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父の死、十代で覚悟した自らの死--生と死の間で(2)

父の死、十代で覚悟した自らの死--生と死の間で(2)

April 6, 2026

村上 陽一郎 yoichiro_murakami

1936年東京生まれ。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長、東洋英和女学院大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授、豊田工業大学次世代文明センター長、一般財団法人日本アスペン研究所副理事長。2015年に瑞宝中綬章受章。膨大な数の著書・訳書・編著を誇るが、代表的なものに『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全学』、シャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』などがある。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家としても活動中。

公職追放、卵でいのちを繫ぐ

敗戦は先ず何を齎したか。海軍軍医大佐だった父親は、当初厚生省(現厚生労働省)の公衆衛生局勤務に配置換えになりました。つまり差し当たっての職業は確保されたのです。しかし、それは束の間でした。敗戦の翌昭和二十一年一月、占領軍による所謂公職追放が宣せられ、そのB項つまり職業軍人に当たる、という名目で、審査もなにも一切ないまま、父親は職を失いました。忽ち食うに困る事態となりました。宝物として大事にしてきたツアイスのスプリング・カメラ、スーパーシックスもある日お茶の水のそれらしき店に売り払われ、お米に代わりました。母親の和服も、埼玉や千葉方面に買い出しにいく度に、減って行きました。配給は常に滞っていましたから、やむを得なかったのです。農家は一般に強気で、政府に供出するよりは、闇米に回す方が遥かに儲かるとする立場の人々が多かったのです。しかも、そうして辛うじて手に入れたお米も、つまりは「闇米」ですから、下手をすれば、国鉄の各駅で待ち受けている警官の摘発に会って、全部取り上げられてしまうのです。思い出すのは、この頃、判事と言う立場上、法律に背くことはできないと、配給だけで生きていた山口さんという判事さんが、栄養失調がもとで、言わば餓死されるという事件が新聞種になりました。つまり、あの敗戦後の状況を生き残った農家以外のすべての日本人は、食管法という法律を犯してきたわけです。

百坪ほどの庭は、かつては芝生が植わっていましたが、全部掘り起こして、主にサツマイモを植えました。胡瓜、トマト、茄子、甜瓜なども細々と育てました。信州の農村での経験が生きました。サツマイモは茎まで干して食べました。自宅の裏手に、よその家の空き地がありました。地主の消息が分からなかったことをよいことに、勝手に耕して、陸稲を植えました。誰も咎めませんでした。収穫すると、脱穀機などないのですから、辛うじて残っていた扇風機を回して、籾殻を飛ばしながら、手動で脱穀もしました。作物の肥料はすべて自家製(?)です。つまり、我が家の便所の産物を使うのでした。陸稲の米は、勿論餅にもしましたが、普通に炊いて食べました。こうしてみると、蛋白源はまるで皆無ですね。先にも述べた、配給のスケソウダラが唯一のご馳走だったことになります。仕方がないので、庭に小屋を造って、鶏を育てました。もうすぐ成鳥になって卵がとれるか、という頃になると、必ず野生の鼬が早朝鶏小屋を襲います。毛が散乱し、食い散らされた残骸を空しく見る時の悔しさは、忘れられません。それでも、何羽かは生き残って、私たちの朝食に卵を添えてくれるようにもなりました。時々は卵を狙う青大将が鶏小屋でみつかったりもしました。数年後には、卵をとり尽くした鶏を潰して、毛を炙ってむしり、捌いて、肉を賞味することもできるようになりました。そういえば、母の直ぐ上の伯父が、日本生物科学研究所という組織を立川(都心から電車で一時間ほどの郊外都市)に建て、そこで実験用にかなりの数の有精卵を使っていました。卵は、そこから分けて貰って、電球を忍ばせた手製の哺卵器で、雛に育てたのでした。とにかく、戦後我が家は鶏のお蔭で、山口さんのように餓死しなかった、と言っても過言ではないかもしれません。

もっとも今電球と書きましたが、この頃の電力事情は酷いものでした。特に、当時はまだ「水主火従」と言って、水力発電が主流だった(「火」と言っても、現在のような天然ガスなどの「火」はなく、石炭だけが頼り、戦後最大の復興重点産業が石炭鉱業でした)ので、冬場、渇水期には停電が日常でした。昼間辛うじて通電されても、皆が一斉に使うので、柱上トランスのヒューズがすぐ飛んでしまう、電力会社は今と違って中々来てはくれない、仕方がないので、闇市で手に入れたヒューズを、違法と知りつつ電柱を登って補充するようなことまでしました。やってくれたのは、自宅に預かっていた親戚の大学生でしたが。

あるGIの思い出

さて、父親は職探しで奔走していました。中学の時同級だった森永製菓の社長、森永太平氏が見かねて、社の医務室に週二回言わばパートで務めるように計らって下さいました。あと一日、高円寺にあった日本基督教団の診療所でも働けるようになって、最低限の生活は安定に向かいました。そのほか、自宅の応接間を改造して、貧しいながら診察室として、ご近所の患者さんを細々と診ることも始めました。ある日、米兵が一人訪れました。

住まいのある三鷹は、住まいから一・五キロほど離れた井の頭公園の脇にあった公共施設が、米軍に接収されてルーズベルト・レクリエーション・センター(無論日本人はオフ‐リミットでした)となり、野外映画館などがあったので、GIたちの往来が結構多かった上に、エアベースのある府中と隣接し、また米軍用の宿泊施設やドラッグストア、スーパー・マーケット(そんな言葉は知りませんでしたが)まであった、武蔵野市のグリーンパークも直近にあって、自宅付近でもGIの姿は珍しくなかったのです。全く余計な話ですが、近辺の林は、然るべき女性を連れたGI が、束の間の歓楽を営む場所に使われていたのでもありました。

話を戻すと、父はドイツ語は会話もできるほど堪能でしたが、英会話はまるで駄目、訪れた米兵が、姉の弾くピアノの音に誘われたらしいことまでは判ったのですが、どうも本音は「患者」らしいのです。先にも触れた母の兄は英語が良く出来る人だったので、その伯父に来て貰ってコミュニケーションが始まりました。結局、そのGI は、基地の医務室からくすねてきたらしいレダリー社のペニシリンのアンプル(と言っても、通常の注射用アンプルではなく、小瓶の底に薬品の結晶があり、そこへ注射器で溶媒を入れて溶かし、その溶液を注射器で吸い上げて使う、当時日本ではほとんど目にしない類のものでした)を持参して、隊で間もなくある定期健診で判ってしまう不名誉な病気を、密かに治しておこう、という魂胆で、注射をしてほしかったことが判りました。結局「患者さん」だったわけです。お蔭で私たちは文字通り初めてペニシリンなるものを手にしたのでした(戦時中日本陸軍は「碧素」と名付けたペニシリンの開発に手を染めていましたが、実用化には未だしだったようです)。

結局その患者さん(Bさんとしておきましょうか)は、その後、当時は貴重だったチョコレートなどを持って時々訪ねて、ピアノを弾いていくようになりました。私たちも片言の英語で付き合い、夕食を一緒にしたりしました。<Pistol packing mama>という、当時GIたちの間で大流行りだった歌も、覚えました。北満や北樺太などでの仕事でロシア語が堪能だった隣家の叔父が、持参の七弦のロシア製のギターを抱えて飛び入りしたりしました。ところが、ある時からぷっつり来なくなって暫くして、友人というGIが訪ねてきて、Bさんが朝鮮戦争で戦死したことを知らせてくれました。戦場で戦友になった相手に、日本で知り合ったピアノのある家族のことを話していたのでしょう。そんな風に思っていてくれたのか、とあらためて、この思いがけぬ死別が私たちの心に沁みました。私は中学二年生だったと思います。

父から問われた覚悟と、父の死

父は、戦中・戦後の混乱の中で、二十三貫ほどあった体重も十八貫ほどに落ち、病気がちでしたが、とにかく働いてくれていました。母も、自宅の医療行為のなかで、散薬を造る(薬の許になる個体を溶液で煮だし、乾かして、擂鉢で摺り下ろす)ことから、幾つかの薬を混ぜて、分包する(一回服用分毎に、薬包紙に包み分ける)作業を、薬剤師の資格などないのに、行っていました。私たち子供も手伝いました。今でも正方形の紙に何かを包むときは、薬包紙を折る時の特殊な折り方、包み方を無意識のうちにやっています。今は、薬包紙はすっかり廃れ、カプセルが廉く手に入るので、散薬を分包するときは、カプセルを使うのが普通になってしまいました。

中学を終えて、私が父の出身校(旧制中学)である高校に進学する頃、父の病勢は進んでいたようです。往診も、駅待ちのリンタク(今の方は判らないでしょうが、自転車の後ろの部分に人力車の幌の部分を付けた、人力タクシーです)を使って何とか済ませるような事態になっていました。

高校二年のある日、父親は受験を控えた私に、どこを受けるつもりか、と訊ねました。大学は、クラスの大半が、浪人になった後も含めて東大に進学する高校でしたので、大学の選択肢を尋ねたのではなく、専門を訊いているのでした。私は、それほど強い理想があったわけではなかったのですが、医学の途へ進むつもりでしたので、「理Ⅱ」を受ける、と答えました。当時は東大教養学部の受験窓口は、「文Ⅰ、文Ⅱ、理Ⅰ、理Ⅱ」の四つしかなく、医学部への進学可能なのは「理Ⅱ」でした。無論「理Ⅱ」に入っても、現制度の「理Ⅲ」のように、ほぼそのまま医学部へ進学できるわけではなく、「理Ⅱ」の学生のうち医学部志望者は、教養学部における成績によってX、Y、Z組に分けられ、なかなか厳しかったのですが。

私の答えを聴いた父は、少し相貌を崩しましたが、直ぐに厳しい様子に戻って、私の覚悟を訊ねました。その覚悟には二つあると言いたいようでした。一つは、医療の現場では、医師として出来る限りの手を尽くしてもなお、患者の生命を救えない事例の方が,遥かに多い、という現実に直面出来る覚悟。もう一つは、すべての手段を尽くした後、なお、患者の激しい苦痛と、その先の死しか残っていない、という極限状態では、躊躇わず致死薬を与える覚悟。

軍は違うにしても父が私淑してやまなかった森鷗外には、例えば『高瀬舟縁起』という文章の中で、安楽死を医師の義務としたように読める文章があります。そうしたことも、気の弱い、と判断していた息子に念を押したいと、父が考えた理由だったと思います。そして、私には、確かに、そのような場面に直面したときに、医師の義務(今、そういう表現を使うことに問題があることは承知していますが、その時の事の成り行きは、まさしく、そうと判断できる状況でした)を遂行できるかどうか、確信はありませんでした。私の答えは曖昧でした。密かに、今は臨床医として働いてはいるけれど、本来父親が選んだ病理学は、まさしくこの第二の覚悟の要らない領域ではなかったか、と心の中で呟いたように思いますが。

その父は、私が高校三年になった年の十二月三十日夜、息を引き取りました。気丈な母は、涙も見せず、清拭から脱脂綿詰めまで、今で言うエンゼル・ケアを独りでやろうとしていました。若い娘であった姉は、母が寄せ付けませんでしたが、私は、母が断らなかったので、半分ほど手伝いました。枕許のラジオからは、年末恒例の『第九』の合唱が流れていました。母がそうした措置を滞りなく進められたのは、父から予め教えられていたのか、永年医師の伴侶として暮らしている間に、見聞きすることから覚えたのか、私には今でも判らないままです。そういえば、既に述べた、お向かいの家族が爆死された際、跡片付けに駆り出された子供たちは、適当なところで、家に帰され、母は父とともに、翌朝消防車(当時は救急車は無く、消防車がその役目を果たしていました)が来るまで、ずっと現場に残っていましたから、それも学びの場の一つだったのかもしれません。おまけ、というと不謹慎になりますが、この時、駆け付けてくれた消防車は、問題の家族を斃した爆弾の次の五百キロ弾が、近辺の道路の半分を破壊していたのに気づかず、その穴に落ちて、乗員からも死者が出ました。取りあえずの始末がついたのは、翌日も遅くなってからだったのです。

話を戻します。一つ困ったことがありました。死亡確認後二十四時間経たないと、遺骸を荼毘に付すことが出来ないのが定めです。死亡が十二月三十日午後九時過ぎでしたので、焼き場に依頼できるのは年明けになってしまいます。焼き場は正月三が日はお休みでした。進退窮まって、駆け付けてくれて死亡確認の責を担ってくれた、父の中学時代から医学部も一緒だった親友に無理をお願いして、死亡時刻を半日以上早めて貰いました。今から思えばこれは立派な犯罪になるのでしょうが、でもお蔭で、大晦日の最後のお窯で、何とか荼毘を済ますことが出来ました。既に父親は、年賀状を出した後でしたから、昭和三十年の正月は、幽霊から賀状を受け取った人が何人もいたことになります。

