May 11, 2026
村上 陽一郎 yoichiro_murakami
1936年東京生まれ。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長、東洋英和女学院大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授、豊田工業大学次世代文明センター長、一般財団法人日本アスペン研究所副理事長。2015年に瑞宝中綬章受章。膨大な数の著書・訳書・編著を誇るが、代表的なものに『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全学』、シャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』などがある。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家としても活動中。
九十年近く生きていると、色々な死に出会ってきました。これまでにも書いてきたことと重なるところもありますが、その中の幾つかを振り返ってみることにします。
生まれて初めて出会った死は、第二項で触れました小学三年生のとき、爆弾の直撃で亡くなった隣家の方々のそれでした。一瞬の出来事の結果だったので、「死」と言っても、「生と死の間」は全くなく、言わば「結果としての死」と向き合うことになりました。それも、尋常な状態ではなく、文字通り「無残な」死の姿であったことになります。生涯で最初の体験としての、亡くなった人間の姿は、その意味では、平時の現在で考えると、極めて特殊・異例(実は当時としては、それも常態ではあったのですが)で、しかも、状況が、自分たちも生きるか死ぬか、といった深刻な場面でしたので、幼い心にある感慨は刻まれたにせよ、逆に死そのものへの思慮を育む材料にはなりませんでした。むしろ、むき出しになった骨、血まみれの皮膚などから受けた直接的な印象は、「死」ではなく、怪我、それも重い怪我の姿だったように思います。そうした怪我が我が身にも起こり得る、痛いだろうな、耐えられないだろうな、などと思った覚えは、未だに記憶の底に残っていますが、だから、その後怪我にはひどく臆病になった自分を意識もしますが、その意識の中では、目の前の事実が死とは直接は結びつかなかった、というのが率直なところです。まあ、死の意味を悟るには若過ぎたということもあったかもしれません。
それにしても、戦時中という時代に出会ったのが、その時の死だけであったのは、むしろ僥倖だったと言えるでしょう。戦後の混乱もある程度収拾され、普通の暮らしが出来そうになってきた昭和二十九(一九五四)年暮、父が病気で亡くなります。私は受験を控えた高等学校三年生でした。亡骸の始末など、母と俱に行ったことは既に述べましたが、その際にも不思議に涙は出ませんでした。TVドラマなどで、親しい人の死に接して、取りすがって泣き叫ぶ場面がよく出てきますが、あれは全くの嘘、というか、ドラマを見せる上での虚構です。本当に辛い衝撃を受けた時には、人間はむしろ寡黙になるのが自然ではないでしょうか。目の前の様々な事柄の始末に追われ、泣いているどころではなかった、という点もあったとは思いますが。
本当のショックが来たのは焼き場ででした。これも書きましたが、死亡時刻を早めて死亡診断書を書いて呉れた父の親友の配慮で、十二月三十一日の焼き場の最後の窯で、何とか荼毘を済ませたのですが、終わって、係りの人が窯のドアを開き、台を窯から引き出した時、バラバラになった遺骨が台の上で湯気を上げている場面に遭遇しました。ほとんど気を失うほどのショックをうけ、暫くは傍の柱に身を預けて立ち竦んでいました。お棺の中の亡骸とは言え、ついさっきまで生きている時と同じ姿だった父が、文字通り変わり果てた形で目の前に現れた時の衝撃は、やはり尋常ではなかったのです。骨を取り上げ集めて骨壺に入れる動作は、ほとんど無意識だったと思います。それでも私は泣きませんでした。骨壺を抱いて、葬儀社の用意してくれた小さなバスで家に帰り着いて、父の病臥していた部屋にそれを置いたとき、初めて、極く自然に溢れ出た涙で視野が曇りました。ただ、それは決して「号泣」などと言うものではありませんでした。何とか嚙みしめた覚えはありますが。最近何かというと「号泣」と言う言葉が大流行りですが、あれも虚構だと、私は思います。それとも私は、例外的に情の強(こわ)い人間なのでしょうか。
やがて隣家に住んでいた祖母(母の母)が八十三歳で亡くなりますが、その時は、一切がその家の長男(つまり伯父の息子)の家族の管轄でしたので、葬儀に参列したこと以上の感慨は生まれませんでした。幼い頃は可愛がってもらった記憶はありましたし、歌舞伎や寄席にもよく連れて行ってくれましたが、基本は専ら自分の娯しみのためでありました。いや、それが、何か感情的齟齬を生んでいたわけでは全くありません。私は本来祖母が好きでしたし、無論別離の悲しみは浅くはなかったのも確かです。ただ当時としては高齢のこともあり、病臥しがちで、少し前までは、庭の草取りなどなどで顔を合わせていた機会も、晩年はなくなっていましたので、どこか別離は自然なこと、という思いも強かったのでした。
次に訪れた身近な人間の死は、平成十一(一九九九)年の姉の死でした。三歳年上の姉は、ピアニストで、日本でデビューした後、ドイツ(当時西ドイツ)ミュンヘン音楽大学に留学、ソリスト・ディプロマを得て卒業、日本とドイツの間を往来する日々のなかで、ドイツで音楽大学の教授と結婚(夫人を割合早く亡くされて、再婚の方でした)、彼の地、日本双方で、演奏活動をする一方、達者になったドイツ語を駆使して、K・ベームが率いるドイツオペラ・ベルリンが一九六三年日生劇場こけら落しを記念して来日したときは、専属の通訳として、帯同したほか、ドイツ国立のドイツ語の正規の教育機関としても知られる<Goethe Institut Japan>で教えたりもしていました。
夫君が亡くなった後、平成九(一九九七)年、日本に戻っている間に下行結腸癌が見つかり、手術、人工肛門などの処置を受けました。その手術の最中、廊下で待っていた私に、手術室から出てきた助手が、手を洗って白衣を羽織って中へ入って下さい、という。何事かととにかく入室すると、手術台では、開腹された患部が広げられたままで、執刀医が言うには、ご覧の通り癌が躯幹中心の大動脈の周りに張り付いています、剥がして切除せよ、と言われればやりますが、下手をすると大出血を起こして、取り返しがつかなくなる危険もあります、どうしましょうか、と言われるのです。「御覧の通り」と言われても、素人の哀しさ、どこまでが正常な組織で、どれが癌組織なのかさえも判然としません。まして「どうしましょうか」と言われて、「それじゃあこうして下さい」と言える筈もありません。こういう切羽詰まった時に、形式的なインフォームド・コンセントを振り回されても、患者側としては困惑するばかりです。切除しない、とすればどうなるのですか、と辛うじて問い返すと、このままそっと収めて、人工肛門の回路だけ造ります、それでも余命は三か月、という宣告。でも悪い方の道を選んだ時には、そのまま死を迎えることにもなりかねないわけですから、私としては、取りあえずは「無難な」途を選ぶ思案しかありませんでした。人工肛門造営でも、余命は三か月、結局、この選択を私は、結果的に姉に強要したことになります。それが彼女自身にとって、望ましい選択であったか、永久に判りませんが、その選択の最終責任が私にあったことは、卑怯にも、私は姉には告げませんでした。
この頃、所帯としては別でしたが、姉は、私の家族や母とも一緒に住んでいましたが、姉の心配よりも、むしろ九十五歳だった母への打撃の方をより心配したのは、姉には申し訳なかったと思います。隠し通す自信もなく、姉も合意して手術に当たって母へ伝えた時、一瞬顔色が変わりましたが、それ以上何も言わず、母は沈黙を守りました。どう受け止めてくれていたのか。これも今となっては判りません。
姉の手術後、遠方の私の知り合いの大腸癌専門医まで同道して、再診をお願いしたりもしましたが、そのセカンド・オピニオンも、これ以上打つ手はない、ということ、それでも、宣告より一年近く長く生き永らえて平成十年暮れ、とうとう入院し、見舞うのも流石に三が日は遠慮し、明けた後二回目の見舞いから帰った翌一月九日早朝、病院から「来てください」との電話があり、慌ててとんで行ったときには、もう亡くなっていました。帰って、母に「いけなかった」と報告した時も、教会での葬儀ミサに出席した時も、母は涙を見せませんでした。母はミサでは、気丈に弔問の方々に応対もしてくれていました。その後の日常で、暫くは無口で話をしなくなったことが、母の悲しみの唯一の表現だったように思います。そんな母の前で、こちらが泣くわけにもいかず、結局は、ここでも涙抜きの別れになりました。
その母は、それからほぼ十年、生きていました。所謂認知症の症状はなく、ときどき、私を、子供の頃一番可愛がってくれた直ぐ上の兄と取り違える、というような小さな時間の錯誤はありましたが、それを除けば最後まで精神は正常でした。ただ、私も連れ合いも仕事で家にいることが少ないので、ヘルパーを頼みました。とても親身になって、最後の頃は何か月も、泊まって面倒を見て下さる方に巡り合えたのは、その方への感謝とともに、幸運に恵まれたことへの感謝も深かったと思います。
もっとも、その母は、亡くなる二十五年ほど前に、一度自宅内で転んでいます。大腿骨頭骨折ということで、近所の整形外科病院に入院、手術を受けました。術前の数日間、脚を吊り下げて固定したまま、殆ど身動きができない状況だったのがよほど堪えたのでしょうか、暫くは、精神に異常をきたしていました。こんなところにいると殺される、とか、財布を盗んだ人がいる、などと、妄想をベッドから私にそっと訴える。「完全看護」が建前なので、付き添いは消灯時間には帰らなければなりません。早朝病院から電話で、私たちでは手に負えないので、家族の方来て下さい、と言われて、駆け付けると、気が立っているのか、私の顔も判らず、肩に手をかけたりすると、激しく抗って平手打ちをされたりすることも重なりました。その頃は、まだアルツハイマー病も、認知症も、それほど話題にならない頃でしたが、母の精神は完全に壊れた、と自分に言い聞かせる毎日でした。一月ほどの入院が終わって、漸く帰宅でき、家族と暮らすうち、異常な精神状態は幸いにも少しずつ落ち着いて、半年ほどの間に完全になくなりました。病院の日常が如何に母にとって苛酷だったのか、と思いました。三年後、もう一度同じ骨折をしたときは、前に懲りて、特に病院の許しを得て、夜は母の病室にベッドを入れて、私か姉が泊まり込むことにしました。三週間ほどで退院でき、今回は精神に問題は全くありませんでした。ただ、高齢のこともあって、日常車椅子を使った方がよい、ということになり、家庭内でも車椅子の生活になりました。その頃からヘルパーをお願いすることになったわけです。
その母には、もう一度ヒヤリとさせられたことがあります。丁度百歳のころでした。私は出張で広島に出かけていました。ヘルパーから出先に電話があって、母が昨夕から吐き気が強く、掛かりつけの医師に診断を請うたところ、イレウスで、即刻入院手術が必要とのこと、出張先の仕事は丁度終わっていたので、急遽飛行機を変更して帰京、そのまま病院へ駆けつけたところ、丁度手術が始まるところで、看護師が廊下にいた私に声をかけました。何分患者が高齢なので術中何が起こるか判りません、ずっと立ち会って戴きたい。医療関係者でもないのに、手術中の手術室に呼び込まれる二度目の体験でした。また白衣を着て、帽子を被り、最初から最後まで、部屋の片隅で固唾を呑んで、開腹手術の一伍一什を見守ることになりました。大腸の患部を十センチほど切り取って、標本板に張り付け、切り口を縫合した後は、大量の微温湯で、腹腔内を洗い流す(後で聞いたところによると、微温湯には抗生物質が仕込まれていて、殺菌の意味もあるが、手技で荒らされた腸を水の勢いで常態に整復する意味もあるとのこと)ところまで、すっかり見届けて外に出ました。外で標本板を見せてくれましたが、板上の切片は、黒ずんで、素人目にも、如何にも腐敗した組織様に見えました。この時は二日後には家に帰って何事もなかったかのような日々に戻りました。
百五歳の誕生日を祝って丁度二か月後、朝食を一緒に済ませ、「行ってきます」と別れて出勤した日の午後二時ころ、ヘルパーから電話がありました。昼ご飯を食べて、それじゃ昼寝をするから、とベッドに入って一時間ほど経って、様子を見に行ったヘルパーが、息の絶えた母を発見したのでした。寔に理想的な最期だったように思われます。むしろ悲しみよりは、褒めてやりたいような別れでした。
