June 22, 2026
村上 陽一郎 yoichiro_murakami
1936年東京生まれ。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長、東洋英和女学院大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授、豊田工業大学次世代文明センター長、一般財団法人日本アスペン研究所副理事長。2015年に瑞宝中綬章受章。膨大な数の著書・訳書・編著を誇るが、代表的なものに『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全学』、シャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』などがある。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家としても活動中。
科学というのは、基本的に唯物論です。その知的系譜は、歴史的に見れば、デカルトの所論に行き着くと私は考えています。急いで付け加えますが、勿論デカルトが「唯物論者」だというわけではありません。デカルトの所論は、「物心二元論」であることは、全く紛れがない事実です。ただ、その「物心」のうちの「物」の方だけが、一人歩きを始めたのが、結局は科学の本質であった、という点は、これも紛れがありません。
念のためですが、デカルトは、『方法序説』(落合太郎訳、谷川多佳子訳、岩波文庫)のなかで、あの有名な「我惟う、ゆえに我在り」という宣言をいたしました。つまり「我」の存在は、「惟う」言い換えれば「心」の働きによって明晰判明に保証される、と言ったことになります。その際、彼は「我」の「身体」つまり「物」とは関わりなく、「心」は自立しているという意味のことを付け加えています。ではデカルトは「物」を無視したのでしょうか。
答えは、これも明晰判明に「ノー」です。彼は、上の議論に到達する前に、「物」の存在をこれもはっきりと保証します。「物」とは「(空間のなかに)広がっている何か」と定義します。ここで使われている術語は<extentio>です。通常「延長」と訳されます。
ただ、私見を付け加えれば、デカルトのここでの議論には不備があるように思われます。もともと<extentio>というラテン語は<extedo>という動詞に由来し、「腕や足を伸ばす、鳥や昆虫が羽を広げる」という意味をもっていました。現在の英語<extend>でも「手足を伸ばす、翅翼などを広げる」という説明が基本です。何が言いたいかといえば、「伸ばす・拡げる・展げる」という言葉が前提としているのは、「空間的」な次元での議論だ、という点です。「物」は「空間の中である広がりを持つ」からこそ、私たちは目で見て、あるいは触ってみて、あるいは叩いて音を「聞いて」、「舐めて」みて、その存在を明らかに確認できます。しかし、話がそこで止まってしまって、問題はないのでしょうか。
例えば「たばこの煙り」は、確かに原子論的には、煙の粒子が空間に存在することで確認できるわけですが、「煙」そのものとしては、一瞬たりとも同じ状態で「空間の中に広がって」はいません。現代の素粒子論では、1秒の何億分の1という「刹那」にしか存在しない粒子の存在が前提されている、ということです。それでも、仮令何億分の1秒でも、時間という次元の中で、ある幅だけは、それが広がっていることは確かでしょう。つまり0秒しか時間次元で「広がって」いない「物」、あるいは時間次元では0秒間だけの広がりで、なお空間のなかに広がっている「物」なるものは、「物」とは言えないのではないでしょうか。
言いたいことは次の点です。デカルトは、ほとんど無意識のうちに「延長」という概念を空間次元のなかだけで考えていたように思われますが、「物」とは「時間・空間のなかに広がりを持つ何かである」と定義しなおすべきではなかったか、と私は思います。
話が脱線しました。とにかく「もの」とは「広がり」を持つ何かです。そうだとすると、「もの」は通常の感覚を一つでも備えている存在にとっては、感覚を使ってその「存在」を確かめられる何か、です。もう少し通常の言い方をすれば、「もの」とは、客観的(主体の働きからは離れた形で)に存在する、と言い換えることもできましょう。それも、時間と空間という次元を前提として、という条件がつきます。