肺結核、死病と向き合い大学受験

父と上のような会話を交わしたころ、私自身に異変が起こりました。学校の定期健診でX線の間接撮影がありました。結果、肺に所見がある、という通知が来ました。間接撮影の精度はそれほど高くないので、父親は、あまり深刻に受け取らなかったようです。実際、風邪などはよくひいていましたが、発熱もなく、咳の習慣もなく、日常は全く正常で、水泳やバスケットなども、高校生活の一部になっていました。たた、父の知人のクリニックに依頼して、本格的なX線撮影(所謂トモ、つまり断層撮影も含めて)を撮った結果、肺尖部を中心にした立派な肺結核と言う診断が下りました。環境整備の行き届かない当時の体育館で、結構長時間バスケットボールの練習などに励んでいた結果だったのかもしれません。直ちに、喀痰検査、血沈(今はほとんど重視されないですが、赤血球沈降速度、と言って、病態の把握のための大切な指標の一つと考えられていました)、など、当時の検査が重ねられました。自宅で父の管理下に行われたものも、他の大規模な病院で行われたものも、ありました。喀痰検査はG-0、つまり排菌はない、ということでした。G番号というのは、ガフキー番号のことで、喀痰を検鏡し、その視野に、どれだけの結核菌が見つかるか、その濃度を0~10に設定したものでした。病態は、いわゆる空洞形成には至らず、浸潤の段階、ということになりました。昭和三十年のことです。まだ結核の治療は、外科的な方法以外には、「三大療法」しかありませんでした。「三大」とは「大気、安静、栄養」がそれです。外科的な方法、肋骨を外して、病患部を切除する、という大掛かりな方法が選択肢の一つでした。因みに、私がファンである小説家藤沢周平さんは、年齢は一世代先輩に当たりますが、この外科的方法に頼るために、故郷山形から上京されて、佳い予後を得られたと聞いています。もう一つ、気胸術という選択肢がありました。気胸というのは、現在では一種の病気(自然気胸)としか認識されませんが、この時期には、胸膜の間に空気を送り込んで、肺の病巣部特に空洞を圧迫することで、佳い結果を得ようとする方法(人工気胸術)で、この系統として、俗称「ピンポン玉療法」なる外科療法が、一部で人気を得ていました。空気を送り込むことで患部を圧迫する代わりに、プラスティック製の小球を外科的に埋め込む方法で、「プラスティック充填術」と呼ばれていました。

以上のように、療法の選択肢が皆無ではなかったのですが、どれも、決定的な意味は持たず、結核は基本的には未だ死病なのでした。特に若者では病勢が速く、結局は死を迎えるほかはない、と覚悟を決めて、療養所に入る道しか考えられなかったわけです。大気の綺麗な郊外の清瀬には、専門の療養所があり、患者は只管安静を旨とした生活を送っていることは知られていました。高校三年生の私も、最終的にはその道を辿るのだろう、と心を決め、取りあえず自宅での安静の生活に入りました。受験勉強もほどほどに、また、理科系の学生生活は徹夜の学生実験なども珍しくないと聞いていて、自分の選択肢から除外するほかはないと思い定めもしました。医師になる前に深刻な患者になってしまった、というのが正直なところだったのです。そこへ頼りにしていた父の死が追い打ちをかけました。生来比較的楽天的な性格のつもりでしたが、流石にこの頃は、行く先に何の光も見えない状況でした。光があるとすれば、今振り返っても、小学校の時から、内村鑑三派の集まりに参加していた間に生まれていた、キリスト教への信頼だけだったと思います。

父の死亡診断書を書いてくれた医師は、消化器系の外科医で、結核の専門家ではありませんでした。しかし、ひどく私の将来を案じてくれて、知る限りの結核の専門医を三名紹介してくれました。二人は外科医、どちらも、X線写真を観て、切るのがベストだ、と言われました。余計なことですが、今X線撮影をすると、即座に映像が医師の手許のPCに送られてきます。撮り方を変えようとすれば、即座に叶います。しかし、昭和三十年代のX線写真は、撮影後、現像、定着、乾燥の手続きに相応の時間がかかりますから、医師の手許で撮影の指令を貰って、撮影室に入った日には、結果は判りません。また後日、診療の予約をとって、結果による診断内容を聞きに行かなければなりません。どうしても二日がかりになります。その診断の際に、別の角度からの断層撮影をしてみよう、と医師が考えたとすれば、また二日がかりということになります。