妙なことを付け加えるようですが、姉と母の別れの間に、ちょっと異例の死別の体験がありました。別項で述べたかつての奇妙とも言える小学校生活のある日、一人の新しい級友が加わりました。私たちが通っていたF先生のご自宅から、徒歩で五分ほどのところに、小説家の丹羽文雄氏の居宅がありました。その長女の桂子さんが、同じクラスに通うことになったのです。とても闊達で魅力的な女子でした。私は、真っすぐに書きますが、彼女に異性として特段の感情を抱いたことはなかったのですが、と言うよりは一種高嶺の花のような存在でしかなかったのですが、級友たちは何故か私たち二人を纏めては揶揄ったりしました。雛祭りには豪華な雛段を拝見にお宅に伺ったこともありました。その時は、御両親にもお目にかかりました。桂子さんは成蹊大学の付属中学に進んだはずで、その後はクラス会で会う以外は、接触点もありませんでした。
その後彼女は、毎日新聞社の社長の御子息と結婚され、幸福な毎日を送っているとばかり思っていました。ある時、『父丹羽文雄 介護の日々』(中央公論社)と『父丹羽文雄の老いの食卓』(主婦の友社)という二著が送られてきて、彼女が苦境に立っていたことが判りました。「一卵性親子」と言われたほど、仲の良かった父と娘の間柄だったこともあって、その上文壇の大御所である父、その父が認知症を発症し、繰り返される深夜の徘徊、他者との異様な付き合いなどが重なるのを目の当たりにして、苦しい毎日の看護・介護を、殆ど一手に引き受けざるを得ない事情が生まれ、実際一時期は自身苦悩の余りキッチンドリンカーのような生活を送っていたこともあったよし、心配した瀬戸内寂聴さんの勧めで、書物を書くことを始めて、何とか健全な暮らしを取り戻したことなどが、添えられた手紙に淡々と触れてありました。性は違っても、逢えば肩を組んだりして、何となく古くからの同志のような気分でいた相手、どう慰めようもなく、何通か手紙を返している間に、彼女の訃報が届きました。朝食卓に向かって座ってこと切れている桂子さんが、家人の手で発見されたよし、血縁以外の、それでも意識の上では親しいつもりでいた人との、恐らくは最初で最後の突然の別れでした。忘れられない死。その時も涙はありませんでしたが。
ところで、生臭ながらも一応信仰心があるはずの私ですが、死後の世界をどう考えるか、と問われたとき、明解な答えができるか、怪しい限りです。自分の死後はちょっと措いておきます。父母や姉に関しては、彼らは頻繁に夢に現れます。夢の中では、ごく当たり前に、会話を交わしています。それもあって、彼らはいつも身近にいてくれているような感覚があります。それを、彼らの魂と呼ぶかどうかは、どうでもよいような気もするのです。
もう一つ付け加えれば、つい数日前の起き抜けに見た夢に、桂子さんが現れました。と言っても、彼女の御夫君にも、私の連れ合いにも、後ろめたい所はまるでありません。同じ場所に行かなければならないのに、道が判らなくて、お互いに右往左往している、というだけの不思議なエピソードでした。しかし、少し異例の、桂子さんの死の話題を上に付け加えて書く気になった理由の一つが、この夢での出会いでした。今でも時々は大事に思って一緒にいてくれる、そんな存在だったのか、そう思ったら、堅固だった私の涙腺も一瞬緩んだようでした。
死後の魂の在り方、さらに言えば、基督教信徒として、受け入れなければならない、「最後の日」に際しての身体の復活、という論点に関して、信徒としてのお前はどう考えているのか、日ごろ、自分自身に問いかけてはいますが、ひと様に堂々と明らかにできるような、確固とした見解は、この歳になってさえ、持つことが出来ないでいます。ただ、イギリスでは異例のカトリック、イエズス会司祭でもあった詩人ホプキンス(Gerald M. Hopkins, 一八四四~八九)ではありませんが、この世に存在したものは、どれほど小さな、取るに足らないと思われるものでも、神の記帳には、永久にその名を留める、という思いは、私の中にあります。