ここで一つ結論めいたところにたどり着いたと思います。科学とは、「物」が時空のなかでいかに振舞うか、を追求する学問である、としてみては如何でしょう。もう一度デカルトを引き合いに出せば、デカルトが「物」と「心」の二元論を展開しようとしたのを受けて、科学は、その中から「物」一元論で勝負をしようとした、と理解できそうです。
実際、科学は人間の「心」には一切立ち入りません。例えば「心」を扱う心理学は、今立てた定義に従えば、未来永劫科学にはなれない学問だ、ということになります。
実際、アメリカの心理学者J・B・ワトソン(John B. Watson, 一八七八~一九五八)は,一九一三年に行った講演で、「行動主義」(behaviourism)宣言によって、心理学が「心」の学問であることを諦める、という立場を明らかにしました。確かにデカルトは「我惟う、ゆえに我在り」で、自己の存在を確証し得た、と考えました。しかし、原文のフランス語<Je pense, donc je sui>にしても、そのラテン語版<cogito ergo sum>ならばより鮮明に判るように、この文章は決定的に「第一人称単数現在」形です。特にラテン語の場合、動詞の人称変化は極めて定型的で、主語の代名詞などは省略されています(なくても、だれの発言かが動詞変化で明瞭なので)。そうだとすると、デカルトが証明して見せたのは、第一人称(単数現在)の「惟い」(心)だけで、それ以上のことは、何も言われていないことになります。例えば親しかった友人のメルセンヌに関してはどうでしょう。<Mersenne pense, donc il sont>は、<Je pense, donc je sui>からは、ラテン語式に言えば、<Mersenne cogitat ergo est>は、<cogito ergo sum>からは、論理的に導き出されるはずはありません。つまり第二人称、第三人称に関しては、デカルトは何も言ってはいないし、言ったことにもならないのです。
では私たちが、第二人称、第三人称に関して「心」あると見做すとき、実際には何を見、何を感得しているのでしょうか。私が、私にとっては第二人称、あるいは第三人称である(決して第一人称にはなれない)私の子供が喜んでいる(喜びの「心」を抱いている)と判るとき、実際に私が見、聞きしているのは、子供の喜びの表情であり、子供の発する嬉し気な言葉です。つまり、子供の「振舞い」(行動=behaviour)に過ぎません。子供の「喜びの心」は、「物」とは違って、目でも見えませんし、叩いて音を聞くこともできませんし、舐めて味わうこともできません。まさしく、心理学を客観的な科学とするには、「心」理学を止めて、「行動」理学にしなければならないことになります。
上の議論で得られた結論は、こうなります。「心」は第一人称単数現在では、明証的にその存在を言い立てることができるが、その縛りから一歩外へ出た瞬間に、誰も、その存在を立証することは不可能なのです。無論、デカルトもメルセンヌも、同じ人間、私も子供も同じ人間、そして人間同士であれば、「私」つまり第一人称単数現在で確認されている「心」を、第二人称、第三人称の(私と同じ)「人間」にも当てはめてよいではないか。普通は、そう考えて、疑問なく暮らしています。いや、この話は、もっと広がります。愛犬は、私が外出から帰ったとき、千切れるように尻尾を振って飛びついてきて、顔を舐めます。如何にも嬉しそうです。では人間ではない、この犬も「嬉しい」という「心」を持っているのでしょうか。多くの人は、そうだ、と考えています。では、さらに話を広げてみます。飼っている小鳥は、目の前の草花や樹木は……、そしてロボットは。そこまで行くと、肯定する人と否定する人とが分かれ、その比率も、否定の側が次第に多くなるでしょう。
実はデカルトは、すでに『方法序説』の中でロボットの話をしています。いや、「ロボット」という言葉は、デカルトの時代に存在しないはずではないか。その通りで、この言葉は、チェコの作家チャペック(Karel Càpek, 一八九〇~一九三八)が一九二〇年に発表した戯曲『R.U.R』の中で使い始めた言葉です。デカルトが使えるはずはありません。でも『方法序説』の第五部で、彼は理性を持たない動物、例えばサルの外形によく似せた機械があるとして、我々は、本物のサルとサル機械(今ならサル・ロボットと言えましょう)とを区別する方法はない、と明言しています。
しかし、それならば、親友メルセンヌも、彼を王宮に招いて哲学問答をしかけたスウェーデンのクリスティナ女王も、メルセンヌ・ロボット、クリスティナ・ロボットではないと、どうしてデカルトは言えるのでしょうか。そこは、デカルトは、次のように述べています。人間は、如何に愚鈍に見えるような人でも、神に由来する理性を備えた存在で、それを確かめるには、言葉を創造的に使うことができるところに着目すればよい、というのです。ここでもデカルトは慎重で、機械に(ロボットに)言葉を操らせることは可能だと言います。しかし、それは現代風に言えば「プログラムによって」(デカルトはその言葉は使いませんが)自動的に行われる言語活動で、人間の場合のように「自覚的に」行われるのではないから、区別はつくはずだ、というのです。ここで「自覚的」という「心」のカテゴリーに属する概念を持ち込むのは、論点先取の誤りに近いとは思いますが、デカルトが言いたかったことは判ります。
ただ、いずれにしても、「心」がその存立を無条件に確かめられる第一人称を除いては、極めてあやふやの性格のものであること、従って、科学はそれを問題にしたがらない、という結論も、一応納得できるのではないでしょうか。
したがって、と言えるかどうかはともかく、科学が「生きている」ことを定義しようとすると、最初から「心」にかかる側面には、一切関わらない、ということになります。
科学は「生きている」ということをどのように定義するのでしょうか。一つの重要な要件は「代謝」という現象です。そもそも生き物には、内と外との区別があり、それを隔てる境界壁があることになっています(それが生き物の第一の要件でもあります)。最も小さな「生き物」である細胞でも、細胞膜という境界壁によって、内と外とが区別されるように出来ています。第二の要件となる代謝とは、外側の物質を内側に新しく取り込み、逆に内側のものを外に排出する働き、と考えればよいのではないでしょうか。そして第三の要件とは、自分と類似の物質系を産出する、つまり子孫を残すという点でしょう。逆に見れば、すべての「生き物」は、親に当たる世代の存在を前提としています。「すべての生命は生命から」という有名な格言がそのことを伝えています。
もっとも、この点を認めた瞬間に、厄介な問いが生じます。では地球上の最初の生命は一体どのような「親」を持っていたと考えればよいのか、という問いです。今の科学は、この問いに完全な答えを持っていません。最も安易な、しかし、もっともらしい答えは、地球外から隕石などによって生命の種が運ばれてきた、とするものです。この答えは地球外に答えを先送りしただけですが、しかし、今でも、地球における生命起源説の重要なものの一つです。ほかには、地球の歴史のある時点で、巨大な隕石の落下などかなり過激な激変の出来事があって、その時偶然に生命体の元祖が生じた、というものです。つまり、通常の自然環境の中で、生命体が突然に発生する、ということは、すべての生命は生命から、の原則に反するので、受け入れられないとすれば、当たり前でない自然環境を前提にしなければならない、というところから考えられた仮説です。
もう一度確認します。科学的、あるいは生物学的に「生きる」ことの中に、「心」が入り込む余地はありません。従って「死」も、単に、上述の代謝・生殖という「生きている」ことを証明する機能が失われる、ということにほかなりません。伝統的な死の定義は、心拍の停止と呼吸の停止(ニュースなどで言う「心肺停止」状態)、それに瞳孔の散大を以てする、ということになっています。もっとも、臓器移植を前提にした「脳死」の判定基準では、心拍が停止した状態が続けば、諸臓器の細胞が、代謝が出来なくなって死んでしまい、移植に利用できなくなりますので、心拍の停止という条件は除かれています。代りに、脳波や脳幹反射を調べる、という条件が加わります。
とにかく、科学的な文脈では、生の喜びも、死の怖れも、別離の哀しみも、一切無縁の世界、ということになります。いっそ、さばさばして心地よい、と感じる向きもあるかもしれません。
別の言い方をすれば、その文脈の外に、私たちが「生きる」ことも「死ぬ」こともあるのが、厄介と言えば厄介なのです。ただ、その厄介を、運命として背負ってしまったのが、人間だ、ということだけは確かでしょう。