Public domain
Public domain
前回、実利的でないコンニャク情報で自分を見失わないための方法を考察した。このような側面を見ると、コンニャク情報は己を惑わすネガティブな存在のようにも思えるが、コンニャク情報にもプラスの側面はある。
コンニャク情報をプラスの方向に働かせることはできるか
これまで、「自分を見失う」というネガティブな切り口から、現代の情報社会を生きる上で避けることができないコンニャク情報との付き合い方について考えてきた。農業と工業の発展によってもたらされた飽食の時代が不健康な食生活という新しい問題を産んだように、情報産業の発展によってもたらされた情報社会が、情報との付き合いに関する新しい問題を私たちに突き付けているのは確かだろう。
しかし、情報社会に生きることは悪いことばかりではないのではないか。日々私たちの関心を絶え間なく引き続けるコンニャク情報との触れ合いが、反対に私たちが「自分を見付ける」ことにとってプラスに働くことはないのだろうか。もし、そうしたことがあるとしたら、それはどんな仕方でだろうか。
「願望」は掘り出すための努力が必要になることがある
「自分を見失う」ということは、自律性が損なわれることと捉え直すことができる。この方針に引き続き従うなら、その反対の「自分を見付ける」ということは、自律性の度合いを高めることとして理解するのが自然だろう。
自律的であるためには、自分が欲していることに自覚的になり、それらのうち、自分が本当に従いたいものとそうでないものを区別した上で、自分の行為を前者の欲求に従って制御する必要がある。この中で特に、自分が持っている様々な欲求に自覚的になるという最初のステップに注目したい。このステップをクリアすることなしには、自律性のその後の条件を満たすことはできない。
しかし、自分の欲していることに自覚的になるという作業には、ときに特有の興味深い難しさが伴うように思われる。このことは、例えば、「あなたは30年後何歳になっていると思いますか」という問いと「あなたは30年後どうなっていたいと思いますか」という問いを比べてみると分かりやすい。
これらは、どちらも未来のある事柄に関しての考えを問う質問である。しかし、前者の問いに即答できず、「分からない」と答える人はおよそ想像し難いが、後者の問いに対して、そのような状態に陥る人を想像することは容易である。
このように、一口に「自分の考え」と言っても、30年後自分が何歳になっているかのような事実に関する考えと、30年後自分がどうなっていたいかのような欲求(厳密には「願望」)では、自覚のしやすさは大きく異なる。後者には、「自分は30年後どうなっていたいと思っているんだろう」というように、「掘り出す」ための努力の余地がありうる。
情報社会で生活すること、すなわち、私たちの関心を引くのに長けた多様なコンニャク情報に囲まれていることは、自覚するのに努力を要するタイプのこうした欲求を自覚する、そしてそれによって自身の自律性を高める上で、重要な役割を果たしうる。
しかし、そもそもなぜある種の欲求は、他のタイプの思考と異なり、それを自覚するのに努力を要するのか。また、コンニャク情報に触れることがなぜそうした欲求を「掘り起こす」ことに役立つのか。これらの問いに答える上で、思考の「透明性説」と呼ばれる見解が鍵となると考える。では、透明性説とはどんな見解なのだろうか。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の前半部分です。
(コンニャク情報から「自分を見付ける」の続きを読む)
この筆者の記事をもっと読む
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら