March 23, 2026
村上 陽一郎 yoichiro_murakami
1936年東京生まれ。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長、東洋英和女学院大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授、豊田工業大学次世代文明センター長、一般財団法人日本アスペン研究所副理事長。2015年に瑞宝中綬章受章。膨大な数の著書・訳書・編著を誇るが、代表的なものに『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全学』、シャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』などがある。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家としても活動中。
「重陽の節句」に生まれて生まれたのは、当時両親が借りていた東京、上原の借家、つまり自宅だったとのことです。「院内誕生」などということがおよそ考えられない時代です。昭和十一(一九三六)年まだ夏の厳しい暑さが残る九月七日、事情は聞かされていないのですが、届け出が二日遅れて(あるいは「重陽の節句」にあやかるよう、親たちが意図的に「遅らせ」たのかもしれません)、戸籍では九日になっています。命名は明らかに「重陽」が意識されたものでしょう。三年上に姉がいて、実はその前にさらに女児が生まれたらしいのですが、生後直ぐに亡くなったと聞いています。したがって、戸籍上は姉は次女、私は長男で、しかも末っ子、あとはいません。両親にとっては、別の思いもあったでしょうが、私にとっては、長姉なるものは、墓もありませんし、よほど緊急状況だったのか、写真一葉さえなく、無論何の記憶も、感慨もない存在です。仏教の立場から言えば「縁」は消すことができないのかもしれませんが、戸籍の上だけの所縁でしかないままです。
海軍の軍医だった父親は、写真が趣味で、ツアイスの名機スーパーシックスを使って家族の写真を数多く残してくれました。夜中、引き延ばし、現像、定着、乾燥など、独り黙々と作業をしている父の姿が、記憶に残っています。そんなわけで、生後間もなくからの私の写真はいくつもありますが、汗疹を咎めたのか、湿布、包帯だらけで映っている写真ばかりです。生まれた時の体重は三・六6Kgほど、と言えば、その頃の言い方ではほぼ一貫目、現代のように、小さく産んで大きく育てる、というような習慣のない時代としては、まあ理想的な誕生だったと言えるでしょうか。父親は身長が一・八メートルほどある、当時としてはかなりな巨漢、母親は標準的な体格で、父親三十六歳、母親三十二歳のときの子供ということになります。まあ、ごく当たり前の出発点だったと言えましょう。
父親の係累は皆無と言ってよく、これに反して、母親は、これも実際は先に一人女児があったそうで、つまりは次女なのですが、ここでは、その女児は戸籍にも入らず、長女として育ちました。その母親(私にとっての母方の祖母)は長命で、いつも身近に暮らしていましたし、母親の兄弟妹は、私が実際に知っている限りで、六人はいて(祖母は十人を超える子供をもうけたらしいのですが、成人したのは母を入れて七人だったようです)、何かと暮らしの中に登場していましたから、彼らの家族も含めれば、親戚と名の付く人々は、現代の標準から言えば、かなり多かったと思いますが、私が成人するころになっても、すべて健在でした。祖母の連れ合いは、それだけの子供を妻に産ませながら、馴染みになった芸者と出奔し、別に所帯を持ったとのことで、私は写真でしか会ったことがありません。祖母が十七歳のとき産んだ伯父が、言わば家長的存在として、君臨していました。
父親は、医学部で病理学を専攻し、経済状況が許せば、そのまま学位をとるために、大学に残った(念のために書いておきますが、当時大学には、現在のような制度化された大学院は存在しませんでした)のでしょうが、後ろ盾のない身分がそれを許さなかったので、海軍に任官(記憶が正しければ、東大のような正規の大学の医学部卒業者は、任官したときがすでに軍医中尉であったと思います)しました。そして、当時軍にあった「依託学生」制度を活用して、古巣の病理教室に戻り、そこで学位を得ます。その時の成績が良かったのでしょう、いわゆる「恩賜の銀時計」なるものを戴いています。その後は、築地にあった海軍軍医学校で教官を務めており、専ら研究活動に従事していたようです。ただ、私が生まれた翌昭和十二(一九三七)年に始まった「支那事変」(当時の言い方)では、陸戦隊とともに、大陸に従軍したこともあったようですが、それも暫くで、私が物心ついて後は、毎日軍服姿で築地に通っている父親像しか覚えがありません。
昭和十五(一九四〇)年は紀元二千六百年奉祝の年でしたが、海軍では、横須賀沖で大々的な、奉祝の観艦式を行いました。今の人には判らないでしょうが、当時は、天皇の世代を基にした元号による紀年法のほかに、神武天皇の即位年を基礎とした通算の皇紀法があって、それが二千六百年を迎えたのが昭和十五年となったわけです。余計なことかもしれませんが、当時日本政府は、外国政府に、それぞれの国の代表的な作曲家に奉祝曲を寄せるよう依頼しました。届いた奉祝曲の中には、ドイツのリヒアルト・シュトラウス作品、フランスのジャック・イベール作品、イギリスのベンジャミン・ブリテン作品などが含まれていました。
話が脇道に逸れました。その際父は艦隊軍医長として、お召艦比叡に乗り、私たち家族も、食事会に招かれました。四歳の時ですから、当然記憶はおぼろですが、それでも生まれて初めての強烈な印象があったのでしょう、内火艇で舷側に、揺れるタラップを恐々登ると、登舷礼で捧げ筒をした衛兵が迎えてくれたこと、真っ白なクロスのかかった食卓などは、妙に鮮明に記憶に残っています。その後も、東京港区の飯倉にあった、海軍の士官用の施設水交社で、ときどき、家族全員で食事を楽しむ、というような機会がありました。
一見穏やかで平和な時間は、長くは続きませんでした。ハワイ真珠湾攻撃による英米との正式開戦が翌年十二月八日、ただし不名誉なことに、東南アジアへ進出していた日本軍は、マレー半島のコタバルで、真珠湾攻撃よりも一時間以上早く、英軍との間に火ぶたを切っており、その連関もあって、英領シンガポールをあっさり陥落させ、昭南島と命名、東南アジア経営の拠点とする一方でプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とするイギリス東洋艦隊をマレー沖で壊滅させる、などの当初の華々しい戦果を上げましたが、一年を経ずに迎えた昭和十七年六月五日のミッドウェイ沖海戦で、山本五十六率いる日本の機動部隊は、全空母を失うという致命的な敗北を喫することで、帳消しとなり、戦局は一挙に傾くことになります。ミッドウェイはハワイ諸島から西へ、太平洋のまさしく真ん中、経緯一八〇度近辺の島です。余談になりますが、このとき、空母および艦載機の戦力は、ほぼ拮抗(ただ米軍には、ハワイの基地からの空軍の支援が加わった)状態でしたが、米軍が日本の無線通信の傍受・解読に成功したこと、日本軍の空母における索敵や装備の準備に不手際が重なったことが、大敗の原因だったとされています。勿論、一般の国民は、この敗戦については全く知らされず、敵の空母を撃沈した(そのこと自体は間違ってはいなかったのですが)ニュースばかりが大々的に喧伝され、大本営発表の「勝利」なるものに沸いたのでした。
実はこの直前、昭和十七年四月十八日、日本は不吉な前兆を見ていました。この日、太平洋上の空母から発したB25爆撃機が、日本本土のいくつかの都市に、初めての空爆を行ったのでした。「ドゥーリットル爆撃」と通称されるこの事件は、具体的な被害は少なかったものの、日本国民に対して、心理的に極めて大きな警告となったのです。この時米空軍機は、発艦した空母に戻るだけの航続距離がなく、蒋介石率いる中国に庇護を求めるという、決死行でした。その後の徹底した焼夷弾による日本都市空爆の皮切りでもありました。しかし、事態が決定的になったのは、米空軍に、洋上の空母から発進して、母艦に帰投できる十分な航続距離を備えたB29が配備されるようになった昭和十九年からです。以降、「東部軍管区情報」のアナウンスとともに、ラジオは毎日、「警戒警報」そして「空襲警報」へと、警報を伝えるのでした。各家庭は、余裕があれば、独自に庭に防空壕を掘りました。我が家でも、植木屋に頼んで、かなり深く、十二畳敷位の広さの穴を掘り、半割にした竹を互い違いに組んだ壁、レンガを積んだ階段、天井は、厚板の上に土砂を乗せ、草を散らして、外部からは見分けがつかないように、周囲の芝生と同じレヴェルにし、煙突をつけて換気を図り、蝋燭、缶詰、医薬品、チョコレートなどを予め保管した壕を用意しました。警戒警報が鳴ると、家族全員一斉に壕に入ります。小学二年生だった私は、壕の中で、チョコレートなどが配られる楽しみの方が、恐怖よりは遥かに大きかったように思います。警報が解けて、階段を上って、掩蔽扉を上げると、青空に白いトンボのようなB29の編隊が、飛行機雲を引きながら、南へと去っていくのを、「美しい」とさえ思ったのでした。
その頃、子供たちは、ラジオで、敵機の爆音を聴き分ける訓練を受けました。相模湾に米軍の空母が常駐するようになって、艦載機による銃撃も頻繁に起こるようになりました。B29、B25、グラマンF6F(ヘルキャット)、ダグラス・ドントレースなどの爆音が、即座に判るようになりました。
東京郊外に住んでいた私たちは、まだ、それで済んでいたのです。というのも、民家は畑や松林、雑木林の間に点在するような郊外では、爆撃や銃撃はあっても、焼夷弾による爆撃は、数件が燃えるだけで、意味がなかったからです。しかし、東京の都心部は、連日のように焼夷弾による激しい爆撃に晒されていました。後にヴィエトナム戦争で、米軍がナパーム弾による焼夷作戦を行って、心を痛めましたが、日本の都会の状況は、あのヴィエトナムの山地と同じ、いや、燃えるものが遥かに大規模だったために、より悲惨な有様でした。
強制疎開、子供たちの学童疎開などが、次々に現実になりました。通っていた小学校は、校舎を軍に接収されたため(いわば学校を偽装した形で、兵器の部品などを組み立てる工場に使われたのです)に、昭和十九年に実質上崩壊しました。幾つかの余裕のある級友の家を借りて、先生と生徒がそこに集まって、寺子屋さながらの授業らしきものを、それでも暫くは続けました。私が通った級友の家は、国鉄で二駅離れたところにありました。生まれて初めて、定期券を買っての通学になったのが、嬉しかったのですから、子供は他愛ないものです。当然ながら級友たちの家庭も、次々に疎開に踏み切り、櫛の歯を引くように、登校する生徒の数が減りました。
そして昭和二十年三月十日がやってきます。三百機を越すB29のばらまく焼夷弾が、東京全土をなめつくしたのです。死者は十万人を超えました。西郊にある我が家からも、東の空が赤く染まっているのが見えました。しかし、その夜は、東の空を見上げているだけでは済みませんでした。「空の要塞」は、郊外には、行きがけの駄賃のように、爆弾を振りまいていったのです。その一発、五百キロ爆弾が、四メートル道路を隔てたお向いの家の防空壕を直撃しました。壕内に避難されていたご家族四人は即死、たまたま何かの都合で母屋の方に戻られていたご主人が重傷を負われました。これもたまたまその夜は家にいた医師である父親が、現場に駆け付けましたし、その指示で、子供も含む私たち家族も、後始末に加わりました。人間の亡骸を目にした、最初の体験でした。今の常識からすれば、父親はよくあの惨状を私に実見させたと訝しい思いもありますが、当時は、死が文字通り常に目睫の間にあって、明日自分も同じ運命を辿るかもしれない、という状況にあり、そのことを肌で感じさせたかったのだろうとも、思うのです。また常に死体を扱う立場にいた病理を専攻する父親の「常識」は、世間の「非常識」だったのかもしれません。ただ、確かに、正視できないような亡骸ではありましたが、いわゆるトラウマとなって私の中に残らなかったのは、やはり非常時だったからでしょう。
その夜に米機が投下した爆弾の中には、「時限爆弾」と称されるものが多数混じっていました。土中数十センチのところに埋まり、タイマーが知らせる時間に爆裂する代物です。我が家の庭にも数個は落ちたようで、翌日軍の処理班が来て、近辺を丹念に調査・処理してくれましたが、その作業が終わるまで、私たちは、近所の安全と思われる林で、数夜を野宿で過ごしました。時々処理を免れた爆弾が破裂する音が聞こえました。今から思うと、毎日が死と正面から向かい合う日々だったわけですが、子供だったせいもあり、深刻さよりは、新しい体験の物珍しさが先に立っていたように思います。
その後まもなく、軍医学校勤めだった父親の勤務地が、平塚の海軍工廠に変わりました。その年の四月末、私たちは平塚に隣接する、寒川町の官舎に移住しました。疎開だったのか。確かに大都会の空襲から逃れる、という点では、「疎開」だったのかもしれません。しかし、工廠は曲がりなりにも軍事施設、当然近辺の寒川にも、対空砲火のための銃座などが点在していましたし、相模湾は敵の上陸地点候補の一つ、また敵の機動部隊が展開するのに、うってつけの場所でしたから、平塚・寒川は、その時期には相模湾に常駐する空母から発進する艦載機の絶好の攻撃目標でもありました。つまり「疎開」という点では、全く意味をなさない転地だったわけです。
寒川小学校に通い始めましたが、ほとんど毎日午前十一時ころになると、グラマン・ヘルキャット(戦闘機)に守られたダグラス・ドントレース(攻撃機)を中心とする艦載機の編隊がやってきます。小学校は警戒警報がなると、休校になり、生徒たちは自宅に駆け戻ることになります。私は一キロ半ほど離れた官舎まで、裸足になって走るのでした。官舎には、まことにお粗末な防空壕がありました。しかし、自宅にたどり着くまでの、田んぼの中で、敵機に出会うことになります。子供だから本気で殺すつもりだったのか、面白半分だったのか、とにかく、あぜ道に伏せている私に、グラマンは、風防ガラスの中の青い目が見えるほどにまで降下して、銃撃を加えるのです。まだ植えたばかりの早苗の並ぶ水面を、弾着の水しぶきが線になって迫ってきます。百メートルほど走ってまた伏せる。またやってくる。田んぼに点在する対空砲火の銃座は、とっくの昔に壊滅させられていました。
こんな毎日でしたが、ここでも、私は、一種のゲーム感覚も味わっていました。親たちは気が気ではなかったでしょうが。ところが、寒川での生活も短時間で終わりました。父親の本来の勤務先である海軍軍医学校は、築地という都心にあって、辛うじて焼かれずにきましたが(実は、戦後米軍が進駐してきた際、都心の医務の拠点として、この軍医学校と隣接する築地病院を接収して使うことになります)堪り兼ねたのか、学校側もついに疎開を決定、行く先は信州、松本の松本医専、父はその疎開事業の責任者となったために、家族も再び移住することになったのです。転居先ですが、最初は医専にほど近い市内の、時節柄廃業した芸者置屋の一角が借りられました。長押に三味線がかかっていたり、家主にあたる人は音女さんという粋な女性だったり、戦時中とは思えないような雰囲気でした。そこから、子供たち(私と従兄、姉は高等女学校の生徒になっていました)は、浅間温泉の近くにある本郷村(今は松本市に編入されている)立小学校に通うことになりました。松本と浅間温泉とを結ぶ市電で、終点の一つ前まで通わなければならないこともあって、父は、市の東部の農村の豪農の蚕室を借りる算段をしました。医専(現信州大学医学部)は市電のちょうど中間点の辺り、横田と言われる地区の近くにありました。農家の蚕室は二階建てで、一階は、人が何人も入れるような漬物樽がいくつも並んでおり、二階は碌に壁もない、吹き通しでしたが、わが家族と、出征中の主人を持つ母の妹の家族とが、共同生活を営むには、何とか間に合う広さを得ることができたのです。もっとも慣れるまでは、階下の醸造反応から発する発酵気にいわば酔っぱらってしまうようなことも起こりました。
