼はバトラー法という州法違反で告発され、有罪を宣告されます。彼はこの州法違反者の第一号でもありました。バトラー(John W. Butler, 1875~1952)は、1923年からテネシー州議会議員を務めていましたが、彼の提案で1925年制定されたのがこの州法でした。内容は、公教育の場面で、進化論、特に人間の起源に関する進化論を禁じる、というものでした。スコープスはそれに真っすぐに引っかかったことになります。この法律は、実に1960年代半ばまで撤回されませんでした。
さすがに、バトラー法はなくなりましたが、アメリカの一部の州ではID説を公教育では採用すべき、という主張が今でも強いことは、指摘すべきでしょう。IDというのは<Intelligent Design>の略語で、要するに、ヤハヴェーとかアッラーなどの全知全能の具体的実体を備えた創造主をそのまま引用しなくても、自然現象を具に観察すればするほど、それぞれの環境の中で、極めて複雑、独自の特性を備えた、見事な生物が存在することが判り、それが偶然の経過に任された結果であるとは到底信じられず、様々な秩序の構成者を前提とせざるを得ない、そうした思いを一つの理論に纏め上げたものがID説ということができますが、それは18世紀イギリスの自然神学者W.ペイリー(William Paley, 1743~1805)の体系の発想にかなり近いものと言われています。
聖書にのみ信仰の基礎を置くことを強く主張するプロテスタント諸派が、『創世記』の言葉通りの解釈に忠実になろうとすればするほど、進化論との対立点が厳しくなることは想像できますが、その点で、聖書を離れて歴史的習慣を大切に扱う傾向のあるカトリシズムは、今日この問題に関して、どのような立場にいるのでしょうか。
それを表す良い資料が、1996年教皇庁科学アカデミーの総会において、当時の教皇ヨハネ・パウロⅡ世(1975年~2005年まで在位)が発した「教書」(アーカイヴ・サーヴィスのCNS Documentary Service, 1996/11/14日号で入手できます)において興味ある発言をしています。そこではヒトという種の誕生も含めて、基本的に科学の立場での進化論に疑問の余地は無くなっていることを率直に認め、その上で、ヒトの出現の上に「人間性」が神の手で加えられた、という解釈を述べています。人間の知識には、直接的経験に基づくレヴェル、理性による反省的な働きに基づくレヴェル、そして神の直接的な福音に基づくレヴェルがあるはず、という知識の階層構造を前提にした議論が採用されている、とみることができる発言だと思われます。宗教の立場からよく使われるレトリックの形式ですが、どれだけの一般普遍の説得性があるでしょうか。
それはともかく、ガリレオ事件と並んで、このダーウィの進化論が、ユダヤ教の聖典である『創世記』を認める、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の圏域において、ダーウィンの理論が齎した動揺は、単に歴史的にとどまらず、現代社会にもそれなりの影響を与え続けていると申せましょう。
もう一つの社会的問題は、公開された時代の特性と重なって(逆に見れば、こうした進化の考え方が同時発見を含めて19世紀半ば頃に始まったことが、時代の風潮からの影響でもあった、という解釈もできますが)、「進歩」(進化ではなく)という人間社会における新しい解釈が生まれた、というところにあります。この点は因果の関係が双方向的と考えられることは上に留意した通りですが。
進化の歴史的な経過は、「単純から複雑へ」という枠組みで理解できるように思われますし、そうした意味では、ユダヤ・キリスト教的な立場に立たなくとも、「進化」の階梯の頂点にヒトがある、という解釈は自然のように思われるのです(実際には、現在の進化説に従えば、進化の階梯は決して一本道ではなく、頂点には、例えば軟体動物のタコもまた、進化の筋道の一つの頂点と考えられていて、実際タコの「賢さ」は驚くべきものであることが知られています)。
人間社会にも、生存競争によって「進歩」が期待できるのではないか、進化論の発展形として、ある意味では自然な展開ともいえるこうした考え方が、ダーウィンの所説の公開とほとんど同時に、ヨーロッパ社会に広がり始めます。ヨーロッパでは、ちょうど資本主義の勃興期でもあり、その原理が自由競争によって、優れた消費財を提供できる企業が生き残り、結果として社会の進歩も達成される、という考え方である以上、ダーウィン説が、そうした考え方を支える格好の「科学的」な基礎づけと見做されたのも、自然なことであったと思われます。
そのような立場を社会ダーウィニズムと呼んでいます。その代表としてスペンサー(Herbert Spencer, 1820~1903)を挙げましょう。ただ、彼の場合は、ダーウィンとは別個に、既にある種の生物進化論的発想を得ていたことは、彼が公表した『社会静学』(Social Statics, 1848~51)と題された著作にも窺えます。この書の発表年代をみれば、『種の起原』初版刊行年と見事に重なっています。これも先述のSDの現象の一つとも受け取れるのですが、スペンサーは、その後、哲学、生物学、心理学、社会学、倫理学などの領域で、大著を発表し続けます。そうした中で展開される論点の一つが、まさしく自説を更に決定的に補強してくれる「進化理論」を、産業革命と資本主義の真っただ中のヨーロッパ社会に適応させるという着想でした。
因みに、そもそも「社会学」という学問領域が出発するのは、オーギュスト・コント(Isidor Auguste M. F. X. Comte, 1798~1857)の手で一九世紀半ば近くの名付けに始まると言ってよいのですが、こうしたスペンサーの社会進化論は、生まれたての社会学の基礎理論の一つとなった感があります。勿論、マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818~83)の社会主義理論である『資本論』(Das Kapital)の第1巻は1867年に刊行されていることも記憶に留めておくべきですが。脱線すればマルクスは1849年にはイギリスに亡命しています。もう一つ脱線すれば、マルクスは『資本論』初版を献辞とともにダーウィンに贈呈しています。
すっかり脱線してしまいました。社会ダーウィニズムと呼ばれるものの中には、例えばチェンバレン(Josef Chamberlain, 1836~1914)のように、人種の優劣などに進化論を絡めて、当時のイギリス帝国主義的世界発展を支える議論なども含められるとされます。
もう一つ、その後の歴史の中で、どうしても無視できないとして優生学(Eugenics)の誕生があります。この言葉の提案者とされるゴルトン(Francis Galton, 1822~911)は、ダーウィンの母方の従弟にあたります。裕福な家庭の子弟として、趣味的な姿勢で自然現象の謎に挑む、当時のイギリスの科学者(gentleman scientistと呼ばれる)の典型で、遺伝現象に関心を持ち、天才の家系の研究、これも進歩途上の統計学などの組み合わせで、1883年に<Eugenics>という言葉を生み出したのが、優生学の出発点となりました。優生学は一方でナチスのアーリア民族至上主義や精神病者の断種政策などの結果を生み、日本でも、現在の母体保護法の前身に当たる優生保護法にも影響を与えてきました。
かつての優生保護法は、戦後すぐに引き揚げてくる外地からの若い女性たちの多くが、現地でレイプにあって身籠っていることへの対応として、引き揚げ者の引き取り業務の中で、当時不法とされた堕胎を引き受けざるを得ない事態が続き、あるいは引き揚げ者によって日本の人口が膨れ上がり、他方当時の農業生産力は極悪な状況の中で、出来る限り「人減らし」が国家目標となる中で、進歩的とされる共産党や社会党の議員から議員立法として提案・可決され成立した法律でした。事程左様に優生学というのは、現在では許すべからざる人権侵害を惹起する、と一言で断じられますが、一筋縄ではいかない側面を含んでいます。現在の超高齢社会において、安楽死の問題などにも無関係ではないことも付け加えておきましょう。
上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。