話がずれました。内科医は、結核の専門家として自信満々の中年の医師でしたが、新しい薬による治療法が開発中だから、それでやってみないか、と訊ねました。肋骨をはずしたりする外科療法に恐れをなしていた私は、この如何にも権威ぶった医師に個人的には馴染めなかったにも拘らず、この提案に飛びつきました。結果的には、私の将来は、この医師と、ちょうど試験的に始まっていた「三者併用法」なるものによって救われたことになります。三者というのは、抗結核性薬剤とされるストレプトマイシン(SM)、イソニアジド(INAH)、パラアミノサリチル酸(PAS)の三者を指します。SMは一九四三(昭和十八)年アメリカで開発され、INAHは抗鬱剤の一種として細々と使われ、一九五一(昭和二十六)年になって抗結核剤として、かなりの有効性を持つことが発見され、薬剤耐性が発生しやすいので、他剤と併用ならば、極めて使用価値が高いとされたもの、PASは、やはり一九四三(昭和十八)年スウェーデンで開発された抗結核剤、というわけで、上の年代を見ればわかるように、まさしく私の病気の発見(昭和二十九年)に時間を合わせたとさえ思われる薬だったのです。そして私は、日本において、この三者併用法が試験的に採用され始めた、まさしくその時期に、結核の専門医の門を叩いたことになります。病気になるのに「幸運」などという言葉は相応しくないのですが、しかし、やはり、幸運と言うべきでありました。二年弱この治療を続けて、主治医から、毎月の経過観察の検査は半年毎にしよう、と言われた時の、安堵感はちょっと筆に表せないほどのものでした。

さて受験の方は、現役の時はそれでもまだ転身の決心がつかず、「理Ⅱ」を受けたのですが、父親の死後の激動の最中ということもあって見事に不合格、翌年は医師を諦める決心はしたものの、一浪として「文Ⅱ」を受けて、これは病臥中を言い訳にしますが、もう一度苦杯を嘗め、二浪で漸く合格したものの、今度は、合格時のX線検査で、学校に来ることまかりならん、と「命休」(休学を命ずる)という処置を受けてしまいました。結局現役合格の学友たちからは三年遅れになってしまいました。もっとも三年後に復学ができても、扱いは半人前、体育実技は、「見学組」なるものに入れられたりしましたが。

その頃の自分を振り返ってみると、死と戦う、というような剛毅さはまるでなく、かといって主治医に命は預けた、というような潔さも見当たらず、只管小心翼々と、定期健診で、主治医の前の椅子に座るときは、法廷で容疑者が判決を受けるときさながら。その時々の「判決」に一喜一憂するのみだったように思います。ただ、強制的に与えられた静穏な時間を、只管書物を読むことに費やしていたことは確かです。もっとも高校二年の時に始めたチェロだけは、何とか人並みに弾けようになるまではと、研鑽を続けました。始めて一年半ほど経ったときに、父親を亡くしたことになりますが、そのことを報告にいった際、恩師青木十良先生は、奥様ともども、爾後の経済状態を案じて下さったのでしょう、「折角だからレッスンは続けなさいよ、月謝なんか気にしなくていいんだから、出世払いということもあるじゃない」と仰って下さったことは、噛みしめた涙とともに、生涯胸に刻まれて忘れられないのです。

経過観察のための定期健診義務も終わって、取りあえず、結核を対象にした医療の囲い込みから離脱できたのは、大学院の学生になった頃でした。それでも、肺の旧歴はX線写真を撮れば石灰化像として歴然としていますし、どこかで、いつも身体を労り、酷使はしないように心掛けている自分がいます。幼い頃から好きで、下手でもなかった歌は、今では完全に自分に禁じていますし、実は何か楽器を一つマスターしなければ、と思ってチェロを選んだときも、実はファゴットが吹きたかったのですが、やはり呼吸器への負担への想いが先に立って、似たような音域のチェロになった経緯もあり、やはり自分の人生に、病気は、色々な面で影を落としていることは確かです。

晩年になって、これも死病と言われる癌が立て続けに見つかるのですが、これはまた全く別の物語です。

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