食生活はどうなっていたのでしょうか。すでに東京にいるころから、主要食料品は配給制度の下にありました。開戦の年昭和十六年の四月から、米穀通帳というものが各家庭に配られ、定まった量の米を手に入れるためには、その通帳に記録し、外食をする際は、一人当たり決まった量を定めて配布される切符(外食券と言われました)を、費用代わりに提出する方式になっていきました。当初はそれでも一日量が三合ほどだったと記憶しますが、やがて、その量は実質上かなり削られました。戦後のことだったと思いますが、国語の教科書に宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」が載った際「一日玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ」という箇所が「三合」に書き換えられていたのを思い出します。魚なども、隣組で担当者がチリン・チリンと鉦を鳴らしながら、腐ったようなスケソウダラを配給してくれるのでした。
この配給制度は、全国どこへ行ってもついて回るものでしたから、転居先でも事情は変わりませんでした。松本市内にいたときは、その配給も滞りがち、まして副食などは、中々手に入りませんでした。父親が偶然入った松本駅の食堂で、小さなカレイの煮つけにありついたのを奇瑞として、私たちも、ときどき並んでは、この貧しい蛋白源に恵まれる幸運を喜びました。農村地帯に移ってからは、主食は何とか、とタヌキの皮算用をしたのですが、母屋の農家は米を回してはくれませんでした。まあ、江戸時代の年貢さながらに、食管制度のなかで、米はすべて国家が買い上げるのが筋でしたから、そのことに不平を言うべきではなかったのかもしれません。ただ、野菜だけは、母屋の畑からの収穫を回してもらうことができました。
ただ、大本営の疎開先が信州ではありましたが、流石に松本の郊外に住んでいる限り、爆撃も銃撃も経験することはなくなりました。敗戦の日の直前に、少し松本からは南東に離れた上田の町が、かなり酷い空襲にあったとききましたが。
小学校では、「疎開っ子」として、また、学業は結構出来てしまうので、徹底したいじめの対象になりました。登下校は集団になるのですが、そこでは小突かれっぱなし、教室でも休み時間になると、殴られました。受け持ちの先生は、若い女の先生でしたが、今のように担任に訴えるなどという習慣もなく、腕力に自信のない私は、只管耐えるだけ、やがて、今でいう「不登校」に近い状態になりました。朝起きると、お腹が痛くなっているのです。仮病ではなく、本当に痛むのでした。登校せず、昼頃になると、痛みは去るのです。
この時期の唯一の正の経験は、田植えは終わっていましたが、田の草取りから、秋の稲刈りまで、米の栽培過程をほぼ体験したことでした。稲刈りの鎌の使い方は、通常の草刈りで知っていた方法とは逆だったことは、未だに鮮明な記憶となっています。
敗戦の玉音詔勅は、母屋のラジオで聞きました。途切れ途切れで、碌に聴き取れなかったのですが、父親を通じての軍の方からの情報で、凡その察しはついていましたので、ショックはありませんでした。むしろほっとした思いが強かったように思います。医者とは言え軍医大佐だった父親は、前途に大きな不安を抱いたであろうことは、今なら判りますが、子供としては、これで東京へ帰れるのでは、という期待の方が大きかったのでした。
その年の暮れ、十二月の初め、医専との後始末も終わって、一家は引き揚げることになりました。それを知らされた時の喜びは、人生最大だったと言っても大袈裟ではなかったと思います。戦争直後の国鉄は、定時運行など夢のような時代で、早朝何とか列車に乗り込んで、新宿に着いたときは暮れかかっていたように思います。心から幸いなことに、住み捨てられていた我が家は、安泰